閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

入園者と作業       志斧 輝昌

作業制度の発足まで

 ひとつの施設を運営するために必要な業務は、すべて、職員の手によって行なうのが当然でありましょう。その当り前のことをハンセン氏病療養所の場合は、開所以来、施設運営に欠くことのできない所謂、管理作業の管理と運営を、永年にわたって行なってきました。と言いましても、大島青松園の場合は、当初から患者作業があったわけではありませんで、職員によってやってくれないため、必然的に行なったというのが事実のようであります。
 明治42年4月に、中国、四国8県の連合県立で創設した第4区大島癩療養所は、中国、四国の浮浪患者を強制収容し、隔離撲滅するのが、その目的でありましたので、患者は、警察の手で各地から連れてこられました。そして長い間高松の築港岸壁で待たされ、やっと来た船に乗りこもうとすれば「馬鹿野郎、患者が乗る船とは違うぞ、お前たちはその舟に乗れい」と船長に一喝をくわされました。見るからに、色の黒い恐ろしそうな顔をした船長に一喝くわされると、大抵の者は震え上りました。
 船長が乗れという舟は患者輸送用の舟で、一名患者舟とも言っておりましたが、伝馬船にデッキを張ったもので乗れば視界ゼロでありまして、文字通り島流し前の状態でありました。その頃の監獄には黒馬車というのがありました。あれは裁判所へゆくのに顔を見られずに済んだのでよかったでしょうけれど、患者船は荒れ狂う波濤を乗りきらねばなりませんので、上下と横振りで船酔いし、大島に着いた頃は九死に一生を得た思いでした。
 初代所長は、管理県であった香川県の警察部長が兼任していたためでしょうか、事務職員には警察出の人が多くおりました。中でも監護員には警察出身者が大部分でした。患者を監視するには適任であったからでしょうか?
 開所当時は、収容定員200人であったそうですが、汽缶場も炊事場も無い貧弱な収容所でした。勿論、電気も水道設備もありませんので、夜の明りは種油に灯心の灯であり、水は井戸の水をはね釣瓶を利用して使いましたし、食事万端は自炊をしました。
 自炊と簡単に言いますけれども、これは大変な仕事でありました。前日に給品所(事務分館の前身)で主食(米5麦5の割)と副食の材料とお茶など貰っておき、5時起きで丸麦から飯を炊き、味噌汁を炊いて朝食にしたものでした。そして昼食を炊き、昼食が済めば夕食を炊くのでしたが、屋外ではね釣瓶によって水を汲み上げ、雨に濡れ風にさらされての洗い物には、極く元気な者は別として、大抵の者は困りました。特に神経痛や熱のある者、目の悪い者にとっては大変な仕事でありました。炊事は順番制でありましたので、室員9人或いは10人の者が交代して当らなければなりません。健康がすぐれなくても金さえあれば1日5銭で代理を頼むことができました。しかし、金の無い者は手に傷があっても、風邪やねつこぶなどで熱があっても無理をして炊事をするか、私物の衣類を売ったり1年に1枚支給になる青襦袢(その当時、監獄では赤襦袢)をこっそり売って、炊事賃を工面するなどの方法を考えました。
 一方、余病が併発して重病棟に入室していた者はどうかと言いますと、最初のうちは看護婦によって看護をしてくれていましたが、一般入所者が増えるに伴って、治療室のほうに手をとられ病棟までは手が廻らなくなりました。
 こうした状態を見るに見かねた心ある患者の中から、ほうはいとして奉仕作業の声が上りました。この奉仕作業が後の互助相愛の精神の礎になったわけであります。
 奉仕作業で先ず第一に手をつけたのが、病人の看護でありました。これは理屈はどうであれ一日と雖も放置できない事態になっておりました。そして第二は自炊のできない不自由な者の看護でありました。
 その後、漸次奉仕作業を拡大しましたが、所当局としても患者の奉仕だけに頼るわけにもゆかず、作業賃を予算化しました。それが今でいう「作業賞与金」の最初であり、作業制度のはじまりになったわけであります。
 患者作業のはじまりについては、療養所によって事情が異っているようであります。或る療養所では、患者を遊ばしておけば賭博をし、所内の秩序を乱して困るので作業をさした、と記録に述べています。只それだけの理由で作業をはじめたのでしたら、その療養所の患者は仕合わせであったと思いますが、大島の場合は、前述のような切羽つまった事情のため、現場職員皆無という悪条件によって作業をはじめたのであります。しかし、大島も共通の事実はあります。と言いますのは、当時所内では、昼だけで飽き足らず夜通し賭博をしたり、女を脅迫したりする者がいて、真面目に療養しようとする者や女子供などは、とても落ちついて暮らせなかったので、所謂、療養所の暗黒時代を現出していました。

