わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第1章 離 郷

 4 思い出の卒業証書            門 脇 花 子

 私は5、6歳の頃から、痛くもかゆくもない不思議な赤い斑紋が1つ腰のあたりにできていたのですが、苦痛がないだけに病院行きをきらい、痛みがないのをむしろ友だちに自慢していたくらいでした。
 そうして小学校へ入学しましたが、知らないうちにその斑紋が2つ3つと増えるので、たまりかねた母でしたが、限が見えないのでどうにもならず、父に連れられて近くの病院へ行きました。診察の結果、よく分らないということで、2、3種類のぬり薬をくれました。気にかかるもののまさかハンセン病とは知らず、3年ほど薬をつづけましたが、何の効果もありませんでした。
 小学校5年生になった春、その斑紋が顔にあらわれ、腫れぼったく感じるようになり、眉毛も薄くなってきました。そして2人並んでいた机も1人にされ、仲のよかった友だちも遠ざかってゆきました。上級生からは、耳をおおって逃げ出したいような言葉を浴びせられ、子供ながら誰に言うこともできず、毎日暗い思いで通学していました。そのことが父母の耳に入り、私のことを心配して、いっそ退学してはとすすめるのでした。しかし、何とかして尋常科だけはと思い、科目によっては仮病を使って休み、誰とも話さず一人ぼっちの苦しく辛い2年間でした。
 幸い担任の先生が優しく、他の生徒と何の差別もなく接して下さったので、どうにか卒業証書を手にすることができました。私は、“先生ありがとう”と心のうちで叫び、2度と踏むことのないであろう校庭を1歩1歩ふみしめながら、なつかしい学校に別れを告げました。
 そして行きたい高等科にもゆけず、家でぶらぶらしていた9月末の或る日、突然お巡りさんたち3人が訪ねてきました。私は検診と気付き、地獄へでも追いやられるような気持で震えていました。すると、お医者さんらしい1人がすばやく白衣をつけ、父、母、兄と診察をしてゆき、私を診て「このまま家にいると、家族の者みんなに伝染する恐れがあるので、療養所に行ってはどうですか。2、3年も治療をすればきっとよくなって帰れるから」と言って「療養知識」のパンフレットを2、3部置き、アルコールで手を拭くと3人は逃げるように帰ってゆきました。
 そのあと母は「人に言えないような病気になったお前が可哀想だ、代れるものなら代ってやりたい……」と肩をおとし、見えない目を涙でうるませるのでした。そんな母を見るにつけ、私は以前にもまして憂うつになるのでした。県の衛生課からはせきたてるような手紙が遠慮なくとどき、またお巡りさんが度々くるので人目につき、こっそり覗きにくる人もありました。こんな生活に私は耐えられなくなり、置いていったパンフレットに目を通すようになりました。そのうちに私が療養所へ行くことで家族が仕合せになり、親孝行にもなると思い決心しました。
 そして衛生課、警察との連絡もつき、11月末に出発することになりました。親戚の人たちとも心ばかりのお別れをすませ、30日の早朝、父や兄4、5人の人たちに付添われてなつかしいわが家を後に、小雨のけむる桟橋へ急ぎました。しばらく待って小さな客船に乗り、東の空が白みかけた頃、定められた駅に着きました。
 やがて発車時間も迫り、どこからともなく現れた私服のお巡りさんに連れられて、見送りの人たちにお別れの挨拶をしていると、発車のベルがホームに鳴りひびきました。慌てて乗り込むと車内はガランとしていて、後から乗ってくる人たちはお巡りさんに注意されており、どうやら私の専用車のようでした。すっかり心は沈み、盲目の母のこと、なつかしい山や海のこと、知らないところへ行ったらなどと考えているうちに、いつの間にか汽車は山あいをのろのろと走っていました。トンネルばかりの中国山脈をようやく越えたころ、朝からの雨も止み、7時間という長い汽車の旅も終わろうとしていました。連絡船で夜の瀬戸内海を渡り、高松へ着いたのは午後8時過ぎでした。その夜は父と出張所の片隅で明かし、気づかっていた天候も回復していて、お巡りさんと別れ、父と私は療養所行きの「楓丸」に乗りました。馴れるまでいてやると言った父は1週間で帰り、いよいよ私の少女寮での生活が始まりました。
 当時は支那事変、大東亜戦争で物資が不足し、充分な治療も受けられないまま終戦を迎えました。その後特効薬プロミンの出現によって病状も落着きましたが、それも永続きせず、とうとう失明してしまいました。けれど、私の周囲には目の見えない友人がたくさんおりますし、まだまだ不自由な人のことを思えば今の私は仕合せです。それにつけても、子供時代の辛かったかずかずの出来事は、生涯私の心から消えることはないと思います。

 




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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