閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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それぞれの歩み

 作業について

 「所内作業」とか「患者作業」とか呼ばれてきた「作業」の歴史は長い。その時代の状況を反映しての消長をくり返しながら、明治42年開所当時にはじまり、今なお存続している。患者が患者を看護り、重労働までして、療養所の運営を、患者の作業によって支えてきた。療養所は、患者の作業によってなりたってきたともいえる。安い賃金でも働かなければ一銭の収入も無いので、無理を承知で働いた。そして病状を悪化させ、手足が不自由になり、失明し、余病を併発した者も多くあった。だが、施設側は「青松園五十年誌」に、次のように記述している。
 「入所患者のうち軽症者は一般社会において何らかの労働に従事していた者が大部分であり、療養所入所後療養に専念しても、短期間に症状の好転をのぞみ得ないので、いたずらに無為に過してはかえって保健上弊害があると思われるので、開所当初より入所患者中の軽症者には本人の希望によって適当な作業に従事させ、その内容に応じて賃金を支給し、その賃金は小遣銭の財源となり、また作業は精神的な安らぎとなり、ひいては間接的に秩序の改善にも寄与するところが少なくなかった。50年間における所内の患者作業の役割についてみるに、それによって精神的或いは経済的な慰安の資としていたが、療養所運営に協力し、職員の不足によって起る種々の欠陥を補充するために、患者作業はなくてはならぬ存在となっている」
 医療管理は全くなされなかった。リハビリテーション的作業ばかりでもなかった。近年まで一作業期間は15日単位であったが、義務的に割りつけられる作業もあった(病室、不自由室看護など)
 「その昔、園内を廻っていた慰問者が、肥桶をかついでいる一患者を見て、ここであんなえらい仕事をする人はよほど罪の重い人ですか? ほんとにかわいそうにと、いとも同情的な面もちで案内の職員にたずねたそうである」(昭26年6月青松・志斧輝昌「肥桶」より)という話もある。
 肥桶を天秤棒でにない、坂道を登って山の畑の肥溜まで運ぶ作業である。最も人の嫌がる重労働であったが、誰かがやらなければならなかった。この作業は戦後、リヤカーで運び、さらにバキュムカーになり、現在では作業としては廃止されている。この他にも、現在廃止されているが、火葬作業、土工、看護、食事運搬など、療養者として考えられないような作業が数多くあった。
 こうした作業は、どうして始まったのであろうか。
 「明治22年にフランスの宣教師テーストウィード神父が、日本で初めてのハンセン氏病療養所「復生病院」を作ったが、その時入院していた20名ほどの患者が病院の経費不足の手助けとして、生活の糧はすべて自給自足で賄ったのが療養所における患者作業のはじまりであるといわれている」(全患協運動史)
 明治42年に開所した青松園の作業の起源についても、いろいろな説があるが、開所間もない頃、善良な患者が「毎日ぶらぶらしているのはもったいないから、病室や不自由者の世話でもさせて下さい」と所当局に申出たことにはじまる、という一説もある。
 中国、四国8県連合立の療養所として開所したものの、予算は乏しく、職員数も少なく、患者から手助けの申出があれば、当然のことのように患者作業として定着していったようである。正確な記録はないが、その多くは奉仕作業としてはじまり、昭和6年自治会創立後、本格的な作業として制度化されたように思われる。
 開所当時の作業はわずかで、次の種目であった(単価一日分)
  病室看護人三銭三厘   糞尿運搬入三銭三厘
  理髪入一人につき五厘  洗濯入三銭。
 その後、必要に応じて作業数を増減してきたが、賃金はあまり増額されず、平均して1日最低四銭、最高八銭の低
賃金の時代が昭和21年まで続いている。
 昭和9年当時の作業数は約250もあった。入所者は約600名であったから、約42%の者が就労していたことになる。働ける者は皆働いた。作業賃は当時、報酬といっていたが、それが唯一の収入源であったから無理をしても働いた。病室の看護を忌避したら、作業就労停止処分という制裁規定もあった。収入の道を断たれるのであるから、きびしい処罰となった。
 しかし経済的理由だけで働くのではなく、園のため、自治会のため、みんなのために働く、という意識も強かった。それは最近になって大分薄れてきたものの、相互扶助の精神は当時から今日までの自治会の金看板でもあった。だから、賃金が安くても働いてきた。
 賃金が安い最大の理由は、それを労働として認めず、当局は慰安的なものとしてみていたところにあると考えられるが、作業賃予算も少なく、明治42年度64円、昭和2年度140円、昭和8年度237円となっている。作業賃単価はあまり増額されていないので、作業数の増加にともなう予算増と思われる。
 昭和16年7月国立移管になって、すべてが国の予算に計上されるものと大きい期待を寄せていたところ、作業賃予算は全く計上されていなかった。戦時中であったとはいえ、当時の国の考え方が如実に現われている。園当局も自治会もあわてふためいた。園当局は再三、内務省へ交渉したが「予算形式は変えられない」として、取りあげてもらえなかった。そこでやむを得ず窮余の一策として、他の予算費目から、作業賃を流用、捻出することになった。その概要は次のようなむのであった(青松昭49年7月志斧輝昌「死に金」による)

