閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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入園者の証言と生活記録

園内農耕地の変遷       椋本 敏夫

 療舎地帯の北の方に在る海抜120尺程度の島山の裾が、北から南へ尾根となって突き出ていて、その西に面した斜面を開墾した2000余坪の耕作地、これが島の唯一の畑であるが、この畑も2年前までは農園として園内作業の範囲内で耕作され、私達全入園者の副食を賄っていたのであるが、戦後3年、5年と歳月が経つにつれて、食糧事情も改善されてきたのと、時代的変遷も加わって「今更病人があくせく百姓をしてまで、副食を賄う必要もあるまい!」との与論も高まり又野菜も市価と余り変らなくなったので昨春来この農園制度は廃止されて、現在の“趣味耕地”になったのである。
 これは名称通り、趣味として耕作するのであるから坪数にこだわる必要はなく、希望者全員(220余名)の人数に応じて割当てられたのであった。1人の耕作面積は6坪から8坪程度である。しかし、この作地からの収穫物は売り買いはしないことになっているので、体が不自由で趣味耕地も作れない人々が新鮮な野菜を思うように入手出来なくなってはと、耕地の一部を従前通りの「農園」として耕作するように区分されている訳である。
 畑が現在のような趣味制度に変るまでには幾多の変遷があったようである。私は最近このことについて、開園当初から入園しているSさんから、畑が開墾され、耕作されるようになった動機や、その後の遷り変りについてくわしく聴くことができた。

