わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第1章 産 声(昭和6〜25年)            赤 沢 正 美

 1 産 声

 「杖の友会」誕生

 昭和6年1月16日朝、西の浜へ散歩に出かけた者が、砂浜にラジオが投げ捨てられているのを見つけ、あわてて寮に帰り皆に知らせた。それを聞いた者たちがわれ先にと浜へかけ出して行き、後から行った者が見たのはこなごなに打ち砕かれたラジオの破片であった。
 島に一台しかないこのラジオは、福島前香川県警察部長より寄贈されたもので、会堂の患者席より一段高い職員席の柵の向うにおかれていたものである。寄贈を受けた当時は職員の手によって時どき聴かせてくれていたが、その後は、暇がないとか、故障しているとか言って、かけてくれないだけでなく、外部からの視察者にはわざわざ案内して、いつも患者に聴かせている………と説明していた。将棋や碁以外娯楽のない患者にとって、ラジオは社会の動きや演芸などを聴くことのできる唯一のものであった。
 この事件が引き金となって、職員の非人間的な態度や不当な扱いに対する不満と怒りが爆発し、怒濤のように改革運動へと発展していった。まず患者大会において実行委員を選び、石本実行委員長を先頭に、患者の全作業放棄、職員11名の更迭を要求、それが出来なければ患者全員を愛生園に転園させるよう、小林所長に申し入れた。それと共に17項目にわたる医療と生活改善を求め、入所者413名の結束もかたく、香川県清水衛生課長と団交を重ね、解決を一任して、1月31日一応妥結したのであった。
 この運動の体験から、それぞれが患者である前に一人の人間であるという自覚を深め、同じ運命を背負った者同士の共同体意識が芽生えた。そして、この島を第二のふるさととして生活の改善を行ない、明るい療養所を築いてゆこうという気運が高まり、3月8日、患者自治会が結成されたのである。
 改革運動が起こるや自主的に臨時青年団が作られ、大野団長のもとに夜警に当るとともに、放棄した患者作業に職員が就かなかったので、病棟入室者や不自由者看護、その他日常生活に必要なことは青年団が奉仕によって行ない、側面的に実行委員を助け、改革運動の中核的な働きをしたのである。自治会発足後正式に、「大島相愛青年団」が結成され、弁論大会もしばしば開かれた。集まった弁士や聴衆は、自分たちの生活の場をよくするための意欲に燃え、知識や認識を高め。まず自己改革から始めようとして真剣であり、弁論大会はいつも活気に満ちていた。
 こうした状況下にあって、盲人有志の間では、自分たちの会を作っては………という話がもち上ってきた。盲人という最も不自由な立場にある我々も、ただ手をこまねいているだけでなく、自治会の一員として明るい療養所作りの一端を担う責任があるのではないか。盲人がその不自由さをこえて立ち上り、生命の火をもやし、自らの存在をかけがえのないものとしなければならない。たとえ軽症者であっても、決定的な治療薬の出現がないかぎり、彼らもまた目をうばわれたり、四肢の障害をきたすかも分らない。従って、不自由な者の日々が暗ければ、彼らの明日もまた暗いのである。我々が盲人の会を作ることは、今以上に人の世話を受けることになる、めくらが会を作っても足手まといになるばかりではないか、という声が、周囲からも盲人の中からもささやかれ、躊躇する者もあった。しかし、会を作り、連帯の必要性は認めながら、なおかつ踏みきれないものがあったのは、発病によって受けた心の傷の深さと差別扱いの中で、おのずから培われてきた精神構造によるものであろう。
 不自由寮といっても設備は軽症寮と同じで、盲人のための配慮は何もなされていなかった。ただ違っていたのは、内縁から顔が洗えるように洗面台があり、小さな水がめと柄杓がおかれていた。目が見えなくても治療棟へは行かなくてはならず、そのためには探り杖が必要であるが、杖は医務課からも給品所からも支給してはくれなかった。それで友人や知人に頼んで、山からムロの木を切ってきて作ってもらっていた。軽症者の看護によって食事時の世話や便所、廊下、外まわりの掃除はしてくれていたが、部屋の中の掃除は、目が見えて箒の使える者がしていた。21畳の大部屋で10人以上の者が生活しているなかに盲人がたいてい2、3人まじっていて、日常のこまごましたことは同室の晴眼者の手をわずらわさなければならなかった。寝起きを共にしている者の間でそれはごく自然なものであったが、盲人は気を遺って早く起き、衣類を身につけ、夜具をしまうなど、少しでも迷惑をかけないようにしていた。
