閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第三章
 戦争と平和

 8 農地回収(昭和14、15年)

 昭和14年(1939)正月3日、保育所の大浜文子保母ほか看護婦の厚意で、お茶会が会館でひらかれた。暗い正月を少しでも明るくと、病友たちにお茶の接待である。
 「お茶ってむつかしいんだなあ」
 と帰って感心する者。ガブガブ飲んでかえって自慢する者。五場所69回連勝の横綱双葉山が安芸の海に負けた、(1月15日)。連日ラジオにかじりついていた連中が声を上げた。
 夫婦喧嘩の末、殺してやるという夫に追われ、妻が自治会詰所に逃げこんで保護を求める事件があった。派手にやりやがると、男たちは面白がった。原因は男の賭博である。それが切っかけで一斉検挙となった(2月2日)ばくちはやめてくれと頼んだのも、女にとっては愛情であったろう。災害は忘れたころに来ると古人はいったが、大島では賭博が忘れたころにある。
 共同生活だからやれば分かる。わかればただですまない。それを知ってやるから始末に困る。男は賭博、脅迫、殺人未遂の容疑で未決に収容され、当局の手で取調べられ、翌日、頭分の1人は追放になった。
 全貌が判明し、それぞれ処分がいい渡された。殺してやると妻を追った男ほか5名は監禁15日と減食5日。4名は監禁12日と減食5日。1名が謹慎7日。2名が謹慎3日であった。監禁15日の1人は無期退所を願って出て行った。
 評議員議長から総代宛に建議書が提出された。
 「時局ト患者ノ本分ニ鑑ミ(かんがみ)賭博犯ノ如キ行為ハツトメテ之ヲ厳重ニ処断セラレルヨウ取計ヒ相成度評議員会一致ノ決議ヲ以テ建議仕候也」
 善通寺病院から召集解除で帰島していた守屋医務課長はラジオを通じ、医薬品40種が統制品となり、今後は代用薬を使用するしかないと苦衷をのべて協力を訴えた。さらに課長は総代を治療室に招き、薬品や治療材料セッ盗の事実をあげ、何とか処置したいが、意見があればきかせてもらいたいとの話である。総代はそちらであげられたのなら、処置は一任すると答えた。夜間注射を一律に禁止するから、睡眠薬が盗まれる。つけてもらいたい薬もつけてもらえず、作業して泥に汚れたホータイも巻き替えてもらえない現状である。総代には答えようがなかった。
 3月に入ると役員改選が話題になる。総代は次の提案をして評議員会の承認を得た。
  一、先輩酷使の弊(へい)、(注、同じ人が何回も務める)を役員候補辞退細則改正によって緩和する。
   二、新人総代の常務員推薦難を顧問制によって緩和する。
   三、評議員の新陳代謝を役員候補辞退と顧問推薦の人事によってはかる。
 前期、前々期のように多数の役員候補辞退者が出ては収拾がつかなくなる、何とか手を打っておきたかった。ただちに3名の規約改正委員に委嘱して作業に入った。昨年度、支給品を節約した室へ、当局から賞金が下がった(4月2日)。1等から順に5等まで、5室、5円、4円、3円、2円、1円。他に6等10室1円ずつであった。
 改正された「役員候補辞退細則」により、まず正副総代選挙があり、その新しい総代によって4名の顧問(内有給1名)が推薦され、室長会の承認を得た。たしかに本来なら評議員に選出される4名を顧問に抜いたため、評議員4名は入れ替わった。しかし「先輩酷使」の文字の志向するところは不成功におわり、以前と変わらぬ顔ぶれであった。ともあれ、ゴタゴタせずに無事新役員ができてよかった。

 杖の友会正副会長から総代に次の申出があり、善処を要望された。
  病室関係
 1、病室の風呂が病人本意でないこと。
 2、洗面所と炊事場所との区別がないこと。
 3、便所の位置について。

  治療室関係
 4、廊下に担架車の放置してあること。
 5、耳鼻科内に土足で上がれないこと。
 6、寒中待合室のないこと。
 7、黒板の予告について適当な方法がない。
 8、不自由室、普通室の診察日が同日で混雑する。
 9、盲人に声をかけない人のあること。

  会館関係
  10、下駄、クツの整理の不完全なこと。
  11、敬礼のおり、そばから注意する人のいないこと。

  室内関係
  12、食事中に茶、汁を茶碗に注いでも声をかけてくれないこと。

  往来関係
  13、担架車その他を放置してあること。
  14、コンクリート道の不完全なこと。
  15、ポストの位置。
  16、道で立ち話をする人のあること。
  17、担架車にベルのないこと。
  18、道に危険なヵ所のあること。