・・・そうですね!畑をひらいたのは私が来て2ヵ年位い経った頃でしょうか。開墾を初めるようになった動機は、今の治療陳(南北に細長い島の中央部に病棟と共に建てられている)の西寄りに病室が1棟建てられていたのですが、その周囲に100坪ばかりの空地があり、それを庭畑程度にテンデに作っていただけなので、野菜など作れず花を主に植えていました。そこも浮浪患者の強制収容が盛んに行なわれるようになって、1、2年後には新病棟の敷地になってしまったのです。―当園へは故郷で百姓をしていた者が多く入っていましたから、畑作りを何よりも楽しみに希望する人々が多かったようです。そこで、当時の庶務係長であった宮内先生(後にキリスト教の牧師として生涯を癩者の伝道に尽された)は病者が折角楽しみに作っている畑地を取上げてしまうことは気の毒だ!。何とかして代地を与えるべきであると言われ、あちら、こちらと調査された結果、奥の谷(尾根になる辺りのこと)を開墾するようになったのですよ。今でこそあの辺りは畑になったり、幅一間もの道が縦横に付けられていますから、私のような足の不自由なものでも容易に畑まで出向けるようになりましたが、その頃は、それはそれは深い熊笹や雑木の繁みで調査するだけでも仲々大変だったようです。
 開墾には軽症者は皆従事しましたが、その人達には1日10銭の作業賃と、1合の弁当米が出ましたし、宮内先生の特別のはからいで煙草も2本宛貰いました。その頃は私も元気でしたから、他の婦人達と一緒に弁当の握り飯を炊いては毎日運んだものです。開墾した畑は最初開墾に従事した人達が10坪宛を貰い耕作していたのです。処がそのうちに体が不自由になって耕作できなくなった人とか、或いは百姓仕事がいやになって来た人などがあって、新しく希望する人に。坪10銭で売買するようになったのです。そうですね。あれは大正6年頃までのことですが、この風習が後々まで続いたことは御存知でしょう。これが土地の個人所有の発端になった訳ですよ。大正9年頃に坪1円から1円20銭にもなり、多い人は200坪余りも持つような地主になったのです。当時、野菜は1貫目を2銭から3銭位で私達の副食に使うのに園で買上げて呉れました。―その頃は又、賭博が非常に盛んでしたが、畑を作る程の人は真面目であったのか、賭博に手を出す者は殆んどありませんでした。人は誰でもそうではないかと思いますが、こつこつ努力を傾けて物を生み出す苦労を知るようになると、無駄使いなどはしなくなるようですね。1貫目の野菜を作る苦労を思うと、賭けごとに使う気になれないのも当然でありましょう。私の亡くなった夫も故郷から送金のある間は、賭博に熱中していたために夫婦争いもよく致しました。それが同部屋の人から畑を譲り受けて百姓を始めてからは、賭けごとには全然手を出さなくなった程でした。
 最初の開墾面積は約300坪位いだったのですが、収容人員の増加に伴い耕作希望者も多くなってそれ位いでは足りず、2度目の開墾が行なわれました。場所は最初の谷から南西に向った斜面でした。1回目の時と同じように10銭の作業賃と弁当米が出ました。その頃になりますと、病者に趣味として畑を作らすというよりも、病者の作る野菜がなくては園の予算では日常の副食も随えない程の模様だったのです。その頃の副食は朝が味噌汁、昼食は野菜の煮付か、シタシ、夕は沢庵漬と、この献立が一寸のくるいもなく毎日くり返えされていたのです。その朝の汁の実も昼の野菜もすべて病者の作ったものばかりが使われていたのでした。ですから島の畑の端境期にでもなりますと蕫が立って竹を噛むような牛蒡が2切れか3切れ位いだったり、時には副食のない日もたびたびでしたよ。最初花畑の代替地として趣味耕作地に開墾されたものが、何時の間にか、私共の副食を賄う重要なものに変って来たのです。患者の方でも、故郷から送金のある者は別として、殆んどの者は1日3銭か4銭の作業賃以外に収入の道はなかったのですから、いくら重労働であろうと、そんなことには頓着なく、畑を買って耕作しようとする者が多かったようです。そうなると必然的に畑の相場も値上りして、坪10銭だったものが1円以上にもなった地価騰貴の1つの原因ともなったようです。
 現在と違ってその頃は農薬がなかった、といいますよりも知らなかったのかも解りませんが、害虫の駆除が並大抵の苦労ではありませんでしたよ。たとえばアブラ虫などは、ハート型の枠網を追って大根とか白菜の根元に、ハート型の凹んだ個所をあて筆を大きくしたような刷毛で1枚1枚の葉からアブラ虫を掃き取って駆除していたのです。中でもいちばん困ったのは夜盗虫でしたが、これの駆除には夜、提灯を持って獲りに行ったものです。あれは何時頃だったでしょうか、大正の終りか、昭和の初めだったように思いますが、夜盗虫の繁殖が甚しくて野菜は全滅に近い被害を受けたことがありますが、夜、畑に立って居りますと野菜の葉を喰う夜盗虫の歯音が、丁度養蚕の蚕が桑の葉を食む時と同じような感じがしたものです。―この夜盗虫の駆除に初めてヒサンエンを使ったのは、Aさんという非常に研究心の強い人でした。これはAさんから直かにきいたのですが、効能書の用法通りに溶かした薬を数匹の夜盗虫に散布して暫く様子を見ていたとかですが、T回に死にそうにもないので、てっきり薬の量が少ないためだと思って、量を増しては散布し、終リには倍量以上に濃ゆく溶いて散布して長い時間をかけて様子を見ていたらしいのですが、虫は少しも弱りさえしない、でやっぱり駄目なのか、そう思うと騙されたような腹立たしさから、残りの薬を虫に喰い荒された野菜に全部ふりかけて戻ったのだそうです。ところが翌朝畑へ行って見ると、前日ヒエンサンをかけた野菜の根元に、夜盗虫の死骸がごろごろしていたということでした。Aさんはいいようのない嬉しさと共にいろいろ調べてみた結果、夜盗虫は薬のかかっている野菜を喰うと効くということが解ったそうです。研究熱心な人はAさんだけでなく、他にも2、3人は居りましたが、その人達の研究でアブラ虫には、デリス粉末や除虫菊粉の薬が使われるようになったのですよ。今から思うと嘘のようなコッケイさでした―。