 O医療費関係作業=病室看護、付添・不自由者看護・治療助手・薬配達・ホータイ、ガーゼ再生・担架車・下締洗濯等。
 ○食糧費関係作業=炊事助手・食事運搬・食事受取・野菜洗い・各所水揚げ・残菜処理等。
 ○各所修繕費関係作業=木工・金工・桶工・左官・畳工・道路修理工・土工等
 ○燃料費関係作業=薪挽割り・薪炭配達等。
 ○被服寝具費関係作業=衣類洗濯・布団洗濯等。
 ○慰安費関係作業=室長・自治会役員・手紙代書等。
 O傭入費関係作業=理髪・結髪・包布付け・大洗濯・風呂火夫・風呂掃除・構内掃除・会館掃除・井戸掃除・下水掃除・屎尿汲取り等。
 O埋葬費関係作業=火葬。

 それぞれに、関係のある予算に財源を求めた。蛸足方式というか、共喰い方式というか、四苦八苦のやりくりであるから、賃金はいつまでも安いままで据え置かれた。食費も作業賃に喰われて、それだけロで喰う分か滅った。「お国のために」、「欲しがりません勝つまでは」というかけ声で、空腹をかかえ、眼だけギョロギョロさせて働き、苦しい時代をくぐり抜けてきた。
 終戦後、内務省が厚生省となり、昭和22年になって初めて「作業賞与金」という名目で予算化された。甲1円20銭、乙1円、丙80銭、丁60銭であった。25年には甲15円、乙12円、丙10円になったが、物価高騰には追いつかず、いつまでもお涙金程度であった。その予算は作業数によって算出されず、軽症者の人員に応じて示達されたので、青松園の場合、不自由者が多く、一人で二つの作業をしなければ運営できなかったので、賃金も、特別にひくかった。戦後、瀬戸内三園の交流がはじまり、青松園の作業賃が愛生園の1/3であることが判り、問題になったこともあった。
 その後、作業賞与金の配布基準も変わり、昭和35年には付添い1日60円、一般作業19円であった。19円といえば当時のゴールデンバットわずか12本分。ハイライトは一箱70円の時代である。この年から年金受給者は作業をさせない制度になり、作業を統合するなどして軽症者の収入増をはかった。
 この頃から各園も全患協も作業賃増額運動を強めていった。作業返還問題についても論議されるようになった。昭和34年、全患協第四回支部長会議で「療養所内の作業は本来職員が行なうべきである」ことを確認し、それが実現するまで正当な賃金を要求することも決議した。
 34年から不自由者には国民年金(福祉)が支給されるようになり、軽症者は働いても不自由者より収入が少ない、という現象がおこり、作業賃増額と、働かないでも生活できる基本待遇の要求をかかげて、作業従事者会結成へと発展していった。そして46年には自用費方式による給与金が支給されるようになり、一応軽症者の基本処遇が確立された。
 その後「療養所運営に必要な作業の、施設への返還と、管理権移管促進」、「作業返還にともなう職員の増員」などの運動にとりくみ、少しずつ作業を施設へ返還して、現在に至っている。
 作業返還は49年頃から施設と話合い、促進されているが、入園者の高齢化と、不自由者の漸増により、作業就労希望者も減少し、好むと好まざるとにかかわらず、職員によっておこなうほかはない状況となったからである。
 昭和30年当時の作業で、その後生活様式、制度の改変等で廃止したもの、返還したものを整理してみると次のようになる。

 ○廃止した作業
  自治会書記 学校教師 少年少女寮父母 食事係 
  病室風呂係 漬物配達 テレビ係 担架係 山道掃除
  不自由者風呂入 下締洗濯 金工 桶工 電工 薪炭配達

 ○施設へ返還した作業
  病室看護 不自由寮看護 治療助手 理髪・パーマ
  洗濯 放送 郵便配達 包布付 綻縫 塵集焼却 
  食事運搬 結髪 爪切 木工 畳工 義足工 DDT撒布
  残菜処理 火葬 自動車運転 食缶洗 屎尿汲取 土工

 長い道のりを経て、作業は縮少された。現在残っているのはほとんど軽作業で、種目は次のようなものである。
 各集会所の管理と掃除 タイプ係 図書管理 編集係
 盲人会世話係 構内掃除 手紙代書 高齢者訪問係 軽不自由寮掃除 雑役 その他臨時作業等

 毎月の就労人員は、自治会関係を除いて約40数名。これも次第に下降線をたどり、1人で2つの作業をしなければ消化されない状況が生れつつある。作業の管理は、すでに自治会の手をはなれ、福祉室の所管となり、療養所本来の在り方になりつつあるが、まだ完全とはいえない。返還した作業の消化に、職員も増員せず、賃金職員を当てる方法をとっているが、その雇用も困難をきわめ、その役割りも十分果たせていない。
 患者自身が働くことによって療養所がなりたってきた時代は過去のものになりつつあるがその長い歴史は、簡単に消し去り、忘れ去る’一とのできないものである。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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