閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

目次 Top


第六章
 胎動期

 14 公民権の行使(昭和21、22年)

 戦後、園内でも国の民主改革に沿って少しずつ改革が行なわれた。それは次のとおりである。

 21年
 2月21日 変動する社会の実状を視察するため代表2名を高松市に派遣。
 3月12日 隣組を解散する。
 4月 9日 大島神社の神体を村の権現神社に戻す。
 7月10日 一時帰省の期間を3週間に延長する。
 7月16日 図書室の軍国主義的書籍を廃本にする。
 9月21日 会館の患者席と舞台との境界に取りつけられた欄干を、民主主義の一端として取除く。

 このうち一時帰省については、中、四国八県の要請に沿い、自治会が自主規制して2週間に短縮していたもので、機会があれば戻したいと思っていたのを、戦後の改革の波にのせた措置だった。一時帰省についての内規改正は22年1月にも行なわれた。つまり、供託金制度を採用することにした。それは一時帰省希望者に150円を供託させ、期限より1日遅れれば10円ずつ没収、11日以上遅れた者からは供託金150円を没収するというもの。これまでは一時帰省申請書には保證人(ほしょうにん)2名を必要とし、帰省者が期限に遅れたら帰省者に制裁を、帰省者が帰園しないときは保証人に5日間の謹慎を課していた(20年5月制定)これらの制裁措置を取止め、新しく供託金制度に切換えたのだった。一時帰省の制裁措置、ことに保証人の制裁については、会員の中にもおかしいではないかという声があった。また、それを内申し、謹慎を伝える自治会役員も、役目とはいえ後ろめたく全く後味の悪いものであった。しかし、この措置は22年以降に適用され、以前にさかのぼらなかった。このため、22年以前に一時帰省してそのままトンボした者は、その後の強制収容で再入園してきて監房に入れられた。この保証金供託金制度も23年10月に廃止され、帰省の期間も30日に延長された。なお、厚生省が正式に一時帰省を認めたのは27年6月である。
 21年8月には長島、邑久の自治会幹部を迎えたあと同24日、各団体代表による視察団が長島、邑久を訪問、8年の野球団訪問から13年ぶりのことである。この時、今後瀬戸内3園が共同歩調をとることが話合われた。10月、星塚敬愛園の自治会代表徳田氏来園、11月、購買部係の高松視察ならびに必需品買出し、12月、自治会代表の星塚および菊池恵楓園2園の視察訪問と自治会の眼が外部に向けられている。島住まいの特有の保守性がつよい大島としては珍しく積極的な動きをしている。誰が代表をやっても変わらないと言われてきたが、時の代表によってすこしは変っていた。

 生まれてはじめて聞く民主主義という言葉に迷いとまどったのは一般健常者だけでなく、入園者にとって同様だった。21年の園内版青松(詳細は文芸の項参照)1月号にそれぞれの民主主義論が寄せられているが、その巻頭言につぎのような注目すべき文章がある。

  民主主義、民主主義と誰もが民主主義の中から生まれたように言うが、らい者の公民権ということには 誰もふれぬ。ふれる程の代物ではないかも知れぬが、それはそれとして触れて呉れぬなら吾々から一応触 れてしかるべきではあるまいか。これほど大きい民主主義はない筈でありこれほど大きい政治性はない筈 だ。-中略-救らいという言葉の基本は、まずここから始めねばならぬ。
  敢えて識者の一言を待つ次第である。

この文章が何人の者に読まれ、どこまで理解されたことか――
 戦後初の総選挙は21年4月に行なわれたが、入園者はその選挙には参加できなかった。選挙人名簿に登載が遅れたこと、患者が触れた選挙用紙をどう扱うのか、園内に開票所を設けたら、ということで役場から内務省にお伺いをたてたがそれは不許可となったので、それなら園で責任をもって用紙を消毒して本部へ送ることになった、と園内版青松、選挙特集号にある。らい菌は空気に触れたら死滅するといわれていたのに仰山な騒ぎ方をしたものである。
 入園者のはじめての選挙は22年4月20日、参議院議員の選挙だった。各候補者は本館の放送室から園内有線放送を通して演説し、「お願いいたします」と自らへの投票を呼びかけた。「お願いいたします」と依頼されるとは、それも選挙に打って出ようとするえらい人から・・・、かつてないこと、むずがゆく気恥ずかしい気もする。選挙に関心を持つ者はそれだけでふるえ昂奮した。

