閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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それぞれの歩み

 水・電気・船

 水を求めて

 明治42年大島に療養所ができた頃、島には半農半漁の6家族約40名の島民が住んでいたといわれる。飲料水は井戸水を使用していた。大島は中央部が平坦で北部と南部に山があり、島民は南部に住み、山裾の井戸からは良質の水が出た。北地区に初めて療舎を建てた時、療舎の間に浅井戸を掘り、飲料水に使った。北地区の井戸は山裾にあり良質の水が出たが、海技ゼロ米に近い中央部の井戸水は塩分が多く、飲料水にはならず、雑用水にしか使えなかった。大島の水の苦労、甘い水を求めてのたたかいは、開所当時から始まったといえる。当時は、はねつるべで水を汲んだ。昭和6年頃から手押しポンプになったが、ポンプは最近まで使用していた。
 昭和12年頃、定員500名に対し、入所者は650名となり、職員70名と家族、島民をいれると島の入口は1000名にもなり、水の対策は療養所の存亡にかかおる重大問題になってきた。当時、飲料水は配給制で貴重品であった。臨時雇いの島民が炊事場横まで運んで来て、各室の炊事当番が行列し、1室に桶1杯(15リットル)宛入れてもらった。それが1室10入から15人の一日分で、とても足らなかった。不足分は北地区の井戸水で補給した。ここも配給制で1日に三回であった。夜間ひそかに水を盗む者もあり、夜間はポンプをとりはずして自由に汲めないようにした。
 そこで天水利用の水道が計画された。大島の南の山5万坪をとり囲み、山の中腹に3530米のコンクリートの集水路を造り、谷間に14、800立方米の貯水池を造って雨水を溜めた。山に降った雨が集水路を流れ、貯水池に溜める方法で、当時としては大工事であった。昭和13年に着工し、14年3月に完成した。当時の香川県の降雨量は年間1000ミリで、貯水池が満水すればニヵ月は使用できる計算であったが、満水したのは30年間に2回だけであった。園内に初めて水道を敷設したものの給水は1日30分の時間給水であった。だから風呂は3日に1回、洗濯や雑用水は塩分の多い井戸水を使った。石けんの泡もたたない水であった。水道の水は給水時に水がめに溜め、大事に使った。風呂、病室、治療室、炊事場にはコンクリートの水槽を造り、井戸水を手押しポンプで汲み上げ補給した。その作業を「水押し」といった。風呂の上がり水(上がり湯など無かった)は3杯以上使ってはならない、と張り札がしてあった。
 戦後、南の山裾や谷に補助井戸を何本か掘って補給したが水量はわずかであった。28年に南の山の地下100米をボーリングしたが、これも期待したほどの水は出なかった。さらに35年には塩分の多い井戸水をイオン交換樹脂法で除塩するテストもしたが、経費が高く、予算的に不可能となった。その頃、福山市の仙酔島に海底送水管で水を送っていることを知り、園をあげて四国本土からの導水実現にとり組んだ。自治会も全患協各支部の協力を得て、全患協要求項目として「大島の海底送水管早期実現」をかかげ、厚生省に強い要求を続けた。
 その結果37年に調査費が示達され、準備にとりかかった。入園者は大きい期待を寄せてその成り行きを見守った。まず、37年から38年にかけて、庵治の湯谷という所の農地を水源池用として購入、38年11月20日に起工式。第1回のボーリングで1日150トンの水が出て、1ヵ月のテストでそれが保障された。そして39年までに、この水源池から御殿の海岸(庵治の北海岸)まで2400米の鉄管敷設、そこから海底1200米の送水管を経て大島に通水、40年3月30日に通水式をおこない、待望の24時間給水となった。長い間の夢が実現し、もうこれで水の苦労は無くなったと、その喜びも大きいものであった。
 その喜びも長く続かなかった。43年に漁船の錨で送水管が破損、再び時間給水となり、復旧はしたもののその後何回か破損をくり返し、自治会は45年に「海底送水管早期更新」のための要求大会を開いたりした。45年から46年にかけて、また朝夕20分の時間給水が続き、ようやくにして46年4月18日に海底送水管を更新した。内径75ミリ、海底部の長さ1500米。香川用水を導入したのは49年8月1日で、その後庵治の水源池も閉鎖した。
 長い水の歴史の流れのなかで、入園者は甘い水を恋い、水に泣かされてきた。ただ耐え忍ぶことしかなかった昔のことを考えると、現在のそれは夢のようである。しかしまだ完全な解決はされていない。水洗トイレが全般的になった場合、現在の送水限度1日約350トンでは不足する。自治会は早くから内径15センチの送水管に更新するよう当局に要求しているが、島の療養所の宿命として、水の悩みは永遠に消えないようである。