 そうした有形無形のものが心の襞につもり、そっと自分の生命だけをみつめていたい………との思いもあった。だが、ひとりの世界に埋没する凍土からは何も芽ぶかないことを知る盲人有志によって、現在目が見えない自分たちだけのこととしてとらえるのでなく、広い立場に立って会を組織しよう、という方向にかたむき、準備委員会を設けることになったのである。ちょうど一区画に不自由者寮があったので、準備委員は盲人たちの意見を聞きながら集会を重ね、規約を草案し、会の名称を「杖の友会」としたのである。この時はまだ青年団に後援を頼んだわけではなかったが、積極的に規約作りの筆記なども手伝ってくれた。そして、杖の友会結成後は後援団体としてお世話下さることになったのである。
 昭和7年5月27日、島の空は晴れわたり、さわやかに潮の香が流れていた。「杖の友会」発会式の始まる午前10時前になると、会堂へ行く道は杖の音でにぎやかになった。そのひびきは、ハンセン病の宣告を受け、失明した者たちが晴いトンネルをくぐり抜け、未来に向って歩もうとする音でもあった。足の傷などで歩けない者は青年団員によって担架車に乗せられたり、背負われたりして連れられて来る。会場では履物や持ってきた座布団をとって席に着かせてくれた。病棟へ入室している者以外はみな集まり、久しぶりに顔を合わせた者などもいて、しばらくはざわめいていた。
 やがて定刻となり、山形準備委員長より、「わたしたち盲人が、会を結成することについて紆余曲析がありましたが、共通の悩みをかかえている者一人ひとりの決意と、周囲の方がたの温いご理解のもとに、きょうを迎えることが出来ました。…………」という簡単な挨拶とともに、経過報告が行なわれた。そして、全文17条にわたる規約草案の説明がなされ、他の委員からも補足説明があり、1条1条にわたって質疑応答があった後、全員一致で承認、ここに会員65名の「杖の友会」が、光を求めて誕生したのである。直ちに投票用紙が配られ、青年団員の代筆によって、規約第8条に基き選挙の結果、会長・山形豊、副会長・植田土生、ほか幹事6名を選出、顧問として大塚一を推薦した。
 挨拶に立った山形会長は、「会を作るに当り、準備委員の一人としてたずさわってきた関係上、この度微力なわたしが会長としての任務を負うことになりましたが、他の役員と共に会の具体的な活動については皆さんのお力を借りながら、その責任を果してゆきたいと思っております。わたしたち盲人はきびしい生活環境におかれておりますが、お互いにその存在を照らし合い、心を温め合いながら、この会を一つの生命体として息づかせ、発展させてゆきたいと思います。また、各療養所の盲友と交流をはかるとともに、一般社会の盲人にもわたしたちの生活を知っていただき、語り合える日のくることを願っています」と、りんとした声で抱負を述べた。続いて自治会の石本常務委員長より、「不自由な皆さんが会を組織され、意欲的に歩もうとされていることに対して心から敬意を表します。自治会財政にゆとりはありませんが、可能な限りの助成をしたい………」旨の祝辞が述べられ、後援団体の大野青年団長より。「皆さまのご期待に添いたいと思っているので、遠慮なく申し出てくれるように………」との励ましの言葉があった。
 ひき続いて、自治会主催による盲人慰安会に移り、石本常務委員長より挨拶、山形会長よりお礼の言葉ののち、和やかな談笑のうちに昼食がわりに用意されたものをいただきながら、短歌、俳句、冠句、ものはづけなどの文芸活動や、盤も駒もいらない盲人将棋を会員に広めては………という話も出た。その他新しく出来た治療棟や昔の苦労話も出て、午後2時盛会に終了したが、この日は盲人にとって、画期的な記念すべき日となったのである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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