  渡されし選挙用紙が有難きものの如くにふと思われし  綾井譲

 当日は自治会役員が受付けの補助、下段の患者席の方で受付けをする。職員は舞台の方で受付けをし、投票箱は舞台の前端に置いてあり、両側から投票するようになっている。
 一番乗りを目ざして午前7時前から詰めかける者もある。なかには車に乗せてもらってやってくる者もあり、松葉杖をコツコツ鳴らせてくる者もいる。勇気のいることだが管理委員に代書してもらう者もいた。あるいは誰かに書いてもらった候補者の名前を懸命に書きうつす者もいた。
 投票者のピークは8時から9時まで、その後はしだいに下火になり、昼までにはほとんどの者はおわる。午後になる者は特別な用事を抱えた者だけである。これは選挙だけでなく、作業でも午前中にすませてしまうのが、島のしきたりになっている。
 参議院議員選挙の入園者の投票者数は315名、55%であった。25日の衆議院議員選挙は308名だった。投票率が後の選挙と比較して異常に低いのは、盲目などの身体障害、発熱などで病室入室していて会場まで来れない者が多いからである。4月26日、県会議員ならびに村会議員選挙を目前にした室長会(現寮長会)では、「選挙を居室でできるようにしてもらいたい」と意見が提出された。
 30日の村会議員選挙には、大島から職員の大利、木村の両氏を立てて選挙に臨んだ。
 職員側には庵治村から来ている者が多く、票が割れるおそれがあった。だから一人でも多くの患者の投票、結束した投票が望まれた。ために自治会の評議員会議長が園内放送をとおして両氏の推薦演説を行なった。その頃はそれが許されていたのだ。先ほどの「居室で選挙ができるよう-」をいう意見はこうした情況の中で出てきたものだった。村会議員選挙に限らず公的選挙で、身体障害により投票したくてもできない者を放置しておくことは、公民権のはく奪にひとしい。この問題は25年5月、法的に不在投票が認められて解決した。
 大利、木村の二氏は、候補者が定数ちょうどだったので無投票で当選、どれだけ票が出るか期待していたのにちょっとガッカリ、それでも初期の目的どおり、大島から2名の代表を村会に送りこむことができた。
 つぎの村会議員選挙(26年4月)では、公務員の立候補が禁止されたので、医師、薬局員の夫人と島の商人1名を立てて選挙に臨んだ。
 めったに姿を見ることのできない奥さん方が「お願いします」を連呼しながら療舎の間を回ってあるくのだから、それを迎える入園者もいろめきたった。わざわざ傍に寄って「患者のために頑張って下さい」と声をかける者もいた。連呼して回る奥さん方の中には園長夫人の姿もあった。入園者は島外のえらい人から呼びかけられるより、身近な人で姿を見ることのない、とり澄ました人から「お願いします」と頭を下げられることで、自分が主人公であることを知り、日頃の溜飲を下げた。
 選挙の結果は、商人である木村氏が当選、職員夫人2名は落選だった。
 口の減らない連中に言わせると、患者地帯に入ってきて患者によくする職員を汚ないと言うて陰口を利くのが奥さん連中なんだから罰があたったんだ。落ちるのがあたり前なんだ、ということだ。そんな噂はあったが、事実かどうかは疑わしい。前の選挙で心配されたように、職員票が血縁、地縁で割れるのだから3名を立てることに無理があったのである。こうした結果にはなったが、村会に大島の代表を送りこむ目標を立てたことで、会員の公民権に対する関心を高めることができた。

 生活保護法が21年9月に公布された。
 22年1月8日、職員と懇談会の席上、園長から「国立療養所入所者ならびにその家族は、貧困者として申請すれば、厚生省より救済金を受領する道が開けた」とこの法律の存在を知らされた。
 入園者はすべて「隔離撲滅」「国土浄化」の国策のもとに入園してきている。入園に際しては、らい担当官から、何もいらない、すべて園から支給されるから身ひとつで行けばよい、と言われて入所してきた。ところが入所してみれば煙草もろくにすえない。すおうとすれば園内作業に従事して稼ぎ出さなければならなかった。園内作業、それは本来、職員がなすべき性質のもの、それを患者に代行させ、褒賞金という名目でわずかな作業賃を支給してきた。本、新聞を読もうとすれば図書室に行けばあったが、個人の本でも持とうとすれば、家族に依頼するよりなかった。
 職員の代行である園内作業賃を、保護法でいう臨時収入としてみると、22年、園内作業の甲の部に入る不自由舎看護賃は1日60銭、園内作業は15日交替になっているので、まるまる一月おなじ作業につくことはないのだが、健康に恵まれて一月働けたとして月18円にしかならない。21年に高松に必需品の買出しに出かけた購買係は、60銭だと思った歯ブラシが6円だと言われ、びっくりして戻ってきた。いくら闇値だとはいえ、一月働いて歯ブラシ3本にしかならないのだ。闇値でないたばこ金鵄は1箱2円50銭、8箱しか買えなかった。これが甲の部に入る作業賃だった。作業ができない不自由者は、代用食のうどんを売って煙草代にする者もあった。だからすべての入園者が生活扶助金受給の該当者であった。
 ところが園は何を根拠にしたのか、月額30円の扶助金を25名分しか申請しておらず、これを受け取った自治会は、入所者全員に支給されたものとし、自治会から不足分を補充のうえ、更に一時帰省者を除いて一人9円ずつ全員に配布した(22年3月7日)
 執行部は扶助金があまりに小額なのにおどろき、園と相談のうえ会員の出身県にその増額を要請した。その後は40円だったり45円だったりでまちまちだったが平均すれば45円になった。厚生省は地域によって異なる扶助金の統一をはかるため名称を療養慰安金と改め23年4月より全入所者に対し月額150円を支給するようになった。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


Copyright ©2007 大島青松園入所者自治会, All Rights Reserved.