わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 22 母と妹            岩西 キミノ

 わたしは小さな町の平凡な百姓の家に生れました。わたしを産んでくれた母は34才で亡くなりました。わたしが11の時でした。母はとても元気な人で、よく働くのを見こんで、祖父や祖母が父にすすめて嫁にもらったのだそうです。父はあまり母を好きではなかったらしく、近所のおじさんの誘いもあってよそに働きに出るようになりました。
 母の里はすぐ近くで、家の門口に出て大きな声を出すと聞こえるほどの所にありました元気であった母が、ちょっとした風邪をこじらせ、祖母が、
  「お医者に1度診てもらったら……」
 と言っても、
  「熱さましを飲んで、休んだら治りますけん」
 と、軽く考えていたのが悪かったのか、咳が止まらなくなり、熱も出るようになりました。わたしが昼の食事に学校から帰ってくると、母がいないので祖母に聞くと、
  「母ちゃんは、今朝お医者に行くと言って、お前が学校へ行ったあと直ぐ出て行ったのにまだ帰って来ん。多分里のおぱあちゃんの所へ寄っておるんじゃろうから、学校の帰りに寄って見て来い」

 と言いましたので、学校から帰りに寄ってみると、里の祖母が、
     「今、母ちゃんはよう寝とるけん、目が覚めたら帰るように言うから、いんでおばあちゃんには心配せんように言うとけ」
 と言いました。夕方になってもまだ帰って来ないので、祖母と迎えに行きました。祖母は母に、
  「お医者さんはどう言われたのかい」
 と聞きました。母は小さい声で、
  「気管が悪い、と言われた。気管が悪いのは肺が悪いのといっしょじゃ」
 と、力を落したように言いました。
  「そんなことがあるか。誰でも咳よると気管が悪くなるのじゃから、そんなに自分で弱いことを言うもんじゃない」
 と元気づけておりました。帰っても母は、祖母にもわたしにも何も言わず、床にはいりました。祖母は、
  「2、3日寝とるとよくなるじゃろう。今まで元気で働いてきたけん、疲れが出たんじゃろう。倉次にも手紙を出して戻ってもらうけん」
 と言うと、母は、
  「そんなこと言わんでいいです」
  「いいや、あれもこの前から呉の工場に代わると言っていたけん、この際きれいにやめて家に戻って来るようにした方がええ。手紙を出しておこう」
 と、祖母はおじさんのところへ手紙を書いてもらいに行きました。
 父が帰って来ると母は元気になって、起きてご飯も食べるようになり、
  「畠にも近いうちに行かにゃいかん」
 と元気そうに言っておりましたが、
  「ご飯がおいしくならんと畠に行かれゃせん。そんなんで畠に行きよったら今度こそ大ごとになる」
 と言って、父は叱っておりました。やっぱりその通りで、また熱が出て、今度は本当に床についてしまいました。父は呉の工場へ家から通うようになり、祖母も安心しておりましたが、母の病気ははかばかしくなく、たびたび医者が来るようになりました、医者は、少し肋膜の方が悪いようだから気長く養生するように、と言っておりました。
 母は、肺病になったんじゃ、と言って、わたしが側へ行くと、早く外に出て遊べといいます。母が元気なときは祖母と畠に出ていたので、学校から帰っても誰もおらず、淋しいので友だちの家で遊び、夕方になって帰ると母は、
  「学校から真っ直ぐに家に帰って、留守番をしたり、勉強せんと、お父さんに言うてやるし」
 と、よく叱られたものです。それなのに今は、外に出て遊べ、遊んで来い、とばかり言ってわたしを寄せつけないのです。ご飯のときなど祖母が、
  「忙しいから、ちょっとこの膳をお母ちゃんに持って行け」
 と言いますので、わたしは喜んでお膳を持って行き、
  「母ちゃん、卵焼きじゃから食べんさいよ」
 と言って、母を起こすと、
  「そこにお膳を販いて、障子を閉めておけ。早くご飯を食べて学校に行け」
 と言って、少しの間も側においてくれません。里の祖母が珍らしい物を待って来ても、枕元に持って来んように言い、お見舞なども自分の枕元へは一つも置かせないようにしておりました。祖母が
  「そんなに病気が悪いのでもないのに、何じゃ言うてキミノを寄せつけん。あの子はあんたの所へ来たがって、遊びにも行かずに毎日学校から早う戻っておるのに、あんたが元気を出して、早う良くなってやらんと可哀そうじゃ。自分でそんなに病気が悪い悪いと思わんようにせにゃァいかん。倉次も、入院したらどうじゃろか、と言うとったけど、うちで気楽に養生して、早く良くなっておくれ」
 と言うと、母は、
  「キミノは一人っ子で、甘やかしてかるのであとが心配じゃ」
 と、死ぬことばかり考えて、話がいつもわたしのことになるので、祖母は、
