わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第3章 環境改善の闘い(昭和35~42年)

 21 読書会今昔
            北 島 澄 夫

 今から10年ぐらい前になると思うが、園内作業の一つに読書係りというのがあり、盲人とか、たとえそうでなくても本を聴きたいという人のために、4日に1度ぐらいの割合で作業制による読書会が行なわれていた。読書係の作業内容は、まず図書室に行って読む予定の本を借り受け、その題名と読む時間と場所を園内放送してもらい、午後1時から3時半頃までの時間を朗読するもので場所は主に林記念図書館を使っていたようであった
 私の妻もその頃はまだ元気で園内作業に従事していたが、あるとき割当てがきて、2た月ばかり読書係を受持ったことがある。どちらかというと声に幅がなく、その上に読むことが不得手で、どう考えても妻には不向きな仕事としか思えなかった。それでも集まってくる聴取者はいつも2、30名を下らなかったようだから、いかにその頃の盲人たちが、この読書会を楽しみにしていたかがよく分る。これは後になって知ったことであるが、従来の作業種目になかった読書係というものを、新たに設けるに至った蔭には、盲人会あたりの強い要望があったらしい。それというのも、当時のハンセン病療養所は、新薬プロミンの出現によって療養者の病状がよくなったことにもよるが、一大転換期といわれたほど活気にあふれ、全国ハンセン病患者協議会(全患協)の結成から、所内生活に関する保障、予防法の改正闘争等々、一連の運動に立ち上がろうとする動きをみせはじめていた時代でもあった。部屋の隅にこもり勝ちだった盲人たちも、こうした周囲の動きに刺激され、本でも読んでもらっていろいろな知識を得ようと思ったのであろう。今一つには盲人会の後援団体であった青年団、婦人会が相次いで解散してしまい、それまでやってもらっていた読書会とか、娯楽行事なども行なってもらえなくなったため、これではますます取残されることになる。何んとか世の動きについてゆきたいという願いが、作業制による読書会のきっかけとなったようである。もちろん自治会においても、現在の如く点字書もなく、ラジオ等も普及していなかったその頃の盲人会や、盲人の窮状がよく理解できたからこそ、要望を入れて読書係を置くことにしたのであろう。
 たしかに読書は私たちの日常生治から切り離すことのできない大切なもので、本を通じて古代の出来事や、社会風俗などをある程度知ることもできれば、まだ行ったこともない外国のあちらこちらを居ながらにして見たり、歩いたり、その自然にひたることもできるのである。あるときはまた作中の主人公に自分をかさねてさまざまな問題と取組み、考えをめぐらすことによって、人生に役立つ教訓や人生体験を得ることもできる。だからこそ読書が内面的経験であるといわれる意味もここにあると思う。とりわけ私たちの如く、一定の地域から外へ出る機会も少なく、しかも盲目というハンディを背負って生きていかねばならない者は、どうしても考え方や視野が狭くなりがちであるが、それを補なってくれるのは書籍であろう。だから当時の盲人たちがそれに気付いて、まず本を読んでもらうことを申し出たのは賢明であったといえる。
 私はかっての読書会でどのような本が読まれていたか、よく知らないが、ただ妻が「次の読書会から“チャタレー夫人の恋人”を読んでくれっていうのよー、困ったわ」と言っていたのを聞いたことがある。“チャタレー夫人の恋人”といえば私も一度読んだことがあるが、確かベスト・セラーになりながら発売禁止となり、裁判沙汰にもなった話題作で、性を扱った場面がずい分出てくる。それを読んでくれと言われて、まだ20歳代だった妻が抵抗を感じたのも無理はない。だが結局この本は外にも読む人が多く、いつ行っても図書室に戻っていなかったため、別のものに変更されたようであった。そしてその後どうなったか、妻が係を離れてからのことはよく分らないが、おそらく読書会の席では読まれなかったのではないかと思われる。
 この読書会が廃止されたのは、妻が係をやめてどれくらい経ってからであろうか。なんでも盲人会の強い要請で会に世話係がおかれ、事務だとか、外部との通信連絡などすべてがその人たちによって処理されるようになったので、いっそのこと読書会も盲人会の方でというわけで、整理されてしまったように記憶している。早いものであれから10年近い歳月が流れたことになる。
 最近盲人会では、テープによる読書会が盛んになってきた。これは友園盲人会や外部の友好団体、日本点字図書館などから送っていただいた声の図書を再生し、聴取するもので、便宜上「テープによる読書会」と呼んでいる。私も盲人会に入会以来、ずっと聴きに行っているが、どれも読み方が上手な上に、季節の音や、名曲の調べを巧みにとり入れて録音されており、いつまで聴いていても肩がこらず、なかなか好評である。この外にも世話係や朗読奉仕者によって直接行なわれる読書会もあり、また点字の読める者にはいろいろの点字書籍も寄贈されているので、自分で読みたければ、いくらでも読むことができるわけである。しかし、これには点字を習得しなければならないので、やはり全般のことを考えた場合聞くという方法がいちばんで、そうなると何といってもテープの方が分りやすく、しかも聴きたければいつでもきき返すことができる上に、なお盲人会館に来れない会員には、園内放送を通じて聴かせるという利点もある。ただこの場合欠点としてあげられることは、新刊書を早く聴くことができないこと、郵送料が高くつくことであったが、それも1昨年7月1日の郵便法一部改正によって、点字書や盲人用録音物などは、発受施設としての認可を受けさえすれば、無料で送れるようになったので、こうした悩みもある程度解消されたのである。
 盲人会でも会員の要望に応えて読書会には力を入れ、直木賞、芥川賞などの受賞作品が発表されるごとに、日本点字図書館にテープを送って録音してもらったり、大阪日本ライトハウス声の図書館にも手続きをとり、すでに何回か借りて利用している。借用の方法は、登録をすませたさいに送ってもらった図書目録の中から、希望するテープの長さ、本数などを考慮に入れ、2、3種類申し込んでおけばあるものから順に送ってもらえるわけで、団体の場合は3ヵ月間借りることができる。
 こうした方法によって、今回も2、3種類申し込んでいたところ、送られてきたテープのなかに、どう間違ったものか“チャタレー夫人の恋人”が混っていた。別にそれを希望したのではなかったが、番号の書き違いか、それとも申し込んだテープが無かったため、代りとして送ってきたものか、そこのところははっきりしない。いずれにしても10年前に妻が読むことになっていて読めなかった本が、今こうして声の図書となって送られてきたことに、私は早い時の流れと、世の移り変りをしみじみと感ぜずにはいられないのである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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