閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第三章
 戦争と平和

 7 国民精神で諸事節約(昭和12、13年)

 昭和12年2月、らい予防協会から寄付金のあったのを幸い、活字を買いそろえて印刷所を充実し、さらにミシンを一台買って個人の仕立物を始めた。
 売店は販売量の増加で手挟となり、改築して広げ同時に伝票制となった。自治会詰所の会計書記2人が交替で出張し、現金を受取って伝票を書き、その伝票で買物をする。みな不慣れのため面倒がった。図書室裏の小さな売店でわずかな品物しか置いてなかったころに比べると、品物の量も種類も豊富となり、雲泥の相違といえた。それだけ療養生活が向上した証拠だろう。
 岡山の彫金家難波金之助氏によって故小林所長の胸像ができ上がり、3月17日会館で除幕式があって、事務本館横に台座を造って据えられた。また発電機の故障で修理に1ヵ月かかるとか。何ともやり切れなかった。
 4月も中旬に入ると暖かになり、千歳果樹園清遊が始まった。堂々と柵の外へ出られるのはこの日だけである。200人が行った。戦友会はかつて兵役に服した者の会であるが青年団と共に夜警に任じ、交替で当直して人々の寝静まる深夜、各療舎の火の元その他、見て回ることになった(4月22日)。
 元岡山医大学長田中文男博士ご夫妻が、知人友人を誘って来島された。日ごろ心にかけて雑誌や本を送って下さる他、度々の寄付金である。先日も二人の令嬢が小遣いをためての送金で、自治会をあげての歓迎会となった。田中博士ご一家ばかりでなく、地元香川県は元より、各県各地の多くの方々の善意によって支えられている。昨年、所内ラジオが開通したので、ラジオ文芸が始まった。皮切りは俳句の募集、次週は短歌と詩。作品はしかるべき選者に選を願い、入選者には粗品を進呈した(5月22日)。思えば療養所開所以来28年、大正7年以前の入所者なら20年以上となる。人事部が調べると男女39名にのぼる。当時の給品所から現物でもらって自炊生活し、治療らしい治療もなかったころからである。永い苦労の療養生活を慰労する意味で、集まってもらって座談会を開いた。一同あのとき、このときの想出をなつかしく話し合った。
 「開所当時は道なき小松の生えた砂の中を、ザクザクと歩いて治療室へ行った」
 現在の入園者事務所のあたりであろう。
 「本館や治療室の辺は田圃で蛙が鳴き畑では蝶が舞った」
 だいたい今の治療室辺である。
 「間男成敗は大変で、男たちがその男を北海道の池の中へ抑えこみ、浮けば沈め、うけば沈めた。少女であったわたしはそれを見て、あんなむごいことしなくていいのにと思った」
 現在の十四、十五寮あたりに池があった。
 「作業をさしてもらうために贈物をするから、総代のところには盆正月に山と積まれた」
 明治末年の親分横行時代である。
 本病は遺伝か伝染か。これがしばしば病友間で論争の的になった。遺伝といい伝染といい果てしがない。そこで庶務部(以前の娯楽部)から用紙を配り、全員に思う通りを書いてもらった。
  遺伝とおもう者、     232名
  伝染とおもう者、     114名
  遺伝も伝染もすると思う者、138名
 40年以上前の話である。当時の世間の通念と、医者の話の反映であったろう。
 定員510名に対し667名、157名の超過入所となっていた。総代は河村主事(後の事務官、事務部長)に対し、寝床が重なり荷物の置き場のない各室の現状を説明し、これ以上入れないよう強く要請した(7月10日)。全国的にらい撲滅運動が展開され、官民声をそろえてらいに対する恐怖心をあふり立てた。ために家庭でひそかに養生する者はおられなくなり警察の手で続々送られて来た。これが定員超過の原因であった。増改築なり整備なり、はいれるようにして入れるなら問題ないが、一方的に患者のギセイによって事を行なう。これではまるで弱い者いじめであった。
