わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第2章 脱 皮(昭和26〜34年)

 7 瀬戸内盲人懇談会
            今 井 種 夫

 瀬戸内三園による友園交歓が行なわれるようになって数年になる。しかし、私たち盲人は人手をわずらわすことから、自然遠慮しなければならない状況であった。だが交歓の回数が重なるにつれて、私たちも長島、邑久の盲友と膝をまじえて話し合いたいという強い要望を持つようになった。それは、今春長島の友園交歓船で来られた田畑、谷本の両氏を囲んで懇談会をもったとき、三園の盲人が一つところで会合を行なってはどうか、という意見が出され、それに向ってお互いに努力することを約したのであった。
 その後長島において開きたいとの連絡を受けたが、大島としては、去る5月1日発足したばかりの全国ハンセン病盲人連合協議会(全盲連)の本部を担当している邑久で開いてはと思い、その旨を長島に伝えた。それに対して邑久の了解も得られ、5月23日開催されることになった。
 全盲連は昭和30年5月1日、全国11園の盲人1172名によって結成されたもので、その目的には、
 一、各盲人会の連絡融和を図る
 一、会員の福祉を増進し文化の向上を図る
 一、会員の社会的自覚をはかり、一般盲人と交流する
 一、晴眼者との親和をはかり、療養所の明朗化に努める
 一、全患協との連繋を保ち、療養生活の安定を図る
 とうたわれている。
 会では早速幹事会を開き検討した結果、幹事7名、付添いとして世話係2名が参加することになり、ちょうど当日23日に実施される友園交歓の際、是非便乗させて欲しい旨を自治会に申し入れた。こうして長い間の希望であった三園による合同懇談会が、邑久において実現する運びになった。しかし初めての試みであり、日が迫るにつれて不安が参加する一人一人の気持を重くさせてゆくようであったが、その日になってみるとそうした不安も消え、船酔いする者もなく、邑久光明園の桟橋に着くことができた。
 案内されて会場に入ると、邑久、長島の代表はすでに揃って、私たちの到着を持ってくれていた。席に着くとすぐ自己紹介が始まった。邑久の会長であり、全盲連の初代会長の小川義明氏とは初対面であったが、津島氏や、長島の畑野会長などとは声なじみであった。まず最初は小川会長より挨拶があり、続いて全盲連結成までの経過報告が行なわれた後、各代表から質問があり、次第に会議らしい雰囲気になっていった。そしていろいろな意見交換の中から、各支部の現状把握が先決だということで、全盲連ニュースを発行してはということになった。また県盲や日盲と手をつないで、相互の福祉を高めてゆく必要もあるということになった。
 全盲連が発足してまだ日が浅いにもかかわらず、各支部からは厚生省その他への要望事項が多く、本部ではそれらをさばきかねていた。そうした全盲連に対して、周囲からは“おもらいの会”などと悪評を受けたが、その要求は“盲人会館を建てて欲しい”、“白杖や点字器を支給して欲しい”等で、いづれも私たち盲人にとっては最低限度のものである。たとえどう言われようと運動を続けてゆくことは、人として生きてゆく上に当然の権利だと確認し、お互いに協力して全盲連を盛りたててゆくことを話し合った。
 会議の後お茶とお菓子が出され、各自それぞれ知人の消息をたずね合ったり、心をひらいて談笑し、和やかなときを過ごした。私はこの模様をテープに収めて持ち帰り、会員に聞いてもらいたいと思った。
 今回三園の盲友が集まり、会合をもったことは、私たちが不自由であるだけにその喜びは大きかった。又これまでの殼を破って私たちが邑久へ出かけたことで、自分たちもやればやれるのだという自信をもち、今後の歩みをより確かなものにすることができ、意義ある懇談会であったと思う。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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