閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第三章
 戦争と平和

 6 室戸台風(昭和9、10、11年)

 沢庵大根を漬け正月餅をつき、年が明けると福引きにかるた会。人は変わっても年々歳々、行事に釣られて明け暮れる。昭和9年2月、皇太子御誕生記念事業と銘打ち、新しく水が浦果樹園開墾の起工式を行ない、翌日から着手した。
 自治会の事業として養鶏、養豚、売店経営(豆腐、製麺をふくむ)足摺山上の果樹園がある。それに加えてもっと大きな果樹園を拓く。4名の世話人は昼食の弁当を用意して行き、現場では縄で土地を計って人配りをし、帰ると各室を回わって明日の奉仕者を募った。
 水が浦は官舎地帯の西南方である。西海岸にならびそびえる墓標の松(寿永の昔、屋島の合戦に平家の戦死者を葬ったと伝わる)の外側の白砂の渚沿いに歩いていき、南端で山に上がって西方へ折れ、100米余り行った谷である
 北方の患者地帯から見あきた島も、境界の有刺鉄線を出てそこまで来ると、同じ島内でも異国のようである。鉢巻き状に1㌔半の相愛の道を拓いた山が、北方にまるく小さく盛上がる。その斜面に農耕地や足摺山の果樹園が、あたかも切り張りでもしたように地膚を晒す(さらす)。あんな挟い土地で400人ゴチャ、ゴチャしているかと自分たちが哀れであった。
 水が浦の谷間は両翼を張ったように奥へ高く広がり、中央に常時こんこんと清水を湧出した。そこに小さな溜池を造り、かたわらに柄杓(ひしゃく)で汲める井戸を掘った。掘ったというより流れを堰止めて(せきとめて)、底を浚えた。ここを中心に東西南北に拓き進んだ。北は海岸でそこが上がり□である。防風林だけ残して松や雑木を伐り倒し、根株を掘上げてだんだんの傾斜畑にした。山鍬を揮って汗を流した後で昼食の弁当を食い、井戸水を沸かしたお茶を飲むと、日ごろ塩分をふくむ湯水しか知らない舌に、それはあたかも甘露のようにうまかった。どんなにみじめな暮らしにもよろこびがある。一升瓶を下げてきて、清水を汲んで帰る者もいた。寝ころんで仰ぐ早春の空は美しい。いつもみる患者地帯の空とちがい、あおく澄んだその美しい空の果てにこそ、なつかしい故郷のある思いがした。後には井戸の上手(かみて)に耕作者の休憩する小屋が建ち、ちょっとした茶会ならひらけた。短歌会や俳句会の連中は、度々ここで観月会だ、吟行だとしゃれたものである。
 25名の義足使用者が義足の改善について、常務委員会へ申入れをした。(3月1日)。開所以来、松の木を削って足首を作り、それに見合うブリキ製の脛(すね)を打ちつけて患者内で作っていた。だれか器用な者の発案であったろうが、長島や外島の病友と交流し、あまりにも粗末すぎるのに気づいた。無理からぬ話なので、総代はもっとはきよい市販の義足に代えてもらえるよう、意見をそえて所長に具申した。
 常務委員会の事務所を詰所と呼んだが、その詰所が旧患者事務所の北側の、新築された療舎の西側の一室に移転した(3月29日)。隣りの一室は少年室である。自治会々則も部分的改正を重ね、より整備されていた。互助金も当局からの下付金と、各人の作業賃からのきよ金と、事業の益金でまかなわれ、病室見舞金60銭、共済互助金70銭、(何れも月額)に増額されていた。
 この9年4月から新しく正副総代と各常務委員に一名宛の書記がつき、全役員の任期が1ヵ年となった。年と共に各部の用事がふえていた。一般には大小の用事は全部、詰所へいけばたりた。希望や意見は毎月の室長会が執上げ、審議委員会を設けて審議し、執行部へ上申するという念の入れかたであった。
