閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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終章
 島の明日

 23 明日へ向けて

 第2回支部長会議(28年9月)では、患者が行なっている作業のうち次の業務は職員に返還し、患者の労働過重を軽減することを決定した。①看護面の業務一切②治療面の業務③給食、配食一切④衛生面の業務⑤営繕面の業務⑥理髪⑦学校教師。この決定にしたがって患者作業を年年すこしずつ、返還していった(別項参照)。
 作業返還がつぎつぎ行なわれるなかで一つだけふやされた作業があった。それは「高齢者訪問係」である。これは大西前園長の発案になるものであるが、自治会もその必要性を認め実施に踏みきったものであった(52年1月)。
 47年2月の調査では、入園者の平均年令は53・9才。高血圧症状をもつ入園者がふえ成人病が問題になっていた。その予防策の第一歩として、この年の1月から老人食、耳ざわりが悪いので「長寿食」として減塩食を出すことになった。「水っぽくて食べられたもんではない」と抵抗もあったが、検査のたびの血圧の高さには勝てず「長寿食」もしだいに定着してきた。
 この年、4月に入って間もなく、65才以上の者で高松市鬼無町のポックリ寺参りを実施した。ポックリ寺とは縁起でもない、と周囲の者は眉をしかめたが、該当者たちには意外に好評だった。「信心するほど善人じゃないが、ゆく時はポックリがえいからのお」と友人を笑わせていた。身内がいない療養所では、下の世話をしてもらい、いつまでも嫌がられながら生きるのはつらいという思いは、世間一般よりいっそう強いのだった。
 この年は老人クラブ結成の準備段階の年で、翌48年6月、星塚支部からの呼びかけを機に老人クラブが結成された。クラブ名は会員から募集し「百寿会」と命名された。
 百寿会は民謡クラブや浪曲を聞く会など開いたが会員が集まらず低調だった。初期の百寿会員は在園年数も古く特重、重不自由寮の寮員が多く不自由者センターから出ようとしない者が殆んどだった。一方、軽症者の中には、百寿会への入会公表さえ嫌がるほどで、これらが会活動の低調の因をなしていた。
 入園者は寝たきりになる最適の条件を持っている。盲目のうえに知覚麻痺、手足に傷ができやすく、後遺症である障害がある。せめて指に知覚があれば、指先で何らかの仕事ができれば生活にハリがあるのだが、無念だがそれが無い。しぜん体を動かすことが億劫になりがちである。体を動かすことが老化を緩和させる最適な療法だがそれが難しい。ともかく歩ける者に歩いてもらおうということで49年2月に不自由寮の歩こう会を実施、3月にはラジオ体操を不自由者センター内で実施、以後、園内放送でラジオ体操を録音したものを午前八時半からながした。が、時日の経過とともに尻すぼみ、何ごとも長つづきしないのが大島の特徴のようだ。
 こんな時期に高齢者訪問係の話がもちこまれた。個室に閉じこもって同僚とことばも交そうとしないでぼんやり時を過す高齢者がボツボツあった。これらの人を主眼に訪問し、話し相手になり話しを聞いてあげるのが役目である。内向的な者が多く白衣の職員にはこころを開こうとしない人である。同じセンター内の者とも話しをしないのだから、訪問係でどれほどのことができるか分らないが、ともかくやってみようということで開始したものである。今も地道な訪問がつづけられている。
 おなじころ健康管理科をつくり、高齢者の健康はどのようにしたらよいのか、それらについて分かりやすく話すよう自治会から担当医師に働きかけ、園内放送をとおして半年間つづけられた。また健康管理科では年1回集団検診を行ない、自覚症状のない成人病の発見に努めている。
 最近では高齢者がふえ(百寿会会員数174名)百寿会員にも軽症者が加わってきて、輪投げ大会、カラオケ大会など会活動も盛んになってきた。軽症者が加わったことが活気を生みだす因になったことは事実だが、これまで実施してきた高齢者対策が実りはじめたことも見逃せない事実である。しかし、こうした表面に現われたはなやかな動きの陰に、寝たきり老人、老人呆けの者の数も着実にのびてきている。今後とも高齢者対策はますます重要な問題になってきている。

