わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第3章 環境改善の闘い(昭和35~42年)

 19 不自由者看護の職員化を望む
            今 井 種 夫

 初めて療養所を訪れる人が一様に驚かれることは、園内の管理作業すべてが入園者の手によって行なわれていることである。ハンセン病療養所の内情を知らない人々は、一般病院のように何もかも職員によって運営されているものと思っているであろうが、明治42年ハンセン病療養所が開設されて以来、半世紀を越える長い年月、隔離政策のもとに病棟を始め不自由者の看護、治療棟の助手などあらゆる業務が、軽症者によって行なわれてきたのである。
 こうした不合理が今日まで続けられてきたことにはいろいろな理由があげられるが、ハンセン病は長期療養を必要とすることから、比較的軽症な者を半ば義務的に園内作業に従わせ、たばこ銭にも満たない賞与金で療養所を維持してきたのである。しかしこのような状態がいつまでも続けられるはずはなく、戦後全患協の結成と共にこの不合理が指摘され、らい予防法改正闘争を契機に患者意識が高まっていった。
 その間、新薬プロミンなどの化学療法によって著しい治療効果をあげ、社会復帰をする者も出るようになり、われわれに明るい希望をもたらすことになった。従ってこれまで義務的に作業についていた者もそれを厭うようになり、加えて障害福祉年金の適用によって、作業運営に支障を来たす結果となった。こうした中で軽症者の看護を受けているわれわれ盲人や不自由者は、そのしわ寄せを受け、肩身のせまい思いをさせられるようになり、職員による看護を望む声が高まってきたのである。
 一方全盲連でも、不自由者看護職員切替の促進を、厚生省及び関係者に強く訴えつづけてきた。これに対して厚生省では、われわれのこの切実な要望にようやく腰を上げ、まずテストケースとして、35年秋より多磨全生園、栗生楽泉園の一部が職員看護に切替えられたのである。このことは患者が患者を看とってきた不自然な状態からの脱皮であり、療養所の将来のためにも喜ぶべきことである。しかしわれわれはこの問題について充分考えておかなければならないことは、厚生省の切替案と、看護を受ける立場のわれわれとでは、基本線において相当の距たりがあると思うのである。すでに実施されている2園の状況を開くに及んで、その感をますます深くさせられている。
 全患協においては看護切替えに当り、特別重不自由者2名に対し看護要員1名、重不自由者4名に対し看護要員1名、という基本線を打ち出し、その実現に強力な運動をおし進めている。ところが切替えられた2園では、充分な準備もないまま実施したため、設備の不備はいうまでもなく、看護要員の絶対数の不足からくる不満や欠陥が問題になっている。だが各園では看護作業難からくる職員看護を急ぐあまり、統一した全患協案には程遠い厚生省案を、無理と知りつつ受入れようとする動きがみえ始めた。このように各園バラバラに切替えを急いだのでは、組織の足並みが乱れるばかりか、看護要員の不足はのちのちの切替えに支障をきたすことになる。このことを重視した全患協は、第5回支部長会議を開き討議を行なった結果、切替えに伴なう次のような附帯決議がなされたのである。
  実施の方法としては、基本目標を実現し得る計画に副って切替えられるのが望ましいが、事情によっては看護内容の完全度において、基本目標の線を実質的に維持できると判断し得る場合、本部の了解を得て実施を推し進める。
 といった支部事情によっては、多少の譲歩もあり得るとの印象を暗に与えている。これが全患協組織の弱体化を招くのではないかと危惧するのである。ともあれ多磨、栗生のような不完全な設備と、不充分な看護要員による看護切替えを受け入れた場合、看護を受ける立場にある盲人や不自由者は、予測される看護の低下に不安を覚えるのである。
 職員看護切替えに当ってはお互いに全患協の基本線を守り、強力な運動を展関してゆかなければならない。そして、われわれ不自由者の実状を関係者に理解してもらうと共に、最も望ましいかたちで、職員による看護が速やかに実施されるよう、全盲連においても更に一段の努力を払うべきだと考えるものである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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