わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第4章 生きる

 36 下水の蓋          故 藤 屋 大 治

 昨年夏のことでした。毎週水曜日に聞かれている灯台川柳句会の打ち合わせに、選者の久我剛さんの寮に行く途中、電柱にいやというほど額をぶち当てました。通りつけない道であり、運の悪いことには電柱のある側を探っていて、急ぐあまり一足早く曲ったためぶつかったのでした。
 あまりの衝撃にふらふらと2、3歩よろめき、打った額を押さえ激しい痛みに耐えていきました.すると鼻筋を何か流れる感じに、額に当てていた手をそっと唇にふれてみると、いやな血の臭いに私は驚き、ただおろおろと立ちすくすばかりでした。しばらくして落ち着きをとり戻し、眼鏡のないことに気付き、そこらあたりをなでまわすと、すぐ足もとに落ちていました。拾い上げて唇で確かめてみますと、眼鏡は鼻あてのところから折れていました。その片方をなでまわすようにしてやっと探し当てたときには、びっしょり汗をかいていました。
 とにかく久我さんの寮に行かねばと、傍に置いた松葉杖をとり直してふみ出したとき、方角が分らなくなっていました。治療棟に近く寮のそばまで来ているはずなのに、どうしても見当がたちません。そのとき突然うしろから声をかけられたので、「君は誰かい」と問い返すと、「僕は大島です」と言われたのは、医局の大島先生でした。電柱に突き当ったことで、はけ口のない怒りにむらむらしていましたので、「君は誰かい」と言った声は、私の気持そのままが語気に表れていたと思い、これはしまった、失礼なことをしてしまった、と顔に血がのぼるのを覚えましたに先生は私の失礼な言葉など気にとめられず、「その額の傷はどうした」と尋ねられ、わけを話しますと、「それは危なかったな、眼にガラスでも入れば大変なことになるもんな」とやさしく言われ、持ち合わせていたガーゼで額の血を丁寧に拭きとり、治療棟の南入口まで連れて行ってくださいました。先生は、「僕は病棟に行くからお大事に」と立ら去って行かれました。先生の靴音を聞きながら、あらためて先生のやさしいお心に感謝いたしました。
 私は外科室に行き、額の傷の手当を受けながら問われるままいきさつを話すと、看護婦さんも、「危なかったね、傷が少し深いようだから明日も治療に来て下さい」と、シャツの袖についていた血をオキシフルできれいに拭いてくれました。それから眼科室で眼鏡のこわれたわけを話し、代りの眼鏡を貸してもらえないかとお願いしたところ、折悪しく同じサイズのものがありません。それで仕方なく治療棟を出ましたが急に耐えていた痛みがひろがり、足もとも覚束なく、やっとの思いで自分の寮に帰ってきました。
 いつもであれば午前11時30分の定時放送で行なう川柳句会のお知らせが、とうとうできなかったことをグループの人たちにすまなく思いました。そして昼食もそこそこに再び久我さんを訪ねることにし、あのいまいましい電柱の横を通るとき、「こいつめ」とばかり松葉杖で大きく1つ叩きました。久我さんに午前中の失敗を話しながら、今からでも句会を開かれないだろうかと相談しました。久我さんは、「昼前の定時放送で何の放送もしなかったからな、グループの人たちは句会はないものと思うとるかも知れん。今日の句会は休んで、藤屋さんこそ心配しないで大事にせにゃいかん」と言ってくれたので、私は救われた思いで、事情は後で話すことにして句会は休むことにしました。
 そこで私は小山さんのところに寄って朝の出来事を話し、ふたつにこわれた眼鏡を見せ、何とかならないものだろうかと頼みました。小山さんは入園以来肉親のようにお世話になっている方で、間に合わせにと言って、ご主人の予備の眼鏡を貸してくれました。私は商人に頼んで修理してもらうことにして、手続きをたのみました。ゆっくり遊んでいったらという言葉に、また来るからと小山さんの部屋を出ました。
 ところが物療室の束の角で道を踏みはずし、下水の枡に落ちこみ、胸を強く打ち、松葉杖の片方も折れてしまいました。朝の思いがけない失敗から1日の予定が狂い、眼鏡をこわしたりしましたが、これで1日の難が逃れたという気のゆるみと、その日は運悪く枡の蓋がずれていたため落ちこみ、重ねがさねの災難でした。これまでも数人の盲人が下水に落ちた話しを聞く度に「自分だけは落ちないぞ」と思っていました。しかし自分が落ちてみて初めてその人たちの気持や、言い分か実感として納得でき、他人ごととして聞いていたことをすまなく恥かしく思いました。
