はじめに
「昭和6年1月16日(金)」
これが実行委員会日誌の冒頭である。かなづかいはカタカナで、大学ノートのたて書きとなる。
昭和6年は1931年である。この日、生れた実行委員会正副委員長は執行、常務正副委員経て、自治会正副総代から後の協和会正副会長と幾度か代表者の名称はかわるが、日誌は連綿と書き継がれて50年後の今日に至る。ぼう大な冊数となって保存されている。
実行委員会は現在の協和会、その前の患者自治会生みの親である。実行委員会日誌は同年3月7日をもって終わるが、以来50年間にわたる日誌こそ、青松園在園者の生きた記録であり、歴史である。しかもその50年は明治42年(1909)開所した大島療養所の延長線上にある。日誌の行間に、開所以来70年間の息吹きの感じられるのもまた当然である。
つつじ咲く青松の下蔭の、納骨堂に眠る1800柱の霊よ!。そして現在の在園者500名と、70年間の総入所者数3800名、自治会の歴史はこれら多くの者が島を愛し、島を第二のふるさとときめ、より良くより美しく努力した汗と涙の記録である。ある者は手にペンを結びつけて日誌を書いた。またある者は頬に指のない手のひらをあて、その間にペンを挟んで書いた。
作業のためある者はいのちを縮めた。またある者は傷に泣き、ある者は病気が重り、ある者は不自由な身をより不自由にした。そして老い、そして何一つ報いられることなく死に、そして今日に生きながらえた。
1800柱の霊よ!。この一書はきみたちの努力に謝する鎮魂のはなむけである。友よ!、涙を拭いて過ぎ去った50年を70年を、ありし日の如く膝を交えて共に語ろうよ。愛するわが島のあしたのためにー。
同時に自治会50年の歴史は歴代の療養所職員の手厚い庇護はもとより、その間に寄せられた数え切れない世の多くのかたの暖かい激励と援助と理解の貴重な歴史である
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