わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第5章 闇からの開放

 64 松によせて          南 部  剛

 松に吹く風の音、砂浜に寄せる波にも季節の移り変りがあり、それを聞く人の心もまちまちで、ある時は楽しく、また淋しくも感じられる。
 毎年夏になると大島を訪ねて下さるお客様がどっと増える。その人たちがまず目につくのは島の松林だそうで、ある人は、「こんなすばらしい松は、須磨や明石の海岸でも、今では見られなくなった」とほめていられた。こうして誰の目にも印象深く残る島の松、その昔、屋島の合戦で戦死した人たちを葬った上に植えたものだそうで、墓標の松として、今に語り伝えられている。
 明治42年、此処に療養所が設けられて以来、今年で60年になるが、その間、病気ゆえにここへ送られて来る人たちを残して帰る肉親が、心ひかれるままにふり返り去ってゆく、こうしたことから誰言うともなく、見返りの松とも呼ばれるようになった、と分館長の海老沼さんが何かの本に書いておられるのを読んでもらったことがある。しかし、不治の病とされていたハンセン病も治療薬プロミンをはじめ、次つぎと新薬が出来た今では、療養所にいる患者の多くが菌陰性になって、社会復帰する方も増え、後遺症で社会復帰出来ない人も何十年ぶりかで里帰りする道も開かれた昨今、その人たちが島を離れてゆくとき、どのような気持で島を眺めるのだろうかと思うとき、今昔の感をおぼえるのてある。こうした喜びのかげに42年間不便なこの島で、患者のために働いて下さった園長野島先生の深い慈愛を忘れることが出来ない。先生はとても松が好きだそうで、島の松を大切にされ、余程のことがない限り松を伐ることを許可されなかった、と聞いている。
 4月の晴れた午後、島山のツツジが見頃だというので、松浦君、賀川君らに誘われて出かけた。水路に沿ったせまい道を行くと、崖下から吹きあげてくる磯の香りを含んだ風が汗ばんだ肌にこころよい。低くたれた松の枝が時おり私の頬をなで、秋の台風に倒れたものらしく、枯れた松の幹が行手をさえぎる。それを這うようにしてくぐり抜けてゆくと、松の間にちらほら咲いているツツジの花がとても美しいそうで、近づいて花だけ見るとさほどではなく、やはり少しはなれて眺めた方が、松のみどりと調和して花が一段と冴えて見えるという。一見無骨に見える松の持つ不思議さとでもいうのであろうか。
 私は青松園に来てもう7年になるが、目の見えない私にとっては美しい島の景色も、みごとな根上り松も無縁なものでしかなかったが、治療の申斐あって病状も落着き、健康をとり戻してくると、木陰に足をとめて小鳥の声に耳を傾けたり、また毎日通う治療の行き帰りに、道をはずして探りあてた木を撫でさすりながら、道行く人を呼びとめては、何という木か、花は咲くか、どんな色かなどとしつっこく尋ねたりもした。ある日、眼科の裏を通っているとき、自転車をよけて道の脇に寄ったところが、匂いのする大きな葉が私の顔に触れた。私は手頃な枝をつかんでゆすぶってみたが、かなり大きいらしく、僅かにその附近の小枝がゆれただけであった。早速寮に帰って聞いてみると、それは泰山木で、ここに勤めておられた勝賀瀬さんという看護婦さんが、退職されたときの記念樹だそうである。毎年6月頃になると、蓮の花に似た白い大きな花が咲き、折からの雨に濡れているさまもひとしおで、それが次第に錆色に変ってしぼんでゆくのも、見る人の心に哀れを感じさせ、これまで多くの人が歌や俳句にその作品を残していると聞かせてもらった。
 私の部屋の窓をあけると、軒近くに少し曲った太い根の木があって、それにノーゼンかずらがからんでいる。毎年夏になると、花が咲くのが待たれ、一輪咲いたと聞くと、毎朝掃除に来る看護助手さんに、花の数をかぞえてもらうのを楽しみにしている。土用にはいると待ちかねたように、どっと花がひらいて、松の老木を飾り、もうとても花の数はかぞえきれなくなる。見える者のようにじっと花に向って立っている私の手に、磯野君が一枝のノーゼンかずらを握らせてくれた。そっと唇に触れてみると、花は思ったよりしっかりしていて、外側はざらざらした毛のように感じられ、葉は藤の葉に似ていた。これまで、朝顔の花に似ていると聞かされていただけに、私の想像とは大分違っていた。ノーゼンかずらを支えている松の幹に、白蟻が巣を作っているらしく、夕方になると部屋の灯におびただしく群がってくるようになって、この松を伐り倒すという話が持ち上ったのは、ノーゼンかずらの花も盛りをすぎ、遅咲きが僅かに残っている頃であった。話を聞いた私は何か心淋しい思いがした。それが伐られないままに年を越し、まだ春もあさい頃、私か夜中に目をさますと、何かバリバリと木を裂くような物音がし、それが断続的に続いたが、夜明け前に大きな物音といっしょに、近くの家の屋根瓦が落ちてこわれる音がしたので、私はハッと飛び起きた。物音に目をさまして外に出た人の話によると、白蟻の巣のある松が、風もないのに地上2米ほどを残して倒れたのだという。それはやがて伐られることを知って、自決したかのように、建てこんだ家を避けて、僅かに放送室の軒をかすめただけで倒れたのであった。翌日からとり除け作業が始まり、次つぎと枝がはらわれ、幹が幾つかに切られてゆく。私は部屋に坐って鋸の音を聞いていると、何か胸に追ってくるものを感じた。それは、松を惜しむ気持というよりも、限りある命を持つ私への郷愁でもあった。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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