 道路にやっとと這い上り、長靴に入った泥水もそのままにへたへたと坐りこみ、胸を押さえて痛さに耐えていると、折よく通りかかった女の人が、「危なかったな、怪我はなかった?」と訪いながら、立たせてくれました。今日は全く災難の日だな、と情ないやら悔しいやら、自分ながら持てあました気持になり、お礼の言葉もそこそこに、松葉杖の片方にすがり、近くの厚生部の詰所に行って松葉杖をとり替えてもらいました。ちょうどそこへNさんが来て、「その態はどうしたんぞ」ときかれ、目が見えないとはいえ、1日に2度も失敗したことなど、情なくて話せませんでした。打った胸は痛みを増してくるし、足がすくんで道を歩くのが恐ろしくなり、さすがに楽天的な私も泣き出したい思いでした。
 汚れた靴やズボン、打った胸が見えないだけに気がかりで、小山さんの部屋に引き返しました。そして靴を洗ってもらい、痛む胸を見てもらったところ紫色に腫れており、脇の下には擦り傷もできていました。小山さんの言われるままに、午後の診察時間まで休ませてもらうことにし、受診のあと治療棟から私の寮まで付添ってきて、布団まで敷いて下さいました。横になった私は安堵と疲労がいち時に出て、思わず枕に涙がこぼれました。 
 それから一年後のある日、午前中の治療を済ませた私は、涼しくて静かなテレビ室で川柳でも2、3句考えようと、北の入り口より入りました。ざわめきを離れて畳に寝ころんで汗を入れていると、石屋さんがノミを使っているような、カチン、カチンという甲高い音が、すぐ外でし始めました。何事だろうかと聞いていると、作業部の部長さんが誰かに説明している様子で、どうやら下水の枡の木の蓋を鉄板に交換するらしく、枡のコンクリートを削っている音だと分りました。
 枡の蓋を鉄板に取り替えることについては私にもいささか関係がありますので、川柳を考えようとして入ったテレビ室でしたが、早速出てみました。私は側に行って、誰にともなく、
  「何をしているのですか?」
 と問いかけますと、部長さんが、
  「コンクリート道に沿うた下水の蓋を鉄板に替えてゆくのだが、その要領を話しているところなんだ」
 と言われました。私は、これで盲人が下水に落ちる気遣いもなくなると、こおどりしたい思いをおさえて、カチン、カチンと炎天にひびくノミの音をさわやかに聞きながら、寮に帰りました。
 午後からは私の寮の近くでも鉄板に替える作業が行なわれていました。その仕事の邪魔にならないように寄ってゆき、
 「暑いときに、ご苦労さまですナ」
と、労をねぎらい、あれこれ話しているうちに、
 「これで、お前も安心して歩けるぞ」
 と、ほこ先がこちらに向いてきたので、長居は無用と、道を横ぎり、藤棚の蔭へ入って行きました。
 そこには既に下竹さんが汗を入れており、私と作業人との問答を聞いていたものらしく、
   「藤屋君が、灯台に“災難の1日”という名文を書いてくれたから、自治会でも、これはいかん、と予定を早めてくれたものかも知れないぞ」
 と、そこは盲人のなやみが一つ解決した喜びから、冗談まじりの口ぶりに、私も、
  「そんなこともないだろうが、有難いことだ」
 と、相づちを打つと、下竹さんはさらに、
 「藤屋君も折れた松葉杖を引きずることができなくなったのう」
 と、まぜ返えされて、共に、アッハッハーと笑ったことでした。
 それから数日後、盲人会が借りていた縫工所に行ったとき、居あわせた河渕さん、田原さんなど、川柳仲間で話に花を咲かせ、下水の蓋が丈夫になったので、大雨が降っても蓋が流されたり、ずれていたり、また腐蝕して危険な状態になる心配もなくなって、安心して歩くことができるのを喜び合いました。今度は、名ばかりのコンクリート道路を補修してもらわなければ……などと、天井知らずの願いごとを話したあとで、田原さんから、
 「藤屋勲は、これから枡に飛びこむことができなくて、 残念じゃのう……」
 と、思わせぶりに言ったので、
 「そうだそうだ、こんな暑い日が続くと、たまには下水の枡に飛びこんで、肝を冷やすこともええんじゃがのう……」
 と、へらず口をたたき返えし、その場は大笑いですませましたが、実は、下水の蓋が鉄板に取り替えられて間もなく、私はうれしさの余り、その感触を味わうため、鉄板の蓋の上で四股を踏んでみたところ、どうしたはずみか長靴が脱げ、もののみごとに尻もちをついてしまったことは、誰も知るまいと思っていたのに、田原さんの意味ありげな言葉に冷や汗をおぼえ、早々に縫工所を出たのでした。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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