閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

す し       島内 真砂美

 秋風が立ちはじめると、病臥していない限り、ハンセン氏病患者でも食欲がでるのが普通で、毎日の献立表がたのしみになってくる。献立表をみながら「今日は又どうした風の吹きまわしやなあー、鮨のご出現とは」「村の祭のお相伴だとさー」などの会話もつい耳を傾けたくなる季節である。
 従来本園では、国家の祝日など殆んど「鮨」が唯一の祝意の象徴のようにお目見得するのが慣わしのようである。
 終戦前には、園内にも天照大神と大国主命の二柱を祀った神社があり、春秋2回に祭典も行なわれていたし、軽症患者の相撲や余興で、お祭気分を味わったものである。どうみても太平洋戦争との因果関係は否定できない。明治政府の基礎を置いた国家神道の性格は、終戦とともに、進駐軍の指令によって廃止され、国立療養所内にある大島神社の神殿も、それは当然の措置ながら、取り除けられている今は、村の祭日を機会に、せめてお祭り気分をしのばせようとの心遺いから、この「鮨」のご出現となったのらしい。
 お祭りといえば、いろいろなつかしい秋の味覚を憶いだすのであるが、何といっても「鮨」は田舎のお祭りでは、どこでもつくる御馳走の一つのようである。わたしの故郷では「鮨」といえば押し抜き鮨、巻鮨、稲荷鮨、魚鮨、などがお祭の食膳を飾っていたようで「ごもくずし」はあまり見掛けたことがない。卵焼きや紅生姜など綺麗に振り掛けた「盛り鮨」はすし屋の店頭で見掛けるくらいのものであったが、この地方では「ごもくずし」が好まれているのだろうか、大抵の場合、ごぽう、人参、里芋、豆、高野豆腐などに、何か魚肉をあしらい酢飯と混ぜ合せたものである。勿論、季節によって少しは変っているし、戦争中はずいぶん変った「鮨」を味わったのも、いまは笑い話の種である。たしか戦争中の昭和19年頃であった。当時としては「鮨」といっても麦飯であったことは、まず当然であったといえようが「ごもく」は昆布の一品、その昆布の間に飯粒がちらりほらりと見え、浜の藻草を掻くように昆布を除けると、飯粒が食器の底の方ヘバラバラと落ちるという逸品料理「見えたみえたよ昆布山越しに、白いお米の顔みえた」なんて皮肉を飛ばしながら、それでも、雑草の葉さえ食べていた頃のこととて「勝つまでは欲しがりません」の標語に、酒精でも飲んだように酔ったわれわれは、ただガツガツとかきこんだものであった。
 どこでも行なわれている、春秋2回の大掃除は、園内各寮でも年中行事の1つとなっている。澄みきった秋空にこだまする、元気のよい畳を叩く音をきくのは、何かしら爽快味をそそられるものである。今頃でも一部の寮では、やっているかもしれないが、昭和16、7年頃までは寮の大掃除というと、うどん、ぜんざい、すし、何かを御馳走して労をねぎらうというよりも、交友を温めあうのが当然の慣わしであった。その頃は予め炊事に頼んでおくと、その日の飯量から四分の麦を引いて、六分の米だけは現物で支給されていた。しかし、炊事場からでる米だけで足りよう筈はなく、寮員が少しずつ金を出し合い、それぞれ好みの御馳走をつくったものである。
 その頃わたしのいた寮には、A君といって手の指は大方なくなっていたし、足も義足を穿いていたけれども、仲々の料理自慢で、いつのときでも「シャモジ」を振りまわし、陣頭に立って指図しながらやっていた。ところがこのA君、御馳走をこさえた後では、決って火傷しているので、みんなはひやかしながらも「鮨」のことは一切彼にまかせきった気持でいたが、或時など錻力(ぶりき)の義足を穿いたまま七輪で卵焼きしてその晩から発熱、どうもおかしいと足をみたとき、すでにコッポリ水泡になっていたというような、笑えない喜劇を演じたなどはいまはなつかしい憶い出である。
 Yさんといって、青山学院を出たという、太い眉の下に敏感な目を光らせ、いつも机にもたれて、英和辞典や歌誌などめくり、ときにはお茶をすすりながら、立ち昇る湯気をじっとみつめているような人があった。Yさんは結核で亡くなったが、たしか、あの昇天記念会であったと思うが、もう物資の入手困難になった頃である。
 「鮨」をつくることに衆議は一決したが、遂に野菜や乾物類は手に入らず、丁度折よくその頃は珍らしい、鯖を12尾も手に入れることができたので、寮員一同欣喜しながら、魚肉と飯が同量くらいで、野菜類は皆無という「鮨」をつくった。
 結節癩のN君などは、結節や鼻の腐るのを怖れ、折角の魚肉を箸で除けて食うという、男世帯でなければ味わえない珍味に舌鼓を打ったのも、忘れられない語りぐさの一つである。
 Kさんは剣道二段、詩吟や謡曲をよく唸り、園内でも屈指の英語達者で、寮内で起るいろいろの動議にもイエス、ノーをはっきり言える気骨をもった人であった。そのKさんが、私の入園して間もない頃述懐するように話したことがある。
 「わたしは頑固な性でしてね、入園してから暫くは、ここの飯を食べたり、支給品を貰うことに、たまらない不潔感をもったものですよ。勿論あの縁の欠げた飯櫃に入った、金気臭く、塩っぱい麦飯だったからでありますがねー。それよりも、もっと大きな理由は、園からの支給品など、何のてらいもなく「貰い物」なんて言い慣されているような、病者の卑屈感だったんです。そんな人間でしてねー。わたしは御馳走なら白飯にさしみの方なんですよ。ところがねー。共同生活にはどうしても、ある程度の妥協と言いますか、譲り合いと言いますかそんなものが必要だということが、やっとこの頃判ってきたのです。要するにわれわれの生活は「ごもく」生活なんですよー。いろいろ毛色の変った人間の寄合世帯ですからねー。まあ、その中でいままで知らなかった、意外な昧を覚えたり、見出したりして生きる以外にはないですよハッハー」わたしは、Kさんの高潔さに感服しながら、胸にたたんだものである。
 終戦後は、療養所の食膳も余程改善されてふたたび祝日などにはほんものらしい「ごもくずし」が頂けるようになったが、何といっても、不昧いものでも自分たちの手で心を協せてつくったものを、笑い興じながらロにした楽しみや和やかな雰囲気は忘れられない味わいである。
 当時の寮員12名のうち、8名はすでにこの世になく、生き残っているものは、殆んど病気が昂進して、次々と不自由寮に分散し、癩院における時の流れと、世の移りの激しさに眼をみはるばかりである。
 再軍備政策の皺は御多聞に洩れず、療養所の食費の上にも真先に寄せられてきた。それもミルクの表面に浮く皺くらいなら、あまり驚きもしないだろうが、軒に吊した大根のようにきびしい冬を暗示するものである。憶出はなつかしいといっても、ふたたび、戦争中の、あの生活を味わいたくない。いや、それは想うだけでも慄然とせずにはおられない。太平洋戦争以来、世界の人間がひねくれてきたと言われる。たしかにわたし自身、何彼につけて、はっとするほど胸にひびく言葉だが、将来への一抹の不安は唯わたしだけではないであろう。ともあれ、そんな食事情の中での、こうした献立の配慮だけは「ごもくずし」といっしょに心の中で昧わったわけである。

          (青松昭和30年3月号より転載筆者・故人)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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