 病友の労力奉仕により、見事な水が浦果樹園が完成した。坪数1311坪1合(43㌃強)。海岸を上がって防風林をぬけると、一面の果樹園が展開した。大空の下尾根の松のみどりに縁どられ、扇状に高くせり上がる。奉仕者全員慰労のため大釜でぜんざいをたき、戸板を借りてきて会館に急ごしらえの食卓を作って振るまった。うどん鉢三杯がふつうで、なかには五杯、六杯平らげる豪傑(ごうけつ)がいて喚声が上がった。働きもしたが食ったものである。

 ドイツのナチスが不治の病人は希望により、麻酔剤を用いて殺してもよいという法律を制定し、それが新聞に報じられて論議を呼んだ。おなじ不治の患者として他国の話であっても、聞きすてにできなかった。まして友邦国ドイツのことである。日本人はどう受けとめてよいのか。総代上本は野島所長に見解を求めた。(4月1日)。むろん、いかに強大な国家権力であろうと、医者として所長として許されない行為だと話した。しかし、やがては現職の管理県知事の口から「大島療養所は国立公園内のクソツボだ」という発言さえきく時代を迎える。
 大島療養所創立25周年式典と共に、患者の表彰式があった(6月27日)
  善行者11名 1円あて。
  永年療養者
   25年以上  8名5円あて
   20年以上 14名4円あて
   15年以上 21名3円あて
   10年以上 60名2円あて
 そして一般の病友には記念として、一人50銭ずつ支給された。
 「ドイツでは希望により不治の病人は殺してもええそうじゃが、日本に生れたおかげで長い間お世話になった上表彰される」
 と年寄りがありがたがった。
 先に所長は総代に求められてナチスドイツの新しい法律に対する所見を述べたが、この日の表彰は所長の一般患者に対する答えであったと解してよかろう。
 この所長からこんど改築する家族舎は夫婦舎にしてはどうかという相談があった。常務委員会は評議員会とも協議の上、夫婦舎は設けないほうがよいと返事した。大部屋の共同生活を分割すると、互助の精神がうすれて、個人的になると考えた。この意見は一般的にもかなり強かった。ひとつには習慣や仕来たりに慣れることの恐ろしさで今昔の感にたえない。参考までに当時の所内農産物の売買値を上げておく。各一貫(約4㌔)。茄子16銭、きゅうり14銭、トマト40銭(盛りは25銭)、西瓜23銭。

 9月20日、雨をともなって風が強くなり、とても出歩きできなかった。炊事当番や食事運搬人は大変である。松の枝が折れて吹き飛んだ。東海岸は海鳴りがして怒涛が押しよせ、雨は横に叩きつけた。大島丸は荒天をさけて欠航した。夕方になると嵐はいっそう激しくなり、風にあふられて家が浮上がりそうである。波のしぶきは防波堤を越えて療舎を洗った。部屋によっては壁が落ち屋根瓦が飛び、窓ガラスの割れる騒ぎである。いまなら刻々台風の進路が報道される。当時もラジオはあったが、嵐の夜をラジオ室まで聞きに行く者はなかった。
 夜が明けると雨はやみ、いくらか風がおさまった。部屋の壁や屋根瓦だけの被害でなく、北海道に新築中の一棟が傾いた。ラジオは関西方面の被害甚大を伝えた。大島はこの程度の被害ですんでよかったとよろこんだ。22日朝、外島保養院と愛生園へ、病友一同の名でお見舞の電報を打った。熊本の回春病院(外人経営の私立らい病院)では大島の被害を心配し、見舞い電報が届いた。
 事務分室から連絡があった。保養院は風水害で全滅したそうじゃ。桑島書記がお見舞に上阪するという。常務委員会は早速見舞金100円ことづけ、午後5時から室長の審議委員会にかけて事後承認を得た。明けて23日になると外島は高潮に襲われて潰れたそうじゃ。患者を50名引取ってくれといってきている。大島丸と別船一隻で迎えに行く。詰所からも5名いっしょに行ってもらうから、用意をしておいてくれという。