 西海岸に桟橋が完成して式があり一同にお祝いのカステラが支給された(7月13日)いつも大島丸は西海岸に近づくと笛を鳴らした。一つは通常、二つは新患者、三つは慰問の来た合図であった。それまでは接岸できないため50~70米沖に停泊し、降りる者も乗る者もその間を手漕ぎのテンマで運ばれた。それが桟橋ができてすぐ上陸できた。
 近衛内閣が成立し、新聞ラジオは毎日北支、中支における日支両軍の武力衝突を伝え、出征兵士や国防献金の美談を報じた。国立らい療養所栗生楽泉園患者の献金が報じられたのもそのころである。総代は一同に時局に対する所信をのべ、1人8銭以内の国防献金を呼びかけた。8銭は一日の作業賃の最高額である。
  「日頃ノ皇恩ニ報イルー端トシテ、北支事変ノ国防献金スルコトニ決定」
 と常務委員会日誌に見える。献金総額44円41銭、即日手続きをとった(8月13日)盆踊りは時局柄中止となった。総代以下常務委員は所長と会い、次の要請をした。
 一、来年度の増床計画を促進してもらいたい。
 二、水道と電気の問題を何とか早く解決してもらいたい
 三、所内ラジオに朝七時のニュースをかけてもらいたい
 近衛内閣は中国軍の断乎膺懲(ようちょう)を内外に声明し、両国は全面戦争に突入した。職員も病友も時局の重大を痛感し、合同で戦勝祈願祭を行なった。共楽団主催の秋季芝居は早々に中止と決定し、青年団と婦人会は出征兵士の慰問金として26円80銭集め、その手続きをとった。一人また一人と若い職員は召集され、音楽団の勇壮な軍歌と一同の振る日の丸の小旗に送られて発った。所長は職員の手が少なくなるので、みなさんにご迷惑をかけるかも知れないが……と暗然とした。
 「病気でなかったら爆弾を抱えて、敵陣へ突っ込んでやるにがなあ。それならおなじ死んでも金鵄勲章(きんしくんしょう)だ」
 と病気の身をくやしがる者がいた。
 「どうにもならんわい」
 しょせんは寵の中の小鳥で母屋の出来事には関係なく、餌(えさ)をもらって食べるしかない。ラジオは日本軍の抗州湾上陸を伝え、大本営が設置された。
 11月23、24の両日は四国管区の防空防護訓練となった。午後5時から青年団と婦人会幹部は自治会詰所に集合し、総代も常務委員も総出で救急箱を用意し、担架を備え、いつでも出動できる態勢をとった。ひどく張り切って人の3倍も5倍も動き回わる者がいた。その反面、この訓練がどういう形で役に立つのだろうと、疑問視する者がいた。
 サイレンを合図に警戒警報が発令された。所長は数名の職員を従え、各室の灯火の管制ぶりを見て回わった。訓練の必要はわかるが、平和な島の明け暮れには何となくチグハグな感じであった。翌晩も同じである。「ごくろうさん、ご苦労さん」と、暗闇で出会うたびに声をかけ合った。
 潮風の寒さが身にしむころとなり、木炭が支給された。追って火すくいと下駄が支給された。配給部が分室に出張して各室の人員を照合して渡したり、小物は持ちかえり、詰所の縁で渡した。そんな日常の平穏ないとなみのなかで、かつて来島された東京帝大の矢内原教授が、教授会で言論活動を批難されて辞職した。毎月「嘉信」というキリスト教の雑誌が寄贈され、私淑(ししゅく)する人もいてショックであった。
 南京が陥落し、日本軍の占領が報じられた。翌日所長は所内放送で戦勝を祝し、夕食はお祝いの赤飯となった(12月15日)。待望のマイクロホンが自治会詰所に設置された。これで事務本館からばかりでなく、スイッチを切り替えて詰所からも放送できる。記念して「マイクロホン設置祝賀放送」を12月17日午後7時から職員側と病友側で同時放送した。
  故郷の歌、花嫁人形 少女たち
  露営の歌、防人の歌 少年たち
 これに加えて所長や総代の祝辞があった。
 年末に際し出征中の職員に慰問袋を送り、餅つきも無事にすませた。当局からの一升餅だけである。自治会からの五合はつかなかった。

