わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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序 文

国立療養所大島青松園
       園長 岡田 誠太郎

 ハンセン病のもたらす身体障害はいろいろあるが、そのうち最も患者にとってつらいものは失明である。俄盲の不自由さ、何をするにしても馴れない手さぐりの状態である。さらに手指の知覚が麻蝉しているものにおいては、その不自由さは筆舌につくしがたい。点字をおぼえるにしても、手が麻蝉しているために役に立たない。その時は舌を使うより他はない。以前所内の娯楽としては、大島会館で映写される映画が主なものであったが、盲人の人にとっては、それも楽しめなかった。聴覚を主とした盲人向きの慰問は、俸かに年数回の有様であった。テレビが普及した現在、盲人の人たちにとっては、その恩恵もうけられない。
 昭和七年5月27日、まだいろいろな恵みの少なかった時代に、さらに恵まれなかった盲人の人たち65名が、盲人相互の親睦、教養をはかり、自分たちのしあわせは自分かでの手で切り凋こうと、「杖の友会」を結成した。その頃はハンセン病はまだ治らない時代であり、わずかに大風子油の注射がなされていたが、当時の所謂斑紋型には多少効いたが、結節型には効かず、病気は進行し。結節は崩れて潰瘍をつくり、眼は冒され、喉頭も冒され、患者にとっては誠につらい時期であった。福祉の面でもその頃はまだ恵まれなかった。この「杖の友会」が今の盲入会の前身である。それ以来50年余が経過している。まさに半世紀である。その間にはいろいろなことがあったようである。存亡の危機にさらされたこともあったようであるが、会員の必死の努力によって維持継続された。そして昭和29年にがり版刷りによる機関誌「灯台」をはじめて発行した。18号からは活版刷りとなった。現在まで92号を数えている。昭和30年5月には全国ハンセン病盲人連合協議会(全盲連)が結成され、翌年「杖の友会」を「盲人会」と統一的に名称を変更した。昭和33年7月、瀬戸内三園盲人協議会がはじめて愛生園で開かれ、一時中断はあったもののその後も継続されている。はじめは会合その他の世話は青年団、婦人会の幹部が行なっていたが、それらは解散してしまった。それ以来専任の世話人がつくようになり、サークル活動ができるようになっていった。その1つとして前記「灯台」の発行があった。しばらくの間は間借り状態の会活動であったが、昭和34年8月MTLその他篤志家の援助を得て、盲人会館が建築された。昭和37年から不自由者の生活介護が職員に切り替えられて行った。外部への働きかけも活溌になり、厚生省、四国地方医務局への陳情などを行ない、盲人福祉も少しずつ改善されていった。盲人教養文化費、盲導索設備費、などが示達され、ラジカセの購入、音声電卓、音声時計の設置、園内のガードレールの設置、盲導鈴の設置などが行なわれた。テープライブラリーも次第に整備され、現在は約三千巻を数えるに至っている。現在クラブ活動としては文芸で短歌、俳句、川柳、余興として冠句、なぞなぞ、ものは付けの募集、カラオケの設置により歌謡曲の歌唱、そして時にカラオケ大会が実施され、その他ハーモニカの演奏、民謡の練習などが行なわれている。昭和56年10月には新しい盲人福祉会館が竣工し、現在に至っている。行事としてはひな祭、七夕、月見、山遊び、春秋定期的に外部へのバスによるレクリエーション、大島後備での釣り大会などが行なわれている。現在では職員2名が盲人福祉会館に配属され、お世話をしている。
 ここに至るまでのいくたの盲人の方たちの苦渋にみちた記録が本書には記されている。北島会長が書いているように、本書は悲惨な生涯を閉じた盲友255名の霊前に捧げる鎮魂の書でもある。一人でも多くの方に読んで戴き、今後なおI層の盲人の方々への御理解と御援助をお願いしたい。なお本文を記すに当って、国立療養所大島青松園入園者自治会五十年史「閉ざされた島の昭和史」を参考にさせて戴いた。感謝を申し上げて筆を擱く。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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