 24日朝、いよいよ病友50名を迎えに別船は庵治から先に発ち、職員と5名の患者は大島丸に乗って急航した。嵐のあとの海は鏡のように静かである。秋空は青々と澄み鴎(かもめ)が乱舞した。
「去年は外島事件、ことしは風水害、外島もついてないなあ」
 甲板で5人の病友は話し合った。人に運、不運があるように、療養所にも運不運があるのだろうか。小豆島の南を過ぎ播磨灘(はりまなだ)を横切り、海を見ながら昼食の弁当を食った。明石の沖から明石海峡をぬけ、神戸港の沖までは何事もなかった。尼崎の沖にかかると左舷に、水ぶくれしてふやけた溺死体が浮く。一同ギョッとした。船の波につれてフワフワと軽くゆれ、うつぶせの屍体は髪が長く女である。航くほどにゴミや材木が海面をおおい、右に左に溺死体が浮く。腐乱した姿はもはや人間でなく、ひとつの汚い物体である。間きしにまさる惨状はとても正視できない。間もなく大島丸はスピードを落とし、ポン、ポンと呼ぶようにエンジンを響かせて神崎川を遡航(そこう)した。
 「あれだ!」
 誰かが叫んだ。松の木のまばらに生えた土手に、何やら白いものがズラリとならび、夕日をあびてキラキラ光る。船を接岸すると白く光って見えたのは、まぎれもない白木の棺桶である。大島から迎えの船がきたと知り、そのならんだ棺桶の間から、着のみ着のままの病友がゾロゾロと現れた。なかには顔見知りの人もいる。村田院長の後任の原田(久作)院長が、ノーネクタイ姿で出てきて挨拶した。
 助け合う不自由な病友。残る病友と別れを惜しむ者、泣いて顔の上がらぬ者もいて胸がつまった。5人の者は手をとって所定の50名を別船に乗せ、自分らも共に乗っていたわり、夕闇せまる神崎川を下って大島丸ともども帰航の途についた。残る病友は土手の棺桶の前に伸び上がり、ともに元気でと再会の日を約し懸命に手を振った。
 翌朝8時半、全員無事帰島した。すると29日になり、大島には後20名頼みますといって来た。2回目は岩田職員の家の正栄丸が迎えに行き、帰途は愛生園へゆく50名をいっしょに乗せて帰り、大島に20名まず降ろした。このときゴタゴタもめたが、総代石本が海岸から「よわい不自由な者は大島が引き受けます」といって収まった。まことに潔い(いさぎよい)言葉であった。
 このときの台風が室戸台風で風速60米、室戸で最低気圧911㍉(世界記録)、死者行方不明3066名。保養院は高潮に襲われて全滅し患者の死者173名、職員の死者3名、職員の家族の死者11名を出した。生き残った417名は全国の療養所に分散して委託された。保養院の跡は一面の海と化し、その後しばらく機関場の高いコンクリートの煙突だけが、はるかかなたの海中に立っていた。
 自治会では外島の病友を迎えて慰め励ます会を催し、一ヵ所に住んでもらったが、後には元気な者は各室に配属し、昭和13年邑久光明園が開園して引取られるまで、おなじ自治会員として分けへだてなく預かった。
 この秋、高松興正寺別院主催の追悼法会があり、開所以来の死亡618名を数えた。

 昭和10年1月29日、監房の隣の謹慎室で賭博中を職員に襲われた。1人は謹慎中の者であったが、他の5名はひとつ部屋の者であった。おそらく賭博をするため、人目につかない謹慎室を選んだわけである。当局は6名を取調べて以後をいましめ、始末書を書かせて許した。これは例のない寛大な処置であった。ところが部屋のほうが5名の賭博者を受取らない、出てもらうと言い出した。総代も人事部も当惑し協議の結果、各室の了解を得て、5名をクジ引きして1人ずつ取ってもらった。正月の余興にもならない賭博事件であった。
 賭博は開所以来のガンであった。昭和5年に各宗教団体が結束し、賭博者は死んでも葬式をしないと申合わせ、これによってさしものつわものどもも影をひそめた。たしかに常習犯はいなくなり、胴元の親分は退所した。しかし食い気と色気と賭博気は死ななきゃ無くならないとみえ、ときどき耳にした。それが今回は謹慎室であり、5人の賭博者を出した部屋の室長は責任を感じて辞任した。