 大別して設備に関するもの、晴眼者が注意して改められること、考慮の余地のあるものとなる。特に1~3の病室関係はその通りで、衛生など初めから考えた形跡はなかった。看護は患者にさせて、当局はわれ関せずである。建物は古く、壊して改築する以外手のつけようがなかった。一般的なこともあるが、晴眼者の教えられる点が幾つかあり、目の不自由な者の日常がうかがえよう。総代は善処を約束した。
 総代常務委員一同は会館で職員の各係と会い、今年度の支給品についてあらかじめ協議した。前年度のように後半になって急に予算不足を理由に、節約を押しつけられないためである。本来なら患者がそこまで心配しなくても、当局が患者の意向を吸収して、自主的に計画を練るものなのである。
 一、被服類は前年度の節約案通りとする。
 二、布団その他衣類の洗濯は最少限とする。
 三、木炭は530俵ですますこと。臨時的なものは別とする。
 下駄は前年通り3ヵ月にしてその間の鼻緒の支給を当局は主張し、患者側は2ヵ月に短縮するよう要望して折合わず、当局は所長とも相談して回答することになった。鼻緒は支給されても下駄の台そのものが、3ヵ月は無理であった。
 野島所長の臨席を得て警防団が結成された(6月19日)。普通室の男子30歳までは青年団に属するが、警防団は30歳以上の者の組織であった。時局の進展にともない度々の防空演習も、それが演習であるうちはよいが、演習でなくなる日に備えてであった。すでに何人かが不幸にして病気のため傷病兵として入所していたが、病友中に今次支那事変に出征している、
 兄をもつ者 19名
 弟をもつ者 31名
 子をもつ者  4名
 出征したが現在解除になって帰還している兄7名、弟5名、子1名。
 戦死した兄2名、弟1名、軍属の兄1名で、570名中71名が兄を弟を子を戦地に送り、すでに4名の戦死者を出していた。
 大きな問題である全農地の耕作権回収に関する、諸規定の草案起草が急がれていた。患者の居住地帯とは反対側の山の西斜面に、一町足らずの段々畑がある。それが30余人の耕作者によって作られていた。現在は西側や相愛の道の上まで畑となり、足摺山の果樹園跡には火葬場が設けられている。開所して間のないころ、旧火葬場の飛び火で山が焼け、そこを畑にしたのが始まりといわれている。それら各人勝手に周辺を拓いて広げた。当局がその畑から収穫する野菜を買上げて給食の菜として使用するに至ると、耕作地は有利な収入源となって値段をつり上げ、私有地ではないが私有地化した。14年当時、坪当たり80銭~1円10銭程度になっていた。これが自治会の手の届かないところで個人から個人へ売買されて渡り、収入のアンバランスを生じていた。
 自治会創立以来、不合理は分かっていた。療養所のうちに私有地みたいな土地があるなど、バカげた話であった。しかし個人が金を払って買って耕作する土地を、無償(ただ)で没収するわけにいかない。といって買上げるには金がなく、論議を呼ぶに止まった。永い間の利害や感情問題もからみ、うかつには手がつけられなかった。
 それをいよいよ買上げることに決定した。幸い野島所長も先刻不合理は承知である。理解と協力を約し、向こう5ヵ年間、年々250円ずつ1250円慰籍会から支出することを約束した。これを財源に、5ヵ年計画で30余人の持つ耕作権を自治会で買上げる。現在の耕作者には耕作を続けてもらうが、やめる時は殖産部(前の事業部)で損をしない値で買上げ、希望者順に貸しあたえる。こうして5年後には全部買上げて自治会の畑とし、耕作者はその小作人になる規定であった。
 大島神社の敷地が竣工した(11月15日)労力奉仕延べ770人、日数9日。神社造営が決まると国民精神の高まりのなかで、多くの者がよろこんで奉仕に出た。北山の南面山腹を切込み、前面に出した土は芝を植えて土坡(どは)として築き上げた。東西と南を見はるかす地であった。
 死亡率はこの年、また前年を抜いて52名の9%に違した。死者は不思議とあるときに集中する。それは一日であったり、二、三日にわたる。人の駈ける足音がしたら、病状が急変したと思って間違いなかった。

