わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第5章 闇からの開放

 56 古里への旅          八 田  実

 3月に入って間もない頃、ラジオで南国博覧会が高知市に於いて、3月中旬より5月にかけて開催されるという放送を聞いた。私が小学5年生の頃にも万国博覧会がやはり高知市であり、学校から団体で見学に行ったことを思い出し、一度帰ってみたい気持になった。それというのも、面会に来てくれていた父も1ヶ月ばかりの入院でめっきり弱り、農作業もあまり手伝えなくなったとの便りがあった。その父にはもう4、5年会っておらず、この機会に帰省して姉や妹にも会いたいと思い、入園当時からお世話になっている久保さん夫婦にその事を話すと。
  「高知の方は一度も行ったことがないので、見物を兼ねて行ってやろう」
 と言ってくれた。早速父や嫁いでいる姉に相談の手紙を書いてもらうと、一度帰って来るようにとの返事であった。
 3月28日午前8時発の松風に、久保さん夫婦、私、親しくしている白木さんと共に乗りこんだ。連日の好天気とはうって変りどんよりした曇り空で、一緒に行ってくれる人達も、「昨日のような天気なら良かったのになあ」と言った。海上は穏やかな凪で、船はすべるように高松港へはいった。20余年ぶりに見る高松の港は船の出入りがはげしく、ひっきりなしに汽笛が鳴っていた。桟橋にあがり、社会復帰をしている松本さんに前もって頼んでいた車のところへ行った。いよいよ車に乗って園の出張所前を発ったのが丁度8時30分、沢山の車の列にまじって琴平街道に入ったころからとうとう小雨になり、肌寒い風が車内に吹き込んでくる。谷間の急勾配をぐるぐる登り猪鼻トンネルを抜けて阿波池田を過ぎ山あいをぬって大歩危、小歩危をすぎた頃、おばさんや白木さんが気分が悪くなったので、大豊村で車をとめ休息した。相変らず小雨が降っていたが、ついでに昼食をすることにし、折詰や果物を出してみんなでたべた。
  「良くまあ、坂また坂を登って来たもんやなあー」と言うおばさんへ、「これからは下り坂で、山田町辺りまで続いているのだ」と言うと、「なんと長い坂道じゃのう」と言って笑った。車はスピードを出し、小雨の中を鉄橋を渡り、トンネルを抜け、竜河洞の辺りから道は平担となり、右に左に往き交う自動車の数も多くなってきた。南国市に入ると、トマト、胡瓜のビニールハウスが目立ち、早や田植もしているという。やがて高知市にかかったが、空襲で焼かれたためにすっかり街並が変り、ビルが建ち並んでいるので道をまちがえてはと、松本さんは通行人に聞きながら、ようやく旧練兵場辺りに出ることができた。そこから右にカーブをきってかっての県道を走ったが、私達の所もビニールハウスによる促成栽培が盛んで、胡瓜、トマトの収穫期に入っているようであった。郵便局の前を走り、煙草屋の角を過ぎて最近出来た仁淀大橋を渡り、午後の2時近く姉の家に車を止めてもらった。
 出迎えてくれた姉は大変元気で、「近所には教会があるだけで、気兼ねはいらないから」と言って、みなを座敷へとおしてくれた。久しぶりに会った姉に、父のことや昨年焼けたみかん山のことなど、次から次へと話はつきない。近くの田圃では蛙がにぎやかに鳴いていて、さすがに南国だなあと思った。妹夫婦も姉の家に来ることになっていたが、胡瓜やトマト、茄子などの収穫に追われているとのことで、姉の子供が単車で二里半ばかりの道を呼びに行ってくれた。出されたおすしをご馳走になり、しばらく待っていると、妹夫婦がトマトや茄子の箱をお土産にと持って来た。妹婿とは初対面なので挨拶すると、「まあよく帰って来たね。是非家にも寄ってください」とすすめてくれた。人目につかない頃まで姉のうちで話し、暗くなってから自動車に妹夫婦も乗せて、今度は仁淀川沿いに上り、子供の頃よく遊んだ沈下橋を徐行して古里の村に入った。家々には電灯が点っている。道を幾度も曲り、20余年ぶりに懐しいわが家の前に車は止まった。辺りには人影もなく、雨あがりの澄んだ空気が流れていた。
 丁度家を新築中で、砂利や材木が置かれている間を、妹に手引かれて玄関に入った。家の中は薄暗く、なんだか様子が変っているようで、他人の家に来た思いがした。妹が私の帰って来たことを父に告げると、驚いて出て来た。思ったより元気そうな声で、父は。
  「良く帰って来た。早う上がれ」と私の手を取り、また一緒に来たおばさん達にも上がってくれるようにすすめたが、おばさんたちは車の中で休んでいるから、ゆっくり話してくるようと言った。父と向い合って坐ると、あれもこれもと思っていた事が言葉にならず、すすめてくれるお茶を飲んでいるともう8時近くなっていた。一緒に来た人たちと高知で泊ることになっているので、余り遅くなってもいけないと、名残りはつきなかったが、父や妹夫婦に別れを告げて車に乗った。
 そして旭駅の前で宿をとり、2階の八畳二間に私たちは落ち着くことが出来た。その夜は一日中揺られてきた疲れのせいでなかなか寝つかれなかったが、何時の間にかうとうとしたらしく、汽車や電車の走る音、大の吠える声で眼が覚めた。そしてみんなで今日のコースについて話し合い、食事をすませ、7時すぎに旅館を出た。
 私達を乗せた車は、播磨屋橋を通って桂浜に向った。桂浜に着くと駐車場には自家用車や大型バスが並び、。大勢の人をはき出している。その人達に混って私達もあの有名な坂本竜馬の銅像の下に立った。次々と観先客が来ては記念写真をとったり、黒潮の打ち寄せる海岸で五色石を拾っていた。30分位その辺りを見物してから、高知市の博覧会場へ引き返す。そして久保さんたち3人は第1会場の前で車から降り、私は運転手の松本さんと高知城を見物することにした。石段を高台まで登ったが、下から吹き上げてくる風にも南国の春の気配が感じられた。
 12時半、私達は繁華街に出て土産物を買い、高知市をあとにして、車は70キロから80キロのスピードを出して走り、対向車がすれ違うたびにヒューンヒューンという音が快よかった。幸い車酔いする者もなく、快適に池田、猪鼻トンネルとすぎ、琴平の街に出た。あれが自動車教習所、ここが御旅所と、勝手を知ったおばさんの説明で楽しく、高松に着いたのが4時少し前であった。出張所に来てみると、帰省していた人や外出をしていた人が7、8人船を待っていた。その人達と大島丸に乗り、20余年もへだたっていた、一泊二日の古里への旅を終ったのである。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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