 毎期のことながら自治会の改選に、役員の候補辞退者が出た。主として健康が理由である。それが認められると選挙人名簿に被選挙権のない印がつき、公然と次期は休めた。誰もが役員に選出されてとかくの批判をうけるより、しないですむものならそうありたい。といって誰かが役員をしないと、自治会は成立しない。短絡的にいえば自分はしたくないが、人にはやってもらいたい。自治会の必要は百も承知している。しかし役員は代表であり、自治会の顔である。誰でもというわけにいかないから、ある一定範囲の者が交替で務める。問題はここにあった。
 10年4月の役員改選は辞退理由を文書にして、3月15日までに届出ることになった。すると17名出た。2人や3人は毎期でも、17名の多数は初めてである。認めようと認めまいと届出ておかないと、好きでやるようにとられる。そういう微妙な思惑もからんだ。
 候補辞退資格審査委員といういかめしいのを作り、17通の辞退届を審議した。その結果、白紙撤回5名、制限つき(執行部だけ認める)4名、承認8名となった。辞退して認められず、選出されて泣くのが療養所の選挙風景である。
 無事に新役員の決定をみ、ホッとすると、4月1日の開所記念日となる。この日がすぎると、やがて山のつつじの満開を迎える。ポカポカ暖かく空も海もなまり色に霞んで、水平線が溶けてなくなる。山鳩がなきひわがさえずり、水が浦果樹園は千歳果樹園と命名され、植えられた桃や梨も耕作者の丹精で花盛りとなる。
 希望者を募り、千歳果樹園観光としゃれこんだ。日曜と木曜は普通室、火曜と土曜は特定室(不自由室)。さいわい当局から耕作人の往復用に買ってもらった果樹園丸がある。観光団はその舟でゆく。手槽ぎだから何回もとなると大変である。10年、20年入所以来患者地帯から出たことのない不自由な者が大半である。15分か20分の短い海路だが、静かに櫓(ろ)のきしる音をきき、舟にゆられて航くのは気持ちよい。見るもの聞くもの匂うもの、みな新鮮である。桃梨ばかりか周囲はつつじの満開で、谷川には芹(せり)が青く芽生える。山のカラスは今日は大勢妙な連中が来ていると、松の梢で首をかしげた。千歳果樹園は相愛の道とともに病友の世界を広げ、話題を豊富にした。この果樹園から収穫するいもや南瓜に、飢餓を救われる日が来ようとは誰も想像しなかった。
 室長会から筒袖でなくたもとつきの着物を支給してもらいたいと申出た。配給部長が前田被服係に会って交渉すると、筒袖をたもとつきにすると年間300円の被服費増となり、物価騰貴のおりから無理だという返事である。満州国は成立したが、日支間の武力衝突は北支から中支へおよぽうとする。日本は先年ワシントン軍縮条約の破棄を通告し、国をあげて軍備を増強していた。それが物価を押上げる。桑島食糧係からは去年なみの献立はむつかしく、量が減るかも知れないと了解を求められている。所長は「物品節約通達書」というのを各室に配布していた。
 限られた予算を有効に使うには、何より自治会の協力が必要である。この点、野島所長は知らすべきは知らせて、総代や常務委員の意向をきいた。節約のため茶碗一つ、ほうき一本伝票に書いて配給部の印をもらい、それを持っていって分室から支給を受けるようになった。そんなことがあって一部に自治会は患者のためか、役所のためかという素朴(そぼく)な疑問を生んだ。