  「わしも若いのじゃし、みんな元気なんじゃけん、あとのことは心配せんようによくなることだけ考えておくれ」
 と言って、泣き声で母に頼んでおりました。わたしは障子のかげで、母と祖母が話しているのを聞いて、本当に母は死ぬんじゃろうかと思って、そうっと障子をあけて覗いて見ると、母は目をつむって、白い細い顔で、頭の髪は自分で結んだのかわたしのようにお下げにして、枕の横に長くたらして、何だかよその人のような気がしました。
 それから母はだんだん悪くなって、親類の人たちが見舞いに来ても余り話しをしなくなりました。そして父に、
  「私が死んだら、綿を鼻や口にすぐ詰めておくれ。私のような病気になると困るから……」
 と言うと、父は、
  「馬鹿なことを言うもんじゃない」
 と怒るように.言いました。里の祖母が横から、
  「よしよし。お前の言うようにしてあげるけんのう。今そんな心配をすることはいらん。まだまだ長生きをせないかん。わしより先に死んでくれちゃ困る、元気を出しておくれ」
 と言って泣いておりました。
 それから2.3日して、わたしが学校から帰る途中、走って来る従兄に会いました 従兄は、
  「キミちゃん、早う走って戻れ。お母ちゃんが悪いんじゃ。うちのおばあさんや母ちゃんが今行ったけん、急いでいのう」
 と言ったので、2人で走って帰り、家にはいると、近所の人も来ておりました。そっと座敷を覗くと、母の唇を祖母が湿しておりました。そこへ隣りのおばさんが医者を連れて来ましへが、ちょっと診ただけで、医者は頭を下げて帰って行きました。そのあとで、祖母や叔母たちが、
  「キクヨ! キクヨ!
 と母の名を呼んで泣いておりましたが、わたしは泣いたかどうか、憶えておりません。その晩お通夜の席で、叔母たちが話していましたが、母は娘のときから、もし肺病になったら兄弟でも往き来せぬように、伝染したら大変じゃから、といってひどく病気を恐れていたそうです。友だちにもそういう人があったからでしょう。近所の人たちも、
   「あの元気な若い人が、こんなに早う死ぬるとは夢にも思わんかった。」
 と言い、祖母たちも、
  「代われるものならわしが代ってやりたい。一人っ子を残して死んでいった、可哀そうなことをした」
 と話しておりました。父は母の前に黙って坐っておりました。わたしはいつも母によく叱られておりましたので、さほど悲しみは感じませんでしたが、だんだん日が経つにつれて母のことが思われ、叱られてもいい、生きていてくれたら……と思うようになりました。
 母が亡くなってから半年ほど経って、一人目の義母が来ましたが、その母は間もなく帰ってしまいました。それというのは、わたしがどうしてもなつかず、おかあさん、と呼ぶことが出来ず、父も祖母も困ったようです。お父さん子のわたしは、母が来た晩から父をとられるような気がして悲しくなり、新しい母にどうしても馴染めなかったのです。また近所の人たちが、
  「キミちゃんとお母さんはきょうだいのようだ」
 と笑って話しているのを聞き、なおさら母が嫌いになりました。それに母は百姓仕事をしたことがないようで、祖母も困っていました。そうしたある日、わたしが学校から帰ると、母は呉にいる弟の所へ行ったとかで、それっきり帰って来ませんでした。
 それから数か月がすぎた日の夜、急に父に起こされ、行ってみると火鉢の中へ醤油のような血を吐いて苦しんでおり、早く背中をさすってくれ、と言っているのにびっくりして、祖母を起こし、隣りのおばさんにも来てもらい、夜の明けるのを待って医者を呼び、叔父にも知らせてもらいました。間もなくお医者さんが来てくれましたが、父はものも言えないほどに弱っており、医者は、
  「これは早く注射をしなければいけない」
 と、早速手当をしてくれました。そうして2、3か月治療を受けているうち、父はだんだんとよくなり、元通りに工場へ行けるようになり、また父といっしょに寝られて喜んでいました。
 そうしているうちに、叔父夫婦が来て、父に二人目の嫁をもらう話しをしていました。祖母は、
  「今度はキミノによく納得させて来てもらうことにせんと、中にたって嫁に気を遣うし、キミノはすねるし、機嫌をとるのに困るから」
 とくり返し言っていました。叔母がわたしに、
   「キミちゃん、おかあさんに来てもらわんと、お父さんがこの間のように病気になったり、おばあさんが病気になっても困るやろ、あんたももう大きいんじゃけん、いつまでも無理を言わんように、今度来るおかあさんは優しい人やから」
 と、何度も言いおいて帰って行きました。前の母が来る時にはわたしに何にも言わなかったので、子供心にも気にいらなかったのでしょう。そんな話があって、
  「あしたはおかあさんが来るのだから、良い子になるように」
 と、祖母が小遣いいをくれたり、好きなものを買ってくれるので、わたしは黙ってこっくりとううなずきました、母が来た晩に、