 50年3月29日、高松市文化センターで「香川の医療をよくする連絡会」の結成式が開催された。大島からは支部代表として自治会会長、副会長外3名が出席した。
 「香川の医療をよくする会」は県下の各種患者団体、全患協大島支部、県患者自治連合会、人工腎臓友の会、森永ミルク中毒のこどもを守る会県本部などや、支援の勤労者医労協などの民主団体を加えた12の加盟団体からなる会である。
 48年秋、県患者自治会連合会(略称県患)会長から大島支部に対して、これまでの医療は医療施設の医師や自治体が中心であって、受ける側の意見が十分に反映されていない、患者が連合をつくって患者の意見を取人れさせるようにしたいから加盟しないか、と申入れがあった。これに対して大島支部は、香川県下の医療がよわい立場の患者本位になることは決して無関係ではない、近い将来大島支部の会員も受診することもあるだろうし望ましいことであるまた予防法斗争では日患同盟をはじめとして諸団体の支援をうけている、患者側の連帯こそ大切である、と早々に了承、加盟した。
 最初の段階は大島支部と県患、それに県身体障害者協会の3団体で連合し、49年春ごろから医療の適正化を要求してきたが、3団体だけではあまり効果が望めないことから、県患の会長らが世話人になって、他の患者団体や民主団体に呼びかけ、大きな統一組織をつくったのだった。
 これまでの目立った運動は対県交渉6回、署名運動2回、カンパ1回である。このう.ちカンパは参加団体の中で最高額で、これは入園者と園職員の共同で出したもの、カンパ人員も最高である。会員として当然のことをしたにすぎないが、他の障害者団体のためにも役立っていると思うとやはりうれしい。
 54年11月、県知事交渉に提出された医療に関する統一要求書の中から入園者に関係あるものを抄出しておく。
 一、難病、長期療養者の医療、生活保障と人権の尊重。
 一、ハンセン氏病患者の成人病について、県立中央病院での通院、入院治療を認めよ。
 一、国立医科大学において、ハンセン氏病患者の治療ができる体制をつくれ。
 一、障害者、難病、ハンセン氏病患者への社会的偏見、差別をなくするための積極策をとれ。
 一、老人、身障者のバス、電車の無料化を図り、老人、身障者手帳だけで乗車できるようにすること。国鉄は100km以内の半額を認め、特急、急行料金の半額、内部障害者の半額を認めること。
 なおこの間の運動で、生活困窮者、老人障害者への生活補給金を夏、冬に分割支給、身障者扶養共済制度助成の拡大、重度身障者医療費の拡大などの成果をあげることができた。

 養護学校義務化をひかえた52年9月27日、高松市野田会館で「障害者を語る会」が開催された。大島は支部事情で出席できなかったが、中心となる団体は県患、生活と健康を守る会、香川県スモンの会、そして全患協大島支部など「香川の医療をよくする会」とおなじ団体で、他にかしの実会、四国太陽の家、脳性まひ親と子の会、香川県車椅子汽車旅行の会などの障害者団体、あわせて17団体の連合体である。この会は後に「障害者の生活と権利を守る香川県連絡協議会」略して障香連と改称する。
 この会の目的は会名が示すとおり、加盟団体が協力して障害者の生活と権利を守ろうというのである。一般障害者も入園者ほど深刻ではないが、健常者社会から差別され疎外されている。小さな違いには目をつぶって、共に手を取りあって差別のない社会を目ざして努力できることは喜ばしい。全患協大島支部は観光バスのチャーター問題、里帰りの宿泊所問題を提出している。
 最近は活発な障害者運動で、大きな障害(後遺症)をもった入園者も高松市に出やすくなった。市内で車椅子の障害者に出会うことが多くなったが、そのたびに仲間を得たような心強さ、ともすれば引っこみ思案になりそうなこころに勇気を与えられる。今後も共に励ましあって前進したいものである。

