わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 4 改造された重不自由者寮
            故 大久保 岩吉

私たちの待望していた独身不自由寮の改造工事が始まった。工事中にもいろいろな話が耳に入ってくるので、どんな風に改造されてゆくのかと心待ちにしていた。そして新しい寮に移ったのは、年もおし迫った26日頃であった。入ってみると以前の大部屋と違って、12畳の部屋は休に感じる空気も何となく窮屈で、まだ壁も充分乾いておらず、それに炬燵をするので、炭火の熱気と湿気でみんなは頭痛を起こすやら、食事の進まない者も出て、ちょっとした騒ぎであった。
 設備のよくなったことは洗面所が内縁にできたこと、便所が広くなり、便器の数も増えたこと、それに押入れがゆったりし、襖も板戸になって開けたり閉めたりするのが楽になったことなどである。中でも一ばんありがたいのは風呂が内風呂になり、治療がすむと部屋で着物を脱ぎ、うす着になって廊下伝いに行けるので、脱衣場が混雑することもなくなった。それに誰に気兼ねもなく3、4人ずつ交替でゆっくり入浴ができ、また傷のある者は入浴の後、外科交換をしてもらえるので喜んでいる。
 私の部屋は1人が病棟に入室しているので、軽症者の看護人を入れても4人なので、寝床もゆったり敷けるが、隣の部屋は看護人とも5人なので布団が重なり合い、夜など便所へ行くとき、注意していてもつい人の手や足を踏んだりして困っている。私たちは定員を3名にして欲しいと強く希望していたが、それは認められなかったのである。
 次に食事のことにふれると、一棟が4部屋になったため、看護人が朝は東から昼は西からと言った具合に、重い食鑵を提げてつぎ分けて歩いている。廊下では狭すぎるし、たとえつぎ分けられたとしても、一人一人の食器を間違いなく配ることは困難である。こうなると食堂や配膳室があったらと思う。
 天気の良い日など縁で日向ぼっこをしながらみんなでよく話をする。誰もが便利になった点については話すが、悪いところはあまり言わないので、感じたままを書いてみた。今後の参考になれば幸いである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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