 満州国皇帝の帰国を見送るため、布製の小旗が60本下付された。御召艦が小豆島の南に現れ、本航路を島影に消えるまで立って日の丸の小旗を振った。その後常務委員詰所の頭のいいのが「60本くらいの小旗では足らんわい」と、騰写の原紙にドンブリ鉢を伏せて中央を円形に切り抜き、分室で和紙と柄にする細竹を買ってもらい、赤インクで刷って張った。それを日ごろは詰所で保管し、いざとなると抱えて行って景気よく勝手に振ってもらった。
 かねて建築中であったキリスト教の礼拝堂が竣工した。患者地区唯一の洋風建築で、みどりの樹間に白亜急傾斜の屋根は美しかった。その献堂式がオルトマン、エレクソン両師、宮内岩太郎牧師その他関係者多数を迎えて行なわれた(5月21日)。新しく教会堂が建ってそれまでの教会堂が不要となり、寄付されたのが現在の青松編集室である。当時は会議室に使用したため、会議室と呼んだ。
 こうした療養所の平和な生活とは別に、次元のちがう防空演習が初めてあった。当局から灯火管制用の袋状に縫った黒布が渡され、演習がすむと各室を集めて歩いた。まさか頭上を敵機が飛び、空襲警報が連日発令されるようになるとは思ってないから悠長なことである。
 6月4日、皇太后様から赤坂離宮で育った楓苗150本と、御紋章入りお菓子5ハコいただいた。重ねがさねのお思召である。新築中であった自治会詰所が完成したので移転した。グランド北側の旧事務所である。昭和6年1月、図書室を委員室に使用して以後、転々と4回移転し、5回目に初めて新築の家屋である。奥が会議室、手前が執務室ということだが、奥に正副総代と会計部が机をおき、始めから挟かった。
 盆には青年団、婦人会主催の宝探しがあり、千歳果樹園から収穫した西瓜126貫余、1人750㌘あて配給した。山畑であるため特別甘味が強く好評で、しかも大きいので各室員を計算し、切って量り分けた。

 以前から俳句会では幾つかの俳句雑誌に毎月投稿していた。たまたまある俳誌に投稿した2人の句稿に、血痕がついていて以後の投稿を拒絶される不祥事があった。不注意からとはいえ強いショックであった。単に血痕がついていたという過失に止まらず、それほど嫌悪される身の堪えがたい心の痛みであった。
 たとえ過失であったにせよ、これは投稿に限らず外部に出す郵便物全部にいえる。早速お詫びの手紙を差上げると共に一同今後の注意をたがいに誓い、二度と同じあやまちの繰返しにならないよう努めた。宛先によっては「消毒済」印の必要も考慮された。
 島の療養所であるため四国本土から海峡を渡って電気が来ず、大正11年(1922)以来、機関場の発電機が重油を焚いて発電していた。朝から晩まで高い爆音をポンポンあたりにひびかせて発電し、夜間はその蓄電で弱い光力の電灯をともした。この発電機の故障は毎度のことで、一同難渋したが、このときはすでに1ヵ月前からの故障で、夜間は灯心を油皿で燃やした。暗闇では不自由なため夜通しともすと油煙で鼻の穴が真っ黒になり、部屋中が黒く燻った(くすぶった)。その発電機の故障が修理され、待ちに待った電灯がついた。その昼間の蓄電によるにぶい光の電灯さえが眩しいほど明るく、不思議そうに裸電球のN字を重ねたニクロム線を見上げた。10時以降は半灯となったが、年末年始に限り通夜全灯とか。これはまた明るいニュースといえた。
 12月27日に青年団、婦人会の手で賑やかな餅つきがあった。一人一升五合、当局から一升、自治会から五合、合わせて九石四斗、一人の怪我人もなく無事つき上げた。

 あけて昭和11年、1月末から2月へかけてひどい寒波が襲来し、近年にない冷込みである。山裏の海岸では真鯛(まだい)が寒波のために、泳ぎの自由を失って浮上した。それを鳶(とび)が狙って急降下し、まず目玉を喰う(くらう)。人間は海岸で見張って鳶より先に真っ裸で海中へ飛込み、70米100米の寒潮も何のその、泳いでいって鯛をつかんで来る。寒くてガタガタふるえる体を、海岸で焚火して温めた。大きい鯛は8、90㌢、小さくても30㌢はあった。病友の何人かが拾った。
