わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 26 藤田薫水のこと            今 井 種 夫

 年々衰えを見せながら今年も裏庭の白藤が咲いた。私はこの藤が咲くたびに、いつも懐しく思い出すのは藤田薫水のことである。薫水と私との交わりは随分前のことになる。それは昭和18年の夏私が入園し、生活するようになった不自由寮に薫水はいた。黒い筋の入った襟のない半袖シャツにステテコを穿き、里い帯をシャツの上からきちんと結んだ小柄な人が、廊下に面した柱によりかかって坐っており、一目でこの人は“盲人だなあ”と思った。
 私は馴れない療養所での日々を、落ち着かないままどうしようもなく過ごしていた。そんな私を労わり、慰めてくれたのも薫水であった。彼は盲人の陥りやすい暗い影はなく、性格的にも非常に明るくユーモラスな人であった。こうした薫水の性格にいつとなく私の心は和んでいった。そして私は何かと薫水の身の廻りのことや、俳句の代筆などをするようになった。彼とは年齢的に距たりがあったが、いつも親しくいっしょにいるので、人から親子ではないかと言われる程であった。
 しかし彼の過去についてはあまり詳しいことは知らないが、ときおり聞いたところでは、恵まれた生い立ちではなかったようである。薫水は明治25年、愛媛県川之江の出身で、農家の三男として生れ、家が貧しいために小学校もろくろく行けず、奉公に出され、紙漉きの職人になっていたが、ハンセン病の発病によって、遂にその家にもおられず、四国遍路に出たのであった。
 そして大正12年6月青松園に入園し、間もなく眼をわずらい視力を失なったようであったが、当時は彼にも妻がいたので、別に不自由もなく日々を過ごしていた。だがその妻も20年突然亡くなり、総てを頼っていた彼の衝撃は大きかったであろうが、人前で涙をみせるようなことはなかった。そのような薫水であったから、ときには頑固者と言われ、雷親父とも敬遠された。従ってその強靭さ、一徹さが生涯を通じて盲人会のためにも努力を傾けさせたのであろう。
 私が入園したときも盲人会の役員をしていたようであったが、その頃は盲人会の活動といっても、春秋の総会と短文芸の募集ぐらいで、その他のことは会長、副会長が相談しながら行なっていたようであった。
 ちょうど太平洋戦争の最中で、後援団体の青年団、婦人会も戦時体制の中にあって、盲人会ばかりにかまっておられなかった。また物資の欠乏も甚だしく、食糧はいうまでもなく、ちり紙に至るまで全く不自由をきたしていた。こうしたとき、果樹園でとれた甘藷の配給やちり紙の増配を、自治会に対して強く要望したのも彼であった。しかしその当時は誰もが不自由を忍んでいただけに、盲人会の申し入れに対して、周囲から物もらい根性などと、極めて冷たい批判をむけられたのであった。終戦後もしばらくは外科治療も隔日にしか行なわれず、小さな傷などは3日も4日も包帯の巻き替えをしてもらえない状態で、折角長い間待ってしてもらった交換も、部屋へ帰ってくると包帯がとれていたということもしばしばであった。また雨風のときも杖に鎚って濡れながら治療棟へ通わなければならなかったので、せめて雨の日には看護婦が寮まで未て包帯交換をしてもらいたいと、幾度も関係者に申し入れていたが、容易に実現しなかった。ある雨の激しい朝、薫水は、どうしても今日はお願いしてくると、濡れながら松葉杖をついて部屋を出て行った。
 このことがあってから、ようやく盲人に限って雨の日は寮で包帯交換が受けられるようになった。しかし看護婦の手不足とかの理由により、再び雨の日も盲人は苦労しながら治療に通っている。このような環境におかれていた盲人は、やみがたい生活上の願いごとであっても容易に聞き入れてもらえず、なかには無理解な人もいて“盲人のくせに”と頭ごなしに言われることもあった。いつの時代でもそうであろうが、不自由な者の団体である盲人会の役員として、先に立って会員の福祉を図ろうとすればするぼど、いつもこのような苦渋と悲哀をなめなければならないのである。
 盲人会もこの5月27日で創立30周年を迎えることになったが、戦中戦後の数年間は会の維持すら困難な時代で、先輩たちの苦労も大きかったと思う。その中に薫水もいたわけである。
 また彼は眼が見えないながら多くの趣味をもっていて、なかでも最も力を入れていたのは俳句だった。27年9月、周囲の人々の援助によって、毎日の生活の中から作りつづけてきた俳句三百余句を収めた句集「杖」が発刊された。大方の者は失明すると悲しみのあまり自己を見失ない、ただその日その日の安易な生活を送るようになってゆくのであるが、薫水はそうではなかった。何もかも他人の手に頼りながら、作句をつづけてきたことは、どんなに苦労の多いきびしいものであったか、この句集「杖」を見るにつけても、今更ながら逞しい意欲に感動させられるのである。
 また薫水は、毎年行なわれていた盆踊りには、あの櫓の上で踊り子たちの手拍子やかけ声に合せ、渋いよく透る声で自慢の音頭をとっていた。その楽しそうな姿が今も彷彿として浮かんでくるのである。
 29年彼はまた選ばれて盲人会会長になった。しかし間もなく排尿の困難から俄かに病棟に人室したが、この病をして遂に彼を死に至らしめることになったのであった。新しく作業制による世話係がつけられ、会長としての抱負も持っていたであろうに、それもむなしく4月28日未明、亡くなったのである。
 あれから8年、年と共に私たちの医療や生活も改善されてきており、また盲人会では待望の会館もでき、全盲連や県盲の支部として対外的活動も行なわれるようになってきた。そして機関誌「灯台」の発行、部会活動も活発になっている現在、彼が生きていたらどうだろうか、年老いてかつての意欲を無くしているだろうか、いや彼のことだから点字を習い、俳句を作り、また得意ののどで歌や民謡もうたっていることであろう。
 庭の白藤の匂いが夕暮れの風にただよい、とりとめもなくありし日の薫水を偲んでいると、コトンコツ、コトンコツ、あの特徴のある松葉杖の音をたてながら、帰ってくるような気がする。

句集「杖」より

春泥にとり落したる探り杖

何となく淋しき夜なり火取虫

音頭とる盲櫓に手をとられ

轟鳴くや平家の墓のあるところ

秋風の白きは病める目にしみる

鳥渡る昔ながらの裏屋島

愚痴多き盲と言はれ火桶抱く

妻恋ふや古りし手縫の袋足袋

彼岸会の盲菩薩のごと座せり

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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