わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第3章 絆

 29 仔犬のこと          故 山 口 綾 女

 宵のうちから五月雨がしとしとと降り続いていた。8時30分を少し過ぎた頃のことであった。4畳半の個室6部屋が1棟になっている私たちの夫婦寮は、いつになくひっそりとしていた。聞こえるものは雨音と、廊下に流れているラジオのほかは、寝つきの早い夫の安らかな寝息だけであった。私は眠れないままに、“五月雨や、五月雨や“とくり返していた。
 そのとき小雨の音にまじって、人とも動物ともつかぬものの鳴き声に、私ははっと驚いて起き上り、聞き耳をたてた。どうやら仔犬の鳴き声らしく問こえるので、私は夫を起こした。動物好きの夫は犬と聞くなり早速起き出して、眠い眼をこすりながら、暗い雨の中の鳴き声をたよりに出て行き、1匹の仔犬を寮の炊事場に抱いてもどってきた。その物音に寮の人たちは1人起き、2人起きして、みんなで仔犬をとり囲み批評が始まった。毛色は濃茶で、まだ乳欲しそうな顔をしているが、手足がとても太いというし500匁はあるだろうか、いや800匁はあるという夫の声。
  「おいチビ君、ちよっとこっちへ向いてみろ、なんとお前は可愛いい顔しとるやないか」
 と、三郎さん。
  「これはどこかの飼い犬が迷うて来たのやろうなあ」
 とか、
  「明日はきっと飼主がさがしに来るだろなあ」
 などと、思い思いの話し声が1ばん奥の部屋の私のところへ、手にとるように聞こえてくる。夫がボロぎれを持ち出して、ずぶ濡れになって震えている仔犬を拭いてやっているうちに、今までかくしていた尻尾を出して振り始めたと言って、1度にどっと笑い声が明るくひろがった。私の瞼にまるまると肥ったかわいい仔犬が、邪気のない眼で私をじっと見つめている姿がうきぼりになって浮かんでくる。
 変化にとぼしい島の療養所、その中でも、盲いて20年余の明け暮れをくり返している私にとって、1匹の仔犬の出現はたとえようもないほど嬉しく、私を童心にもどしてくれる。園内では個人で犬を飼うことは禁じられているが、せめて1日か2日なりとも、どうぞ誰もさがしに来ないようにと、心ひそかにねがっていた。明日の朝はご飯に味噌汁をかけてご馳走をしてやろう。お菓子を出してやろう、抱いたり、撫でてやったりもしよう、と楽しい空想の羽根を広げているとき、夫が戻ってきた。
  「箱の中にボロぎれを敷いて寝かしてきた。とてもかわいい利口そうな顔をしてる」
 と、もう自分のものにでもなったように得意になっている。やがて寮の人たちもそれぞれの部屋に引き上げ、長い廊下はまた元の静けさにかえり、柱時計が10時を打った。そのうちに再び夫の寝息が聞こえ出した頃、土間の珍客さんは何が気に召さないのか、あたり構わず大きな声を立て始めた。これは困った。夜通しこんなに鳴かれたのでは責任上どうしようかと心配になって、すまないとは思ったがまた夫を起こし、
  「蚊に攻められているのではないの、それともひもじいのかしら」
と尋ねると、
 「大きな腹しとったから大丈夫じゃ」
と言うので、私も安心して夫に箱のまま蚊帳の中へ連れてきてもらった。これなら静かに寝てくれるだろうと思う間もなく、やるせなさそうにしのび鳴きをするので、これはてっきり淋しいのだろうと、私はひとり合点で抱いて寝てやることにした。すると細い私の腕に前足を揃え、その上に顎をのせて、身体を胸のあたりへ押しつけるように寄りかかってくる。ときどき私の顔をペロリとなめては、何事かくちゃくちゃとささやきかけてくるけれど、私にはNHK放送劇の“コ口ちゃんとバタ屋のおっさん”の様な具合にはいかない。ただ喜んでいる表現としか受けとれず、撫でてやりながら、
  「よしよし、そんなに嬉しいのか。今夜はお前のお母ちゃんになってあげるから、おとなしくネンネしておくれ」
 と頼みたのみしているのに、さっきよりも一層深刻な鳴き方をするので、どうしてやればいいのか分らなくなって、ほとほともて余していた。突然私の腕をかきのけるようにして、ずるずるっと畳の上に這い出た。まだ眼を覚ましていた夫が、いきなりとび起きて「コイツ」と言ったかと思った瞬間、仔犬はもう蚊帳の外にほうり出されていた。「あっ、しまった」と思ったけれど、もう手遅れで、しのび鳴きの原因は、私の枕もとへ山のように盛り上げているという。苦笑まじりの夫の言葉に、私は小さい体を一層小さくして、どうせ小言はまぬがれないと覚悟していた。すると意外にも
「これはこれは、アチャコじゃないが無茶苦茶でござりますがな」
と、思いもよらぬ夫の冗談に、私もつい吹き出してしまった。そして布団も蚊帳の裾も汚さないで、ほんの僅かしか空いていない畳に這い出た仔大の気持を思うと、たまらなくいじらして、どんなにか苦しかったであろうと、私は瞼がじーんとあつくなってきた。
 2年前の雨の夜のことを思い出すたびに、ほのぼのとしたものがこみ上げてくる。あの夜の仔犬は、仔犬特有の甘酸っぱい体臭と、湯たんぽのような体温を、病み呆けた私の両の腕に残したまま消えていってしまった。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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