 昭和15年を単的にいえば日独伊の三国同盟が締結され、軍服に似て非なるみどりがかった国民服の制定された年である。横文字追放でゴールデンバットが金鵄(きんし)となって味も香りもなくなり、統制々々で物が消えてなくなり「ぜいたくは敵だ」の看板が立って耐乏生活を強いられ、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」がはやった。
 告別式に職員一同からと自治会からと、一対の花輪が霊前の左右を飾ることとなった(1月27日)。物が無くて生前にして上げられなかった後に残る者の、せめての心尽くしであったろう。自治会と相愛青年団が共に創立9周年を祝った。そのころから石炭が入らなくなり、機関場は午前中で蒸気を止めた。昼食と夕食はふたたび一緒に煮炊きして渡され、薬局も消毒室も病室の風呂も、正午を境に蒸気が使えなくなった。足袋が手に入らないからと一足分の50銭、現金で690人に支給された。外出自由の職員に買えないものが、出られない患者に買えるわけがない。結局は足袋なしで冬を過ごせということである。
 殖産部は養鶏、養兎、養豚の飼料に困り、当局に精麦を願い出た。精米所で精麦も共に行ない、隣の印刷所を改造して乾燥室とし、米糠(こめぬか)ばかりでなく、麦糠(むぎぬか)も取って飼料にしたかった。おなじころ人間のほうにも異変がおきた。半麦飯のうちの麦でなく米のほうの、二合五勺のうちの一合が外米となった。さらに1ヵ月後には、週1回は代用食のうどんとなった。総代は農耕者に集まってもらい、春の作付けは耕地の1割にトウモロコシを作るよう要請した。殖産関係の飼料の足しである。
 例年通り果樹園清遊が始まると、希望者は157名に上った。右も左もうっとおしい話ばかりである。せめてという気分になったのだろう。陽春の海を渡って梨や桃の花の間を逍遥(しょうよう)してつかの問の桃源郷にひたり、塩気のない清水を沸かしてうまいお茶でも飲みたい。
 ホータイやガーゼが手に入らなくなり、所長はその筋へ陳情のため上京した(5月19日)。戦傷兵に使用するものなあ、と半ば病友もあきらめている。守屋医務課長はマイクを通じ、ガーゼとホータイの節約を呼びかけた。大島神社が造営され、落成式が雨天のため会館であり、1週間後の吉日をえらんで鎮座祭となった。りっぱな石の鳥居が立ち、小さな本殿の屋根に小さな千木が光り、小さな鰹木が横たわる。
 果樹園で当直することになった(7月13日)。桃、梨、西瓜、トマト、何からでも手当たり次第盗まれる。どうも夜舟で来るらしく、それらしい足跡が渚の砂地に残る。その足跡に大きなお灸をすえてやるといい、という者がいた。
 「えらい世の中じゃ。患者の作ったものを健康者が盗りに来る」
 誰も予想しなかった。
 功労互助金の支給が始まった(8月6日)。
 「功労互助規定」により13名の該当者総額(月2回に支給して1回分)6円38銭であった。いまのところ金額は大したことないが、将来だんだん増加する。この規定は制定した初めから論議を呼んだ。総代の1ヵ年勤務を最高の100点とし、以下副総代、常務主任と順に低減して全役員におよび、最低を普通作業の1年30点とした。これを年々加算して600点に達すると、功労者として功労互助金が支給される。昭和6年の自治会創立にさかのぼって通算したため、支給開始時すでに資格者が13名となった。
 永い間、ご苦労でしたというお礼の意味はあったとしても、当の役員の手で制定されたのがまずお手盛りという感じを与えた。さらに普通作業20年無休は不可能に近い。自然と役員の優遇策と見られた。役員難打開の意図はあったとしても年と共に増加するため、経済的にも将来に問題を残した。また支給が予定される者は心苦しいと反対した。にも拘わらず一部に強く主張する者がいて成立した。
 永年間、毎月欠かさず布教のため来島したエレクソン夫妻の、送別会が会館であった(10月26日)。支那事変の拡大にともなって日米間が険悪となり、アメリカ人としてついに居辛くなって帰国する。童顔の師が別れの挨拶をすると、病友の中には悲しみのあまり泣く者がいた。エレクソンさんと呼ばれ、国籍を超え宗派を超えて多くの人に親しまれてきた。夫妻はいったん高松に帰り、11月20日横浜から鎌倉丸で30年住み慣れた日本を後に帰米した。エレクソン師はその後倒れてバルチモアの自宅に病み、ついにふたたび相見ることなく21年10月30日召天した。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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