 畑の個人所有は、自治会の創立後も長らく続いていたのですが、そのために種々の問題があったのです。当時は全患者の収入の均衡ということが叫ばれていましたし、それというのも、作業者の方が作業数より何時も多い傾向にあった為でしょう。ですから不自由者の看護作業とか、構内掃除作業のような普通の作業は、収入の均衡を保つために、収入の多くあった者には希望しても作業に従事出来ないような制度があったものですよ。普通作業の方々はそうした制度で収入の均衡を保っていても、畑の場合はそうはいきませんでした。僅か30坪位の人と、200坪近くも耕作している人とでは、収入の差も大きくなるのは当然ですから、それは公立の病院へ入院している患者が、所内で土地を所有していると言うようなことは、外部の人にも友園の病友にもキコヱが悪いといった声も起って「自治会で買上げたら」という話も幾度か出たのですが、其の都度いろいろの事情から実現に至らなかったのです。ところが昭和14年でありましたか、遂に自治会で買上げることに決ったのです。それも一度に全部を買上げるというのでなく、時日をかけてと言いますか、5ヵ年の間に徐々に買上げる方法でした。自治会にそれだけの金が無かったこともその理由だったようですが、畑を待っている人達の感情的なもつれや、不満を少しでも少なくするためにそうしたようです。5ヵ年の間に不自由者になって耕作出米なくなったり、その他の事情で畑を止める時には、個人売買を禁止して自治会で買上げる、ということになったのでした。
 これだけのことでも園内制度の大改革でしたから、当時その衝に当って下さった人達には非常な苦労があったことと思います。しかし、この時、畑を自治会で買上げるように決めたことは、後になって考えますと本当によかったと思われます。
 私の40余年の療養生活中で、といいますよりも日本人だれもがそうでしたでしょうが、畑の有難味、つまり土地の価値を身に沁みて感じたものです。戦中、戦後の食糧難時代にアレが自治会の畑であったからいいようなものの、掌程の土地でも奪いあったようなあの当時、畑が前のままの個人持ちでしたら相当な問題を惹き起こしていただろうと思いますよ―。買収の規約を草案された方達も、あれ程に必要な時期と合致するとは思われなかったのではありますまいか。あの頃のことを想出すと今でも身ぷるいする程です。この小島に600余人もが閉じ込められて、飢え死にしない程度、というよりあの畑の作物がなくて、園からの配食だけでしたら恐らくみんな栄養失調で倒れてしまったでしょう。相当に不自由な体であり乍らも、空腹のつらさにたまらず、舟を盗んで逃走しようとした者もあった程ですよ。こうした食糧難を補うために、全部の畑が自治会に買上げられました昭和19年に、現在の新畑(尾根から南西に面した山の中腹辺りまで)を開墾されました。
 そして新旧合せて1人に100坪前後を貸与し、30人の者が小作するようになったのです。耕作する人もその当時は必死でありましたから驚く程に収穫がありました。作物はすべて自治会に供出して、耕作している人にも、していない人にも一率に配給されたのです。そんなことでは“正直に供出しなかっただろう”などと言われる方もあるでしょうが、そんな憂いはありませんでした。農事委員会というのが組織されまして、春秋2回に「作付計画」を行いその計画通りの蒔き付けをし、収穫時季にはこの人達が畑を見廻って、それぞれの収穫見積りから供出量を定めるようになっていましたので、耕作者が勝手に取り込んだり、横流しするということはありませんでした。馬鈴薯や甘藷などの場合は、空腹では掘るのに困る、ということで、供出量の5分から7分位いを貰えるようになっていました。掘る時には執行部の人が立合いの上で掘るのですから、少しの誤魔化しも出来なかった訳です。春の馬鈴薯に始まって夏の南刄、秋の甘藷になりますと耕作者よりも、作っていない私達の方が、その収穫を待ち焦れたものです。こうした人達の非常な努力がありましたればこそ、私のような弱い者でも、飢え死にもせず生き延びられたのだと思います。これ程に重要でした畑も、食糧事情が好くなるに伴いまして、1昨年から今の趣味耕地に切りかえられるようになったのですよ。思えば40余年の昔に還った訳ですね―。

 Sさんは、この長い話を一気に語り終って如何にも感慨ぶかそうに小さく吐息するのであった。私にはSさんの、大森林でも飛行機で観察するようなこの話の底から、食生活と畑。収入と畑。癩政策と畑。と言ったものが次々と浮かんでくる感じであった。

              (青松昭和30年11月号より転載)

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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