 2月26日朝も相変わらずの冷込みであった。突然ラジオが臨時ニュースを伝えた。東京は大雪で、その雪の未明に陸軍の将校が内大臣や侍従長や、その他政府高官を襲って射殺したという。法治国の日本でこれはまた何事か。えらいこっちゃとみなびっくりした。二・二六事件であった。
 さて前回の役員選挙には自治会創立以来初めて17名という多数の候補辞退が出たが、11年3月15日に前回通り辞退届を締切ると、何とはるかに上回わる24名の多数に上った。正副総代、常務委員、評議員、それに前役員まで加えてである。審議のしようがなく、室長会に一任となった。一般的には無責任に投出した形になった。室長会とて審議のしようがなく24名中、23名の候補辞退を承認した。何からなにまで異例づくめで二・二六事件どころでなく、足元があやしくなった。これでは自治会の将来が思いやられると、嘆く者がいた。休みたい者を休ませて候補者の範囲を広げるのはいいが、なぜそんなに大勢が自治会役員を辞退するのか。簡単にいうと一部に役員の足をことごとに引っ張る動きが出、やりたい者にやらせろというのが舞台裏の話であった。それが多数の候補辞退となり、承認という結果を生んだ。
 とにかく新しい正副総代を選出し、無事全役員を推薦し、問題を残しながら発足した。
 いっぽう去る9年の室戸台風で潰滅した外島保養院は再建の敷地を求めて困難をきわめたが、ついに岡山県邑久郡長島の西端-愛生園に隣して設けられることに決定し、地鎮祭が行なわれた(4月9日)。大島の外島病友70名のうちには、帰るべき療養所の姿を見ず他界した者もいる。大島の病友と婚姻関係を結んだ者もいる。2年間にいくらかの変化はあったが、かれらの唯一の希望は一日も早く全国の療養所に分散する病友といっしょになり、ふたたび平和な療養生活を送ることであった。
 青年団婦人会共催の春季大運動会が開催された“五月雨の白雲いまだ収まらず”(虚子)といった日和であった。病友も職員もその家族も大勢見物につめかけた。まず少年少女の徒歩競争に始まり、プログラムは進行した。するとグランドの一角がにわかにざわめき、声援と盛んな拍手が湧いた。
 「樽コロガシ野島所長、宗内医務課長殿ノ参加サレタルコトハ、特筆大書シテ今後ニ益スルコトト思フ(常務委員会日誌)」
 すでに職員と患者チームの野球試合はたびたびであったが、これは初めてである。
  “所長さん樽ころがしは巧くなし”
 宗内医務課長共々どうにも思うほうへ転がらなかった。
 去る11月修理したばかりの発電機がまた故障である。向こう20日間は電灯がつかないという。例によって各室にタネ油と灯芯が支給され、病室だけはランプである。火の用心が悪いため作業部で石油カンを斜め二つ切りにしたのを配り、それを安全な場所におき、その中で油皿の灯芯を燃やしてもらった。殖産部から野菜の売買値が公表された。何れも一貫(約4㌔)馬鈴薯15銭、きゅうり12銭。
 らい予防協会寄贈の金管楽器は、すでに葵(あおい)音楽団で吹奏されている。残りの印刷機械と活字が届き、精米所の東側の一室に据えつけた。精しい病友がいて好都合であった。皇太后様のお歌碑が会館南、通路に面して建立され、その除幕式があった(8月7日)。細目の庵治石にお歌が刻まれ、御歌所寄人入江為守謹書となっている。盆の15日に愛生園病友のストライキが伝わった。詳細は不明だが、職員の話では作業問題が原因とか。職員と患者が協力して一大家族主義を標ぼうし、一見平和に見えても裏には問題を抱える。かつて改革運動を経験しているだけに一同、患者側の主張の通るのを望んだ。
