閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

盛り分け器由来       あさの・しげる

昭和19年6月××日の自治会日誌に「本日ヨリ玄米食ニナル」と書きとめてある。
 この短い文句には人間の意志の反映を認めることは出来難い。むしろ、一定の枠の中の生活を背負うた病者の運命に虐げられた呟きがあり、捨場のない嘆声が圧縮されている。
 この年に入ってから徐々に食糧事情は逼迫して来た。代用の甘藷の蔓や野菜の根などまだいい方で、秋ロになるにしたがい雑草まで採って来て、大炊事場から給食になった飯を更に雑炊に焚き代え量ばかりをふやして飢餓をしのいだ。毎朝、竹寵を提げて畑の畦や浜辺をあさっている女達の姿を見かけない日はなかった。島の畑の総面積などたかが知れていて、比較的に浜辺の方が収穫はよかったが、青海苔、天草、ツブのたぐいはまたたく間に採り尽くされ、干潮時の岩には人々がつくなんで牡蠣をたたいていた。浅俐、姫貝、岩貝、その他魚介類にしても去年よりは今年と水揚の量は減るばかりだった。
 戦況ニュースは大戦果の景気を煽っていたが、ふと、何か空虚な静寂になる瞬間―敗北の不安をうすら寒く感じさせるときもあった。が、人々は飢餓と栄養失調でふらふらしながらも、蟹が甲羅に似せて穴を据るような具合に防空壕を掘ったり、増産のための農園開墾に従事した。米3割混入の主食は2割位の比率に滅ってしまい、白米よりも7分搗の方が、それよりも玄米の方がより栄養価値があるという体験者の主張に同調したのだろう、施政者の指令もあってあげくの果てに玄米食になったのである。給食量は一度に減った。もともと米麦混合の場合も規定量より少なくなり、目方によって給食されていたこととて、むやみに水をふやした堅粥のような焚き方だったが、玄米食は尚更軽少になった。しかも雑炊に焚きかえ、満腹感ばかりを満さなければならない状態に慣れ、ほとんどが胃拡張症状を呈していたところとて、量の少ない玄米食にはほとほと弱り果てた。「武士は喰わねど高楊枝」とか「腹は減っても饑うない」などと千代萩の千松もどきに我を張ってみても肝心の飢餓はどうにも誤魔化しようがなかった。かえって飢餓を再確認する羽目になって食べ物のこととなれば誰しも目の色が変った。
 戦争初期(太平洋戦争)頃は各自勝手に飯櫃から茶碗へよそっていたのが、食糧の欠乏とともに各自のアルマイト食器を飯台に並べて配分するようになった。ところが、それは、杓子加減でどうにでも増減出来るということになり、目分量ながら小さい茶碗ヘ一応よそってわけたが―疑心暗鬼―納得しない不平が出て秤で分けるようになった。大抵、稈秤の簡単な方法だったが、私有品であった為に、竹を利用して一定の重さが計られさえすれば用が果せると、手頃な鉄屑を分銅にして作った。中には稈秤と同じに目盛まで刻んだものもあった。いずれにしろ、この方法に依存する部屋は健康室がほとんど、不自由室ではそこまで徹底することは出来なかった。もともと手や足や目の不自由な人達ばかりの処へ、女看護人が1人食事の世話をしているけれども、同病者で、僅かに健康に恵まれているにすぎないだけのこと、しかも飯は公平に配分することが不自由室看護の必須条件だった。相憎なことに食器はアルマイトで熱が伝わり易く、暫らく持っていたなら忽ち火傷をする。手先に感覚のある者は火傷することもまれであり、不思議がったが、麻痺している者は何時も火傷の恐怖を感じながら、余程に注意していても、一寸した油断がもとで火傷した。自分の手であって自分の手でないのである。だからといっていい加減に配分すると忽ち非難の的になった。その結果、生れたのが「盛りわけ器」なのである。丁度1食分の分量がはいる程度の厚み約1寸、直径約3寸の円形の木をくり抜いて底板を?め込み、それへ手燭のような柄を付けたものである。これを左手にして右手の杓子でよそっては各自の食器へあける。丸いおし鮨のような具合になった。秤で分けるほど正確にはいかなかったが、比較的公平に配分することが出来、火傷の不安から解放された。手先が麻痺した者はもとより、いささか不自由な位の女達までも使い勝手がよいので次々と私製の「盛りわけ器」がふえた。中には椀へ柄を付けたものまであらわれた。
 こうして最初は概ね木製だったのであるが、丸い穴をくリ抜くことは造作であり、へまをすると破れたり、洗って日向に干した途端にひびがはいって使用に耐えなくなったりするので、周囲だけはトタンで作るように改良された。
 園内作業制度は15日交代になっており、交代日には四角な朱塗の膳箱を抱えて女達は指定された不自由室の看護に出かける。その膳箱の上にはきまって「盛りわけ器」がのっかっていた。
 敗戦後―、人心は極度に虚脱して、何も手につかない状態に混乱してしまった。むしろ戦争に対する冷静な反省の芽生えとともに解放された自由な呼吸の中で食生活の窮迫をかこつ場合が多くなった。何事も戦争という名目のもとに抑圧されていた反動でもあったが、主食統制の粋がきりつめられるにしたがって「盛りわけ器」は必需品となり、私有品から不自由室の備品として備えられるようになった。
 もはやあれから7年、戦争前よりも現在の食費の比率は良くなり、したがって給食も面目を一新した。備品となった「盛りわけ器」は今では不自由室の台所の棚の上で煤に汚れたり、かまどの灰になったりして殆んど使用されなくなった。栄養失調のために一日に4、5人もの病友が死んで行った。戦争時代の陰惨な記憶が人々の脳裏から薄れてゆくにつれて右旋回へ同調しようとする気配が濃厚になって来た。戦争とともに滅亡した筈の「盛りわけ器」が再び食卓へ復活する日が遠からず来るのではあるまいかとひそかに恐れている。

              (青松昭和27年5月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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