初期の作業制度

入所患者の増加に伴って、病棟入室者や不自由者が増えたので、次第に作業種目と作業数を増やさなければならなくなりました。作業管理は給品所の職員によって行なっておりましたが、職員に顔の利く者は、何度も良い作業に就き、おとなしい者は不利な作業にばかり就かされるという不満が出るようになりました。暗黒時代と言われる当時のことであり、作業割当てする職員も苦労の多かったことかと思います。そこで患者総代の登場ということになりました。患者総代は、一般投票で選出された無給の役職でありまして、よく人の面倒をみる無欲で、しかも誰にでも信頼のある人でなければ勤まらないという、つまり、幾ら苦労をしても報われる処のない役柄でありました。
 亡くなった三宅さんは、長年にわたってその分の悪い患者総代をやってくれました。その三宅さんに作業割当てが移ってからは、余り問題はなかったようです。
 そこで、作業制度初期の頃の作業種目、作業数などについて述べたいと思うのですが、実はその資料がないので、はっきりしたことは判りませんが、作業種目は、大体こんなものではないかと思い列記してみましょう。

 o重病者看護       o不自由者看護
 o病棟炊事        o病棟炊事水汲み
 o風呂焚き        o風呂水汲み
 o治療助手        o繃帯ガーゼ再生
 o洗濯(重病者不自由者) o理髪
 oし尿汲み取り      o桶修理
 o木工          o金工
 o薪の挽き割(臨時作業)
 以上の他に奉仕作業としては、重病者の夜間付添や構内掃除、浜掃除などがあったそうです。

農園の耕作

 これは管理作業ではありませんが、開所間のない頃、島の西北部の山林を開墾して農園とし、農具は貸してくれ、作った野菜類は市価の半値で買い上げてくれるという条件で、事務長との話がまとまりました。察するに、当局としては開所当初から、し尿処理に困ったので、患者に畠を作らすことにより、し尿を処理し、また、作った野菜を買い上げることにより、献立面が楽になり従って食費も安く上る。その上、患者も賭博をしなくなり小遣銭が儲かるという、一石三鳥になる方法と考えたからではないかと思うのです。
 開墾した者には、開墾賃として1坪(3・3平方米)につき弁当米若干を出してくれ、その上に耕作権を与えられるという、当時としては好々条件であったと思います。ですから元気な者はわれさきに開墾に従事しました。
 開墾した総面積は、約2000坪ぐらいでないかと思います。それを開墾従事者全員に対し、どういう方法で分けたのか定かでありませんが、坪数が一律ではなかったようです。その後、健康上その他の都合で農耕をやめたい者とやりたい者との間に、耕作権の売買が行なわれるようになりました。最初のうちは、1坪につき20銭か30銭であったものが、昭和の初期には70銭か80銭になって、遂に私有化しました。つまり、個人畠にしてしまい昭和10年頃には1円から1円10銭に値段もはね上り、耕作面積も100坪以上の者ができました。こうなれば「畠作りは、普通作業をするより分がいい」と言ってみた処で、金の無い者にとっては高嶺の花になってしまったのであります。 

作業賞与金

 職員がすべき仕事を患者が代ってするのですから、作業賃も職員給与に相当する額を出して欲しい、と主張した処で決して無理な要求ではない筈であります。しかし、現実は作業賞与金という一種まやかしの金を支給されています。患者に仕事をさした代償として賞め与える金ということでしょう。
 監獄も囚人に出す作業賃は、作業賞与金と言っているそうです。監獄が刑務所に、囚人が受刑者にそれぞれ名前が変りました。第4区大島療養所が国立大島青松園に、入所患者が入園者にそれぞれ名前だけは変りましたが、作業賃に関する限りは、刑務所も療養所も、役人の考え方としては昔も今も変っておりません。つまり、お前たちは不充分ではあるにせよ、衣食住についてはお上が面倒をみてやっているのだから、暇をもてあましている時にする作業には、賞め与える少額の金で充分ではないか。ということなのでしょうか?そこで、作業制度発足当時から昭和7年頃までの作業賞与金を参考のため、掲げることにいたします。

 作業種目     就労時間      日給

o重病者看護    24時間      5銭
o不自由者看護   12時間      3銭2厘
o病棟炊事     12時間      5銭
o病棟炊事水汲み  12時間      3銭
o風呂焚き      6時間      3銭
o風呂水汲み    12時間      3銭
o治療助手      4時間      4銭
o理髪        4時間      5銭
oし尿汲み取り   随時        3銭
帯ガーゼ再生  1貫目(3・75kg)10銭

 作業はすべて半月割り当てになっておりまして、半月毎に交代しました。ですから、重病者看護のように、24時間働いて日給5銭というような分の悪い作業も、半月過ぎると次は分のよい作業に就けたわけでありますが、当時としてもこの少額の作業賃で作業の運営が行なえたというのは、他に収入の道がなかったこともあるでしょうが、もうひとつの大きな理由は、自分たちも何れは不自由になり人の世話になるのであるから、元気なうちに人のためになる仕事をしたいという気持があったからだと思います。つまり、互助相愛の精神にもえていたからであります。
 その当時骨身を削って稼いだ作業賃の使途はと申しますと、日給3銭で半月働いて45銭貰い、互助基金に2銭拠出し、刻煙草のなでしこ40匁(150グラム)入りを27銭で買い、宗教の賽銭を2銭出せば、残りは14銭ということになります。この14銭が次の作業賃を貰うまでの小遣い銭でありまして、如何に物価が安かった時とはいえ、塵紙代の補足費にも足りない金額でありました。
 終戦後、患者慰安金を200円くれるようになりましたが、それまで40年近くもこうした状態が続いたのであります。ですから、青襦袢や単衣を売ったあと、その補充ができず継ぎの上につぎ足して貰って着る者や、1年に1回支給になる果物と正月の餅までも売って小遣にした者もありました。

               (青松昭和45年5月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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