 9月3日、突如として正副総代、各常務委員、評議員議長が辞表を提出し、翌日は残りの評議員が辞表を提出した。全役員総辞職である。今期初めの候補辞退以来、裏面で尾を引いた問題が表面化した。それをまた辞表を出している議長が、受理されていないのを口実に、他の評議員を強引に誘って審議した。そして全部の辞表を返し、あらためて正副総代に辞表の再提出を求め、審議の仕直しをした。そのあげく総代の辞表だけ認め、副総代を繰上げて後任総代とし、新しく副総代を選挙することにした。常務委員以下の役員はそのまま留任である。一人の常務委員が強硬に辞任を主張し、仕方なく後任を推薦した。自治会々則を私物化した、何から何まで便法という名目であった。
 所内ラジオが完成した。7月から各療舎の配線工事にかかり、ようやく一切の設備を完了した。スピーカーは各室毎にというわけにいかず、一棟の中央通路上に取付け、左右二室で聴取した。ラジオを流して試験放送し、ついで11月7日、全国療養所長会議をおえて帰った所長の、事務本館からの報告が初放送となった。内容は去る8月の愛生園のストライキに関連し、患者の懲戒検束規定にもとづき所長が所内に監獄にひとしい特別収容所を設置し、好ましくない患者を入れるというのである。第三者を加えた公平な事情聴取があるわけでなく、一方的にそうならない保証はどこにもない。あまりにも患者の口を封じようとする反動的処置であった。さいわい野島所長の乗り気でないのがうかがえて安心した。
 ラジオ、ラジオと騒いだのは過去となり、所内ラジオの開通で浪曲、落語、漫才、流行歌と、何でも自室にいながら聞けた。「東京ラプソディー」が流行した。大島の秋はさわやかの一語につきる。暑い夏の疲れを潮風がいやしてくれた。美しい樹々の紅葉のみられないのは残念であった。それを侍たず潮風にいたんで枯れ葉となる。菊が咲きコスモスが咲き、秋のバラもダリヤも咲いた。
 11月6日、大師堂南の山上にりっぱな納骨堂が完成し、落慶式がたくさんの僧侶を迎えて行なわれた。施工費は高野山から1500円、東本願寺から500円、その他の寄付によった。去る5月から工事にかかり、基礎工事に患者も臨時作業として出「墓穴を掘るとはこのことだ」と笑い、いつの日かそこに入る身を思った。納骨された仏様を最後に葬る、深くて暗い空井戸を掘ったときである。
 皇太后様の御下賜金で北山の東端南面の山頂近く相愛の道のかたわらに、茶室ふうの四阿(あずまや)が建った。寄せ棟で三方に縁がつき、床の間のある家はここだけであった。名称を一般募集して雲井寮と呼び、掃除人(作業)がつき、人々の憩いの場となった。短歌会や俳句会がしばしば開かれ、春はつつじの花が周囲を染めた。夜景もまた美しくはるかに高松市街の赤い灯青い灯、海上に明滅する漁火(いさりび)、行き交う豪華な客船の灯。打ち寄せる東海岸の波打際に、青白い光を放つ夜光虫の群を見る夜もあった。現在つつじ亭が建つ。
 印刷所が活字を並べ終わり、試験的に「報知大島」を刷った。さすがに活字である。騰写版とちがい鮮明で読みやすく、わずかの部数でおわるのが惜しまれた(11月18日)。
 この期にもまた会則が改正され、特に第一条が書き改められた。
  「本会ハ大島療養所長ノ保護監督ノ下に皇恩ニ感謝シ、国家社会ノ同情ニ応エ、相愛ノ精神ニ基キ、会 員ノ福祉ヲ増進スルヲ以テ目的トス」
 いまいうところの福祉の概念とちがい、皇恩に感謝して国家社会の同情に応える福祉だから面白い。

  注、6年の改革運動に更迭を要求した職員中、8年に所長死亡、
    乙竹係長同年退職、多田会計係9年辞職。寺竹庸人9年辞職、残る7名は勤務した。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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