 中央道路の南端、治療棟の北側にしょうしゃな新病棟が完成した(47年7月)。クリーム色の壁にしずんだ赤なす色の屋根が碧空の下にしっとりとした落着きを感じさせる。
 この新病棟にはスチーム暖房が取りつけられ冬でも寒さしらず、治療の好転と相まって死者が激減し、療養所はじまって以来初めて1ケタになった。死亡率は1パーセントやっと一般世間なみになった。入園者はこれを話の種にし、時代の変化をしみじみ感じた。
 新病棟が完成するすこし前から、医師の交替がはじまっていた。京都大学から若い医師を迎えることができた。口の悪い連中に言わせると「医者の養老院だ」と。が、それは医師の年令だけを云々しているのではない。いたずらに医師の権威をひけらかし、入園者を人間として見ず、昔ながらのらい患者として扱うのが腹立たしかったのである。その点、若い医師は違っていた。それが如実に示されたのは往診の時である。若い医師は冷たい廊下をスリッパなしで駈けつけ、かつてのようにゴザを敷かせ長靴であがって入園者の心を踏みつけにするようなことはしなかった。老いた入園者ははだしの医師を見るだけで涙ぐみ、今日まで生きのびたことを感謝した。
 整形医も着任し、希望者には垂手、垂足、垂足から生じる変形足もつぎつぎ手術が行なわれた。入園者の高齢化がすすみ白内障にかかる者も多くなったが、善通寺病院から新技術を持った医師が招へいされ、手術の結果、盲目の世界から多くの者が救われた。本人はもとより周囲の者まで、わがことのようによろこび救われた。大西前園長が多磨に赴任したあと、整形医が長野に赴任し、京大からの2名の医師も島を去り、一時、火が消えたように心細かったが、自治会と新園長の懇請により整形医は2、3か月に1回、京大に帰った医師1名も月に2回は島に米て診てもらえるようになって一同胸をなでおろしている。
 50年6月、旧病棟跡に第二次の第一センターが完成した。第一センターは独身特重、重不自由者のセンターで四畳半の個室、暖房つきである。独立したトイレつきなので失禁にともなう陰しつなもめごともなくなった。51年には三畳のキッチン、独立したトイレつき、六畳ひと間の夫婦軽症寮が、53年2月独身中、軽不自由寮の六畳ひと間、トイレつきへの模様替え、同年12月には第二次の第二センターが完成した。キッチンつき六畳ひと間、トイレ、暖房付の夫婦持重、重不自由寮である。54年、夫婦半不自由寮の新改築、55年、独身中、軽不自由寮と夫婦軽症寮の新改築が行なわれた。残るは、独身軽症寮と独身中、軽症寮の新改築だけ、住宅の整備も進んできた。
 新改築した寮舎に入ったある者は、広島市への旅行記の中で「いまが一番いいときだろうなあ」と、夫婦で語りあっている様を青松誌に書いている。戦後間もないころ、食べることにいじましく目を光らせあったこと、結節や熱こぶに悩まされた時代、幾組かの夫婦ザコ寝などをふり返り、また軍備拡大へ向かっていく世相を眺めながらの感想である。
 今なら体の調子さえよければ旅行もできる。高松へ買物に出かけても温かく迎えてもらえる。手が不自由(指が利かない)な者は財布が入った買物袋をあけて銭を取ってもらう。「お客さん、財布をあけてもいいの?」 「ええとも、じゃけんど余計とったらいかんでえ」「お客さん、そんなあ……」「あっはは、冗談、冗談」。こんなやりとりもあり笑い話になっている。島の最近の流行(はやり)ものは、ゲートボールに黒松などの盆栽づくり、さつきづくり、書道会、カラオケである。何でも長つづきしない大島で、さつきを含めた盆栽づくり、ゲートボールは不思議に長つづきしている。それぞれに自分のいのちをいとおしみ着実に生きようとしているのだ。
 いま、入園者の平均年令はちょうど60才、高血圧、血管障害でたおれたあとの寝たきり患者がふえてきている。またガンに侵される者も出てきた。これら成人病にかかった者は京大へ連れてゆきそこで治療してもらっている。昨年からは宇治市の曽根病院でも成人病の治療をひき受けてもらえるようになった。しかし、これはあくまでも京大、曽根病院の好意によるものである。一方、治療を受ける入園者は、できるなら大島で、それができないならばなるべく近くで、と願っている。自治会はそうした会員のねがいを酌みとり、県立高松中央病院へ通院、入院治療させてくれるよう働きかけている。
 他の病院への委託治療にはちっとした問題がある。他の支部で起こったことであるが、社会復帰者が事故で最寄りの病院へ治療にゆくと、らい予防法を盾に治療を断わられ、その支部へ治療に戻ってきたというのである。この問題について二つの相反する意見が全患協の中に出てきた。その一つは、この際時代錯誤のらい予防法を、現状に合った予防法に改正し、どこでも文句なしに治療を受けられるようにすべきだというものである。一つは、現在のように大部分の者が菌陰性になっておれば、現予防法でも他の病院での治療を禁止していないのだから改正の必要はない、今さら予防法改正などと騒いで、家族の生活を乱さないでくれ、というのである。
 これらの問題をバックに「将来構想委員会」が出発した(55年3月)。主題の一つはらい予防法問題について、一つは入園者が次第に減っていく療養所では医師の確保が難しくなるが、今後の成人病治療はどうするのか、地元近隣の病院へ通院または入院治療する方向へ向かうのか、あるいは長島に医療センターができることになっているが、その医療センターヘ向かうのか、この二つの問題について討論し、会員の意向を探りながら結論を出そうというのである。会員の一人一人もまたこの二つの問題について結論を出すべく、いま、その選択を迫られている。