 昭和12年(1938)元旦は、修養団大島支部の山上における早朝の遥拝式で明けた。6時の集合でいまだ松下は暗く、寒気は膚を刺した。2日には例によって「ものはづけ」の募集があった。入選句“ひびくものは密猟の銃声”はともかくとして“ならぶものは臨終の枕辺”これは新年早々縁起でもなかった。しかし後から考えるとこの一年、いやこれから先の何年かを遥拝式と「ならぶものは臨終の枕辺」とが、世相ならぬ療養所相を象徴したとは何とも皮肉である。
 遥拝と各種の献金が貧しく不自由な療養生活に繰込まれ、一に遥拝、二に献金、三にひもじい、四に死亡と定着する。昭和6年の改革運動を境に病友の死亡率は8%台から6%台に低下し、さらに10年は3・8%と下がったのが、11年度5・2%とやや上がったものの、12年度6・4%、13年度7・8%と明らかに上昇を開始する。療養生活の充実と向上を目的とした自治会活動は、時局下引緊めの影響をもろに受け、守勢をよぎなくされて一歩々々と後退をつづける。
 正月4日昼、島の南方無毒地帯の山林から出火した。風はなかったが火が風を呼び、炎々と四方へ燃え広がった。職員患者総出の消火作業にもかかわらず、3時間燃えつづけてようやく鎮火した。かってない騒ぎであった。
 官民呼応した国民精神総動員の掛け声に島の宗教団体が会合し、精神報国の申合わせをした「御稜威(みいつ)の下、滅私奉公、身を鴻毛(こうもう)の軽きにおく」といったいまの若者には理解できない言葉が、神国日本の国民精神であった。
 2月3日、それまで漬物代わりに支給されていた味噌が、物価騰貴による食糧費不足から、1週間分が1年分に引き延ばされた。もうこれは無いのも同じである。故事ではみそを肴(さかな)に酒を飲んで美談とされる神国で、これまた国民精神で堪えねばならぬ。食費は元より、治療費、被服費、雑品すべて切り詰められた。2月11日には遥拝が2度あった。これも国民精神である。ひとつは紀元節(いまの建国記念日)の式場における遥拝、ひとつは憲法発布50周年記念日にあたり、汽笛を合図に各人その場所に正座して遥拝した。
 報知大島の試験刷りにつぎ、こんどは自治会々則が病友の手で活字印刷された。3月8日の自治会創立7周年記念式は、会則の出版祝賀をかね、式後一同に紅白の餅が配られた。所長はこの日時局に対する所感をマイクを通じてのべ、あわせて燃料の節約を訴えた。年間の薪木代3000円が4000円以上の高騰だそうである。総代の主唱で節約のための生活改善の申合わせがなされた。冠婚葬礼を派手にしない。退所者に所属団体からの餞別(せんべつ)を廃止するなどであった。
 前者は結婚披露と死後故人の世話になった知人友人に対するお礼の意味の饗応(きょうおう)で、それを極力切りつめようという。饗応といってもせいぜいぜんざいうどん、手作りのまぜ寿司である。一部に金がないと結婚もできないとこぼし、また一部には死に金を用意しておかないと、安心して死なれないと、食うものも食わず金を残す者がいた。時局は別として節約は当然だが、後者の餞別にしても一緒に働いた仲だから気持ちは分かる。総論賛成、各論になると異論があった。いまも昔も変わらない。
 執行部が節約に先走ると患者の自治会か、役所の自治会かとなる。それかといって派手にしていては、当局へ要求がしにくい。生活の向上過程なら何でもないことが、逆になると不満のたねとなる。守屋医務課長から予期した医療費節約が打ち出された。夜間注射全廃と綿ホータイ節約である。毎日のホータイ交換が隔日となり、特別の者は診察して許可が必要となった。注射の必要は病人の容態次第で夜も昼もないはず、それを夜間はしないでは妙な話である
 いつの間にか防空演習がたびたび行なわれるようになり、音響管制をともなって職員の始業終業のサイレンも、自治会詰所の朝夕のレールの時報も中止された。そんな中で節約標語が募集され「節約を守る心が国守る」が人選となった。大陸における戦線の拡大は兵力増強、国防力強化となって物価を押上げる。備えあれば憂いなしで、防空演習が生活の一部となった。職員の応召で各方面が手不足となり、献金がまた療養生活の義務と化した。医療費の節約を訴えた守屋医務課長も、ついに軍医として召集された(7月3日)。
 かねて長島の西端に再建中であった外島保養院が竣工し、全国の療養所に分散、委託されていた病友が目出度く帰る日を迎えた。かつてない風水害で多くの友を失い、3年10ヵ月にわたる他園暮らしであった。自治会では別れを惜しみつつ再建を祝して送別会を間いた。そしていよいよ7月9日はお別れである。61名の病友はこもごもお世話になったと涙をうかべて礼をいい、助け合って帰っていった。手を振って遠ざかる船影に、大島の病友は海岸に立って手を振った。邑久光明園の発足である。
 報国一銭献金のつづく一方で、久しぶりにパンツ、女のヘアピン、髪洗粉、夏の女の腰巻きと支給された。何によらず支給があるたびに、やれやれ助かったと思う半面で、次はいつになるだろうと暗い気持ちになった。一年一度の夏季の布団洗濯は裏地が買えず、いたんで破けていても取替えてもらえなかった。たった一つ明るいニュースは四国電力が対岸庵治との間に海底送電線の敷設を完了し、島に電力の入ることである。これこそ明るい知らせで、毎度の故障になやまされた機関場の発電機が不要になる。
 電球全部大きいのと取りかえた。室内灯30㍗、便所5㍗、室外灯10㍗。白い光がこうこうと広い部屋の隅々まで照らした。さらに従来は直流電気のため、普通のラジオではきけなかったのが、エリミネーター式でハッキリ聴取できるようになった。隔離される身にラジオは単なる娯楽でなく、世間を知る唯一の情報源である。残念なのは灯火管制で、せっかくの明るい電灯も遮蔽(しゃへい)しなければならなかった。
 盆の「ものはづけ」が募集され“気になるものは帰らぬ僚機”が天賞であった。大陸の爆撃行で帰らぬ僚機を、新聞ラジオが報道していた。盆の15日には例年通り団子は支給されたが、代わりに一日分の食事から米一合の節約となった。18日になってようやく16日間におよんだ長い灯火音響管制が解除され、白く輝く30㍗の電灯を仰いだ外灯は夢のように松下の闇に、ボンヤリと光の輪を描いていた。
 総代は重ねて所長に対し、この上の新患者入所は、部屋の増改築するしかないと申入れた(8月29日)。善通寺病院に勤務中の守屋軍医(さきの医務課長)を通じ、入院中の傷病兵に慰問金30円50銭送った。貧者の一灯でたび重なる諸献金と共に、これも肩身をせまく生きる病友の哀しい心遣いの一つであった。
 各室で三度の食事の茶の湯を沸かしていたのが、病室炊事(患者)の大釜で沸かし、普通室は汲みにいき特定室には汲んで運ぶ作業人がついた。燃料の薪木節約のためである。そのうち飯も減(へ)るぜと、みな不安を抱いた。理髪場においてあった2円が、夜の間に盗まれた。カギは掛けてなかった。いや、それまでは掛ける必要がなかった。広い日本で盗難の心配のないのはこの島だけだと、自慢していたのが世間並みになった。盗難から社会復帰である。
  衣類ほかの節約案が当局から提示された(9月26日)。