  「キミちゃんと寝ましょうで」
 と優しく言ってくれたので、わたしはびっくりし、返事も出来ずにいると祖母が、
   「あれは私と寝るから、心配しないで休んでおくれ」
 と言いました。わたしはまた父と一緒に寝ることが出来ないのじゃなアと淋しくなり、黙って祖母の布団にはいり、一人泣いたのを億えております。
 今度の母はいろいろと気を付けて、キミちゃん、キミちゃんと可愛いがってくれ、どこへ行くにもわたしを連れて行ってくれました。
  「今のおかあさんは3人の子供をおき、里へ帰って来た人じゃから、子供の可愛いことはよく知っているし、お前も良いおかあさんに来てもらった。これからはわしも安心しておれる」
 と、亡くなった母の祖母が話し、わたしを見て涙をこぼしておりました。それから1年ほど経って妹が生れ、片言でしゃべり始めた妹に家中が明るくなりました。
 わたしはその頃から顔に赤い斑点ができ、それを見た従兄が、
  「どうしたの、キミちゃんの顔は変な」
 と言いました、わたしも昼寝のあとなど、なんとなく変な感じがしていましたが、家の者が何も言わないので黙っておりました。ある日、学校から昼食に帰り、熱いご飯を食べて、学校へ行く道でふと気が付いてみると、左の中指の先に水ぶくれが出来ており、それが痛くないので、友だちにも不思議がって見せていました。それから、しばらく元気で働いていた父がまた胃が悪くなって、2か月ほど入院し帰ってきましたが、前のように工場に働きに行くほど元気になれず、家で畠仕事をしながら病院に通っていました。その頃、わたしも医者にかかっていましたが一向によくならず、父も力仕事は出来ず、だんだん家の中も暗くなってきて、山や畠の遠いところは手放すようになりました。わたしが14のときに、父は小商売でもしようと、家を整理して町へ出ましたが、病気はよくならず、祖母が亡くなり、父も相次いで亡くなりました。父の亡くなった時、わたしは病気のため葬式にも出られず、実母の里に行っていましたが、2日ほど経って自分の家に帰ったとき、なんとも言えず淋しく、今度こそ一人ぼっちになってしまった悲しみに、眠れない夜もありました。
 そのうち、母はわたしに冷たくあたるようになり、妹がわたしを、姉ちゃん、と呼ぶのを叱り、
  「お前の姉ちゃんはよそにおるのだから、これからはキミちゃんと言いなさい」
 と、妹に言って教えるのです。それでも妹は、姉ちゃん、と呼ぶので、わたしは返事をしないでいると、
  「ああ、キミちゃんじゃのう」
 と言いなおし、キミちゃんと呼ばれるのに、わたしは悲しくてなりませんでした父が亡くなって1年後、わたしのような病気の人のはいる所がある、ということを近所の新聞社に勤めている人に聞いていたので、わたしもそこに行きたいと思い、叔父に、
  「警察に行って頼んでみて下さい」
 と相談しました。叔父はびっくりしましたが、わたしの決心は変らず、早速手続きをとってもらい、行くことが決まってから母に話しました。母は、そんなに良い病院があるなら早く行って治して来たらよい、と言いましたが、父や祖母から、一生治らない病気じゃ、と聞かされていたので、治って帰れるとは思いませんでした。
 いよいよ明日は療肴所に行くと決まったので、母に頼んで買物に行ってもらい、その留守に妹を呼んで、
  「おぶってやる」
 と、わたしが背中を向けると、
  「かあちゃんに叱られる」
 と、直ぐはなれました。
  「かあちゃんに黙っておればよいから、ちょっとおぶってやる」
 と言って妹を背負って裏へ出ました。庭を歩きながら、
  「ナミちゃん、姉ちゃんは遠い所へ行くので、かあちゃんの言うことを聞いて、かしこい子になっておくれ。姉ちゃんはとてもナミちゃんが可愛いくて好きだから、キミちゃんのことをよくおぼえとってねえ」
 と言うと、何も知らない妹は、
  「キミちゃん、おかあさんがご馳走をすると言ったから、食べて行きんさい」
 と言うのでした。
 あくる朝、家を出る時、妹は母の背でよく眠っていましたが、療養所へ来てからも妹のことが忘れられず、部屋の人たちによく話しをしては、
  「またナミちゃんが出た」
 と笑われたものです。ご馳走を食べて行けと言ってくれた、あの妹の言葉が今もうれしく、悲しく胸に残っています。別れたとき妹は6歳でしたが、今では50歳近いおばさんになっていると思います。風の便りに、妹は広島の方で暮らしているとか聞きましたが、どこにいてもどうかしあわせに暮らしてくれるように、と毎日祈っております。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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