わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 12 第一回瀬戸内三園盲人協議会
            吉 田 美枝子

 7月11日午前8時、「元気で行って来いよ」、「気をつけてなあ」という見送りの声々にこたえて、大島丸は勢いよく汽笛を吹き鳴らし、一路長島へ向ってすべり出した。光覚の残る私の目に太陽はキラキラと海にかがやき、空梅雨に明けた今年の暑さを思わせる。
 この日は春の友園交歓と違って、瀬戸内ブロック会議に出席する自治会代表5名と、それに同行して、三園盲人協議会に出席する私たち4名、世話係1名というまことにゆったりとした船旅である。目の見える人にとっては“航航けり夏の島山率てゆけり 誓子”の眺望を満喫できるであろう今日の快晴も、私たち盲人にとってはやたらに暑いばかりである。それでも男性たちはながながと座席に横になったり、上着を脱いだりして、自由なくつろいだ姿勢で雑談のたばこに火をつけている。副会長の籠尾さんが人室したばかりにかり出されてきた私は、男性にまじる女のつつましさで、なるべく汗にならないように服の襟を気にしながら、船脚に鞭うつ思いである。途中船に弱い北島さんが播磨灘で少し酔ったが、全員無事に長島愛生園の桟橋に着いた。ところが降ろされたのは職員桟橋で、とまどっていると車が迎えにきてくれた。もう10年余も自動車というものに乗ったことがないのでちょっとなつかしく、走り出したもののカーブなどでお互いがぶつかり合うため、気をゆるめるわけにゆかない。それでも車で乗り着けるのだと思うと、まんざらでもなかった。
 午前11時おなじみのライト・ハウスに、今日はそれぞれ責任と使命を負わされた三園の自治会代表と、盲人会代表が合い会したのである。型通り各自治会代表の挨拶が終ると、私たち盲人代表は早速協議会についての打ち合せに入る。そうこうするうちに昼食となり、食事をすませると、知人に会うことも、頼まれて来た人たちを訪ねる余裕もなく、指定されている会議場に席を移した。そこはこの程落成したばかりの点字図書室で、畳や木の香のさわやかな感じの部屋であった。
 午後1時15分、長島の田畑さんの司会によってハンセン病盲人協議会が、緊張した空気のうちに開会された。私はこの場にただ一人の女性であるという意識が胸をしめつける。しかし長島の波多野会長、田畑、近藤両副会長、全盲連の三好事務局長、藤井局員、邑久の小川会長、岩谷、藤原両副会長、文教担当三上さん、大島の北島会長、幹事の河淵、磯野さんという顔ぶれで、いずれも旧知の人たちばかりで、私は少し心臓を強くする。各会長の挨拶のあと、議長に副会長の田畑さんを指名。長島では議長制による会議がなされているらしく、田畑さんの議長ぶりも板についている。まず最初にこの三園盲人協議会を、今後は自治会のブロック会議と並行して開催できるようにして欲しいという要請書を、別の場所で持たれている瀬戸内ブロック代表者会議議長に提出することを決定した。
 続いて各盲人会より提出の本議題の審議に移る。
 一、分館窓口に盲人世話係配属について
 一、カナ付点字タイプライターの支給について
 一、三園もち廻りによる点字競技会について 他5件
 いずれも私たちの福祉に関する問題であるだけに、質疑応答もはげしく、常にこうしたことに馴れていない私などはタジタジである。いつか蝉の声も遠のき、扇風機もただ唸るばかりで一向に風をよこさない。夕食後ともなれば、神経痛もちの私の頭は、痛み止めをのんでも混乱するばかりで、白熱した討論もともすれば頭の上をとんでゆくという有様である。
 議長の田畑さんが暑さで倒れたため、近藤さんが議長を代行される。誰も暑さと長時間の会議に疲れていたが、終始きびしい中にも和気に充ちた討論で、午後9時30分本議題8件の審議を終えた。やれやれと思う間もなく、不自由者食費についての懇談事項で10時を廻ってしまった。ちょうどそこへ私の宿に決められている友人の渡辺さん夫婦が、迎えに来ているという知らせがあったのを機に、先に失礼して光が丘の中腹にある渡辺さんの家に落ち着くことができた。
 今朝島を出てからなので、相当疲れている筈なのに寝つかれず、柱時計の冴えた音のみが静まりかえった夜気を刻んでゆく。明日も続く会議なので、早く眠らなければと思っても、やはり昂奮した会議の状態が枕の中に繰りひろげられる。それだけに今日の会議が私にとって新鮮なものであったと言える。事実大島での幹事会のように、ともすれば横道にそれる懇談形式とは違い、議長中心に行なわれるこの度の会議や、長島、邑久のように各部の担当者が、それぞれのデータによって発言し、答弁していることなど、深く考えさせられることであった。何と言っても膝をつき合せて話合うことは、文書と違い納得のゆくまで意見の交換ができ、一つの盲人会で解決の難しい問題も、三園で話合えばなんなく解決のつくといった体験は、この協議会で得た最大の成果であったと言える。
 いつの間に眠ったのか、ふと目を覚ますと雀たちが晴れやかな朝を告げている。うしろへ引っぱられるような頭の重さをふりきって洗面に行くと、かつて小見山さんに“塩辛き水に慣れつつ真水の茶ふふめば舌にほろ甘きかな”と歌わせただけあって、大島の塩辛く不自由な用水と違い、長島の水は全くすばらしく、ロにふくめばまことに“ほろ甘きかな”である。尽きることを知らぬ甘露の水に眠気を洗い落すと、何だか自分の顔が急に美しくなったような錯覚をおぼえる。光が丘の中腹といえばそう高くはないのだろうが、雑音もなくすがすがしい。渡辺さんたちの心づくしのお茶もそこそこに、日差しの明るい坂道を、みんなのいるライト・ハウスに向って降りる。
 朝食がすむと、昨日倒れた田畑さんも元気に出て未られ、ライト・ハウスの前で一同の記念撮影を行なった。午前9時昨日につづく会議再開。
 一、盲人会予算について
 一、不自由者特食費について 他1件
 いずれも研究議題だが正午近くやっと予定されでいた本議題8件、研究議題3件をすべて終了することができた。
 午後は長島盲人会の幹事の人たちも参加しで、なごやかな懇親会が催された。そして午後2時30分、どうにか使命を果たすことができた安堵感と、今回の会議で得た大きな感銘に胸をふくらませて帰途についた。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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