 電気・暗黒から光明へ

 大島に初めて電灯がついたのは大正11年3月15日。蒸気による5キロワットの発電機によって1室5燭光の電灯がついた。それまでの12年間は徳川時代の延長で、皿に種油を入れ灯芯による照明しかなかった。暗くて長い夜が続いた。電灯といっても満月の夜の方が明るいというほどで、昭和5年ディーゼルエンジンによる15キロワットの直流発電機に吏新した。それでも遠方は光りが弱くなり、点灯しない時もあった。本も読めないほど暗かった。故障も度々で、暗い夜が多かった。夜間10時には電気を止め、映画上映の時は全島消灯した。
 昭和13年5月30日、25,000円の予算で3,300ボルトの海底ケーブルを敷設した。海中部1450米、7月には陸上部の設備も完成し、初めて30ワットの電灯がついた。漁業補償問題が難航したようであるが、入園者は光明を得て文明のありがたさに歓喜した。その海底ケーブルも23年には漁船の錨によって故障し、その修理に1ヵ月もかかった。その後何度も故障し、長い時には2ヵ月も停電し、そのたびに暗い生活を強いられた。
 そして27年12月、483万円の予算で更新、54年になってようやく3,300ボルトを600ボルトのケーブルに更新した。個人の電気器具使用も制限されていたが、55年から大巾に解除された。しかしクーラーは禁止されている。そして今も福祉室から「節水、節電に協力して下さい」と毎週放送している。

 患者を乗せなかった船

 高松から約8キロの沖に所在する大島にとって、船は重要な輸送機関である。生活用品、医薬品等の輸送、職員の通勤等、開所以来今日まで、なくてはならない存在としてその役割を果たしてきた。しかし入園者にとっては厭な思い出が多く、それは今も尾をひいている。
 初代大島丸が初めて就航したのは明治42年4月8日、12馬力の石油発動機船であった。大島丸はその後何回か更新し、“かえで”、“もみじ”、“浦風”を経て、現在の。“せいしょう”、“まつかぜ”に至っている。昭和10年頃まで患者は本船に乗せられなかった。入園する時は小さい伝馬船に乗せられ、本船に曳行されていた。人間扱いされなかった時代の昔話として、今も語られている。
 H氏は昭和5年2月に入園。初めて高松へ来て当時の船に乗った。しばらくすると船長がやって来て「オイ、コラ、患者はそこへ乗ったらいかん、うしろの小さい船に乗るんじゃ」と大声で叱られ、荷物も伝馬船に投げこまれた。大島に着くまで波しぶきを浴び寒さにふるえ、あんなにつらい思いをしたことはなかったと語った。
 Y氏は昭和5年6月入園。四国遍路の途中、同行者五名と共に強制収容された。H氏と同じように本船から追い出され、伝馬船に乗せられた。「人間が乗る船に人間が乗ってなぜ悪いのじゃ」としばらく押し問答したが「どうか頼むからうしろの船に乗ってくれ」といかめしい船長も頭を下げたので、しぶしぶ承知したという。船が走り出すと再
び怒りがこみあげ胸がおさまらないので、持っていた遍路杖を海中に差しこみ船の航行を妨害した。そこでまた口論となり、Y氏は包丁をとり出し曳いているロープを切ろうとしたが、船員はそれに驚き、なだめすかされて大島へ着いたという。
 T子さんは昭和7年4月に入園。付き添いの兄と共に伝馬船に乗せられた。船には海水が溜っていて坐ることもできず中腰のままで大島に着いた。せっかくの晴着も波しぷきでびしょ濡れ、悲しくて何度か海へ投身しようと考えたが、兄と一緒でそれもできず、涙があふれて止まらなかったと話した。
 この人達の心の傷口は今も癒えていない。のちに本船に乗せてもらえるようになったが、船室には入れてもらえなかった。寒い日も雨の日もそうであった。家族の面会入も同様に取り扱われた。自治会は思いあまって18年4月に
 「面会人が船上で風雨にさらされないようにされたい」と園側に要望書を提出している。その後患者専用船室ができたが、それは現在まで続いている。
 現在の“せいしょう”が進水したのは43年3月20日。“まつかぜ”は47年5月11日。“まつかぜ”を建造する時、自治会は職員と患者の船室を区別しないように申し入れたが、ついに実現しなかった。もうそういう時代でないこと、愛生園や光明園では区別していないからという理由で何度も交渉したが入れられず、全国の療友から「大島は遅れているなあ」と、もの笑いの種になった。庵治便が就航しはじめたのは43年からで、当時、園側は高松便を廃止することを計画していたが、自治会の強い反対で両便ともに就航することになった。高松便が朝、昼、夕の三航海になったのは52年からである。
 船は島の重要な足である。しかし台風時や、12月から2月の季節風、4月から6月の濃霧の時には度々欠航し、孤島の感を深くする。51年暮には強風で3日間も欠航し、通勤の職員が来島できず、治療や生活面に大きい支障をきたしたことがあった。少々の風でも出航できる大型船に更新されるよう厚生省に要求しているが、いつになることか。そして職員席と患者席を区別しないようになるのは、いつの日のことであろうか。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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