全国ハンセン氏病療養所所在地

名 称

所在地

◎国立(13)

松丘保養園
東北新生園
栗生楽泉園
多摩全生園
駿河療養所
長島愛生園
邑久光明園
大島青松園
菊池恵楓園
星塚敬愛園
奄美和光園
沖縄愛楽園

     私立(3)

身延深敬遠
神山復生園
琵琶崎待労園

青森市大字石江字平山
宮城県登米郡迫町新田
群馬県吾妻郡草津町
東京都東村山市青葉町
静岡県御殿場市神山
岡山県邑久郡邑久町虫明
     〃
香川県高松市庵治町
熊本県菊池郡合志町栄
鹿児島県鹿屋市星塚町
鹿児島県名瀬市有屋町
沖縄県名護市済井出

 

山梨県南巨摩郡身延町
静岡県御殿場市神山
熊本市島崎町

死因別死亡者数調べ(S.44.1.1~53.12.31)

年次

死因

44

45

46

47

48

49

50

51

52

53

肺 炎

4

5

1

3

1

2

2

1

4

1

24

脳溢血

1

3

2

1

1

1

1

10

肺結核

1

1

1

1

4

老 衰

3

3

2

1

9

事故死

1

1

1

1

1

1

2

1

9

心臓疾患

2

2

2

1

1

1

2

1

1

13

3

2

3

2

1

4

4

19

化膿性骨髄炎

1

1

慢性肝炎

1

1

腎孟膀胱炎

1

1

気管支炎

1

1

2

肺壊疽

1

1

腸 炎

1

1

尿毒症

1

1

脳栓塞疽

1

1

2

脳軟化症

1

1

腹膜炎

1

1

腸閉塞

1

1

敗血症

1

1

1

3

肝硬変

1

1

2

肋膜炎

1

1

消化管出血

1

1

2

19

14

17

7

8

6

11

9

13

5

109 

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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