第1部 光を求めて
第4章 飛 躍(昭和43~50年)
32 瀬戸内盲人親善交歓会 今 井 種 夫
今春長島で聞かれた盲人ブロック協議会に、「三園盲人親善交歓会」を議題として提案した。理由は、最近晴眼者は各地へ行楽に出かけるようになったが、私たちは盲人のハンディーからこうした旅行は困難で、すでに行なわれている瀬戸内の友園交歓も、日帰りのあわただしいものであるため、参加する盲人は限られている。これを少しゆとりのある一泊二日の日程で行ない、相互の交流を深めたいという目的からであった。この提案に長島、邑久両盲人会の代表も全面的に賛成し、決定をみたのである。
その後各自治会の承諾も得られたので、早速幹事会を開き、最初の受入れに当って次のような事柄をとり決めた。
親善交歓会日程
一、期日、10月3日、4日、参加者一支部盲人5名、付添2名
一、10月3日10時30分到着、11時挨拶交換、12時昼食、午後自由時間、16時30分夕食、18時から20時交歓会
一、10月4日、8時朝食、午前自由時間、12時昼食、13時歓送会、15時離園
以上のスケジュールと共に、長島、邑久両盲人会に招待状を送り、この交歓会実施の日を私たちは楽しみに待っていた。
いよいよ明日は両園の盲友を迎えるのだと思うと、緊張を覚えたが、熱帯性低気圧の余波で海上が荒れており、この分では予定通り迎えられるかどうか案じられた。しかし朝起きてみると嘘のように海は凪ぎ、秋のひかりが澄み透っていた。
午前11時5分前、予定より少し遅れて友らを乗せた船がかろやかに桟橋に着いた。出迎えている私たちの前に、馴染みの声もまじってつぎつぎと上ってくる。互いに簡単な挨拶を交しながら盲人会館に落着く。そして小憩の後、三園親善交歓会を実施できた喜びをこめて歓迎の言葉を述べる。つづいて積極的なご援助をいただいた自治会岡本会長から歓迎の挨拶があり、明年度担当の邑久盲人会三上久氏、長島の村瀬弘氏からそれぞれ挨拶が行なわれた。やがて昼食となり、接待人によって運ばれた食事をしながらも、会館内は和気あいあいとした雰囲気に満ちていた。
午後は自由時間なので、各自思いおもいの行動をとってもらうことにした。職員看護の実施されている第一センター、この春完成した第ニセンターを見学したいという人もあって、役員や世話係の案内で出かける。看護切替といっても、三園三様の様式がとられ、盲導パイプも第一センターの場合頭上に設置されており、目印しにとりつけてある鈴も珍らしいようであった。また配膳室に冷蔵庫が備えられていることを知って、「うちにはまだないのだ」と、うらやましそうに言っていたが、彼にはこれも収穫の一つであろう。それから私の部屋に短歌の友が集まって歌を語り、遠くの歌友に寄せ書きもした。なかには知人を訪ねて久しぶりの再会を喜び合うなど、午後の時間は慌しく過ぎていった。
夕食ののち、6時から会員も参加して交歓会に入る。吉田副会長の司会で、まず自己紹介、続いて三園の情報交換が行なわれ、拠出制年金移行の問題、看護切替の現況、その他についてざっくばらんに話し合う。司会が磯野副会長にバトンタッチされて余興にうつる。最初は早口言葉で、座をひとまわりし、盛り上ったところでのど自慢となる。大島から吉田、東條、石本の女性トリオで「愛と死をみつめて」を歌い、邑久からはめでたい「鶴亀」の歌を工藤さんが渋い喉で聞かせてくれ、長島は「ドドンパ」を三好君がたくみに、そして彼の風格をのぞかせて歌った。こうして三園かわるがわるののど自慢が、秋の夜の更けるのも忘れて楽しくつづき、午後8時文歓会を閉じた。そして世話係により夜具の用意をしている間も、事務室に集まってまた話がはずんだ。
翌朝会館に出かけてゆくと、6時頃から起き出した者もあったようで、いちばん遅くまで寝ていた三上君は寝言を言ったとかで、みんなにからかわれていた。そのうち朝食となり、友園の盲友といっしょにとる味噌汁の味はまた格別であった。午前中は売店に行く人、病棟に入室の友を見舞う人、会館に残って話し合う者など、時間はあっという間に過ぎてしまった。
午後1時からは歓送会を開き、別れの言葉を交し合って、3時一行14名を乗せた船は、尽きぬ名残りのうちに桟橋を離れた。
この度三園盲人親善交歓会を実現することができ、顔なじみの友や、はじめての友を迎えて話し合い、有意義な集いを持てたことの喜びは深かった。こうした交流によって互いのよさを知り、明日への活力を養うことは、全盲連組織の強化につながるものと思う。
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