 被服
一、支給制を貸与制とする。
二、非常時局にかんがみ、規定年数をこえても、交換は使用に耐えないものに限る。
三、交換品の検査は自治会詰所でする。
四、検査の上、修理できる物は婦人会に修理を依頼する。
五、廃品は病室の下綿(おむつ)として使用し、残りは役所に依頼して売却する。
実施は10月支給被服類からとし、期間は物価の安くなるまでとす。それでもなお予算に不足の生ずる場合は、あらためて相談する。

 木炭および雑品。節約額515円50銭。
一、木炭入用見込み578俵、そこから78俵を節約する。
二、下駄の使用期間。1ヵ月半を3ヵ月とし、中途に鼻緒を支給する。
三、ゴム短靴使用期間。1年を2ヵ月延長し、来期になって支給する。(注、足の指のない者、その他足の  悪い者がはいた)
四、マッチは木炭を使用する間、各室1箱とする。
 以上実施は11月より翌年3月までとす。

 常務委員会は協議を重ねた。といって突っ返せないものなら、対策を講ずるしかない。もし右の(上記の)品々を売買した場合は、売買両人に自治会の制裁規定の適用を決定した。作業停止、互助金支給停止、謹慎などである。そして節約案受諾と引換えに、次の申入れをした。

 「今回ノ節約ハ時局ニカンガミ進ンデ応ジ時難ヲ克服セントス。今回ノ節約案ハワズカノ作業奨励金ヤ互助金ヲ以テ小遣ヒトスル者ニカナリノ影響ヲ与ヘル。本来ナラ作業奨励金ト互助金ヲ増額スベキデアルガ、ソレモ不可能ユエ、当局ハコノ点ヲ充分理解シテ時節到来セバ直チニ復旧スルコト。          
 本節約ハ物価ノ復旧ヲ以テ廃サルルモノナルモ、将来ハ年度始メニ役所卜患者側係員トノ間デ物価ノ高低等ニヨル見通シヲ立テ、一品一種目カラデモ復旧スルコト。右ノ事情ヲ交換条件トシテ節約ニ応ズルコトトス(常務委員会日誌)」

 苦悶のさまがうかがえる。かつて苦労して得た以上のものを、一度に失うのである。評議員会に諮ると、当局に対する批難が集中した。ことここに至るまで対策を考えず、放任した責任である。限られた予算で物品の購入価格が高くなれば、足りなくなるのは分かっている。時局が早急に収拾するわけでもあるまい。なぜもっと早く対策を考えて相談してくれなかったのか。いまさら当局の怠慢を責めても始まらないが、交換衣類の検査は詰所でなく、当局が当たることに改正して承認された(10月27日)。交換してもらえなかった者の反撥を執行部が受けなくてすむ配慮からであった。
 漢口、武昌、漢陽の三大都市がわが軍の手に落ち、職員患者合同の戦勝祝賀遥拝式があった。式後一同は旗行列にうつり、先頭をゆく音楽団の軍歌に合わせ、相愛の道を一周して雲井寮前で萬歳(ばんざい)を三唱して散会した。
 理髪場の盗難につづき、こんどは看護婦宿直室においてあった睡眠注射薬が盗まれた(11月24日)。これまた初めてである。この13年度、病友の死亡率は前年の6・4%42名を上回わり、先にも触れたように7・9%46名と明らかに不幸な上昇を開始する。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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