わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第5章 闇からの開放

 63 海          吉 田 美枝子

 海は茫漠としていて淋しい。そして、永遠にひらかれることのない未知なのだ。けれども私は海が好きであり、とりわけ夏の海は思っただけでも胸に動悸が打ってくるほどである。
 梅雨があがる頃になると、小さな島の療養所では、何処にいても潮の香がむんむん漂っているし、海際から離れている私の寮にも、風によっては強く、また、ほのかな寂びた匂いがただよってくる。そうした潮の香は、私の双眸にみなぎる青い海を彷彿させるのである。道を歩いている時でも、部屋にいて友人だちとお茶をのみながら話しをしている時でも、ツンと心を衝いてくる潮の香に、「ああ、海があるわ、潮が満ちているのかしら」と、つい言葉に出して言ってしまう。唐突な私の問いに、「さあー」と生返事されたりもするが、時にはそれがきっかけになって、海の話題、といっても友人の多くは男性なので、殆んどは釣りやサザエ獲り、タコ突きといった漁の話になってしまうのだが、それでも私には結構たのしいし、釣天狗たちの話しをよそに、勝手に私は私の心の海に浸ることもあるのである。
 私が生れたのも、そして、この療養所へくる15の時まで住んでいたのも海沿いの町であった。けれども私の家までは潮の香も、また海鳴りも届いてはこなかった。私の家からまっすぐ北が海で、海までは道路を隔てて鉄道工場があるだけで、他には余り高い建物はなかったけれど、私の家の二階からでも海はよく見えなかったように思う。距離にすればどれほどになるのか、子供の私にはとても近いように感じられた。その海を私達は「家中の浜」とよんでいた。昔その辺りにはお城の御家中の人々の屋敷があったからではなかったかと思っている。同じ瀬戸の海でもこの島の海とは遠って、ずっと沖まで遠浅で、潮の流れも緩やかで流される危険性はなかったが、広く長い海岸線ではなかった。それでも水産学校が建ち、測候所などもあった。また夏には海水浴場となって、20近いよしず張りの小屋も建つのである。私は1日何回かは海にいった。泳ぐのは余り上手ではなく、競泳のように激しく泳ぐよりも、静かにゆるゆる泳ぐのが好きであった。昼間は人が大勢いて、水際はいつも濁っているし、私の好きなようにゆっくり泳ぐことなどとてもできない。だから、大抵私の力の限り沖へ出て、ぽっかり仰向けに浮かんで波にゆられながら、少女の誰もがそうであるような甘い感傷に浸り、誰からも愛される、少々はおてんばな美しい娘になりたい、女学校を出れば女高師へいって……などとあれこれ思ったりもした。また何も考えないで、快く冷たい青い海を背にしてギラギラとまぶしい空に眼を細めて、冷たい青さと熱く光る青との間にぴったりとはまりこんだりした。しかし、私の力で泳いで出る沖は遠浅のせいもあって、浮かびただよいながら次第に岸に押し戻されるので、空想はそんなに長くは続かないで、すぐに人のあげる水しぶきの中へ引き戻されるのである。朝旱くや夕方は割合静かで、そして水もきれいなので気持よく泳げた。けれど私は臆病なので余り人のいない時には沖へは出ず、渚に沿ってしか泳げなかった。そんなふうに何時も一人でばかり泳いでいたわけではなく、母の監督で妹や弟と一緒に泳いだり、友達とリンゴの奪い合いなどしたこともある。考えてみると大方は一人ではなかったのに、今思い出すのは不思議に一人で泳いだときの、柔軟な、それでいてさわさわとした海の感触である。
 私がなんとなく海を懐しみ、愛するようになったのは、3つか4つの頃からではないかと思う。まだM市にいた頃で、私の家の近くに一人の少年がいた。たぶん小学校6年生くらいではなかったかと思うが、顔も名前もはっきり覚えていない。私を可愛がってくれ、私も、お兄ちゃん、お兄ちゃん、といって甘えていたらしい。その少年が学校から帰ると、家の裏で木片を集めてはカンカンやっていた。私はその傍にいって「お兄ちゃん何すんの?」と聞く。少年は「ううん、お舟--」といい「出来たら乗せてあげるよ」という。私は至極御満悦で「ウン」といっては、また同じ問いを毎日繰り返していたようであったが、出来上ってゆくのは長い箱のようであった。
 夏にはまだ早い頃で、5月か6月頃だったろうか、私が少年の家に行くと、少年はいなくて箱のような舟もなくなっていた。その日の夕方、少年は自分の作った舟に乗せられて死んで海から帰ってきた。私も母に連れられて浜へ行った。砂浜ではなく埋めたてられた野っ原がひろがっていて、真赤な夕焼の空と海であった。その中を船に乗せられたまま少年はかつがれてゆき、人々は後に従った。幼なかった私には、死というものの意味もわからず、恐怖もなかった。だから「お兄ちゃんは何処?」と聞くと、「お舟に乗って海のノンノンさんになったんよ」と母に言われて、疑いもしなかったし、すぐに忘れていった。その年に、父の仕事の失敗からT町の祖母の家に引揚げたのであるが、あの夕焼けた広い空がかぶさった海と野っ原とは鮮やかな記憶となって残っている。
 海に囲まれた島に住むようになって満20年になった。島の周囲の海は、見えなくなった私の眼にもはっきり写すことができる。しかし、今の私には、海の懐しさ優しさと共に、完全にひらかれない冷酷さ、非情さも知らされたのである。海は私を一人にして放り出し、輝き、あるいは暗く澄み透って流動し、流動してゆくのである。海はほんとうに渇いていて淋しい。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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