わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第4章 飛 躍(昭和43~50年)

 30 不自由度調査
            田 頭 鶴 弘

 ハンセン病療養所の不自由者の職員看護は、不自由度区分が基準にされておこなわれています。
 その不自由度調査は、39年と41年の2回にわたり、厚生省の派遣医によって行なわれました。認定結果はすでに公表されましたが、その不自由度を表す点数の付け方には問題があり、不満の声が出たものです。
 私達が意見を提出できる機関に、寮長懇談会がありますが、その懇談会に、41年の不自由度調査も公表してほしいと申し出ましたが、時の自治会は医務課長の指示に従って公表しませんでした。43年度になって、もう一度寮長懇談会に出し、全盲の者は何点か、また内部疾患も加味されているのかと、医務課長に尋ねてもらったところ、そんな基準はなく、障害全体を見て不自由度の点数は付けられている、という漠然とした回答しか得られませんでした。なお、四国地方医務局次長が来園された時、その事を尋ねてもらうと、内部疾患も不自由度に加味されているとのことでした。41年の不自由度点数はその後も公表されていませんが、希望者には教えるとのことで、調べたところ、39年に行なわれたものと比較してみると、次のようになっています。

 39年度と41年度の不自由度点数が同じ者………30名
 点数を下げられて、持重から重にされた者…………7名
 重から中にされた者……………………………………3名
 点数が上って重から特重になった者…………………1名
 中から重になった者……………………………………2名
 軽から中になった者……………………………………1名

 但し、この数字は第1、第2センター入居者と、近く入居を予定されている者です。
 以上に見られるように、特重であった者が6名も重に下げられていること、重であった者が3名も中に下げられていることは、いいかげんな認定というほかはありません。しかも、認定に当った内の一人である成田医師は、39年にも41年にも認定に当っているのです。不自由者センターに入居し、職員看護を受けている者は、年ごとに不自由が増しこそすれ、障害が軽くなる者はおりません。
 44年度には3回目の不自由度区分の認定かおこなわれると聞いていますが、その点数いかんによって、看護助手の示達がなされるのですから、盲人の生活状態や内部疾患も考慮に入れて、慎重な診察をおこなってほしいものと思います。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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