わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第5章 闇からの開放

 65 闇の渦中で          島 田  茂

 1963年は、海外ではケネディ暗殺で地球を大きく揺るがした。はからずも日米リレー衛星によって劇的なその事件が生のままテレビ放送されたのは、ひとしお感慨深いものがあった。そして国内では、吉展ちゃん誘拐事件をはじめとして、鶴見列車衝突事故や、三池炭坑の爆発大惨事をまき起した。内外共に歴史の1ページを黒くかざった年であった。私白身にとっては、失明によって人生を180度転換させられた苦難に満ちた年でもあった。この年の1月17日は、島にはめずらしく大雪が降り雪景色をバックに写真を撮ってもらった思い出もある。
 4月初めの寒い日のことであった。部屋の者は大きな切り炬燵でトランプ遊びにうち興じていた。その歓声を背中に聞きながら、0・03の視力をいつまでも保ちたい念願をこめて温罨法をしていた。昨年2月、既に左の眼球は摘出していた。健康な部屋の者との間には、何かしらいつもハンディからくるギヤップを感じていた。
 そんな私に、部屋の者は何かと気を配り、炬燵にはいれと勧めてくれた。勧められるままに拒俗に足を入れ、トランプ札の判別もつかないが面白そうに遊んでいる様子を、淋しい思いで眺めていた。
 麻痺した足には炬燵の熱さなど分ろうはずもなく、その翌朝、足の裏の水泡のつぶれていることを、隣りに寝ていた本田さんに教えられ、驚いたものである。
 4月10日、その火傷で入院した、それ以来視力が急激に滅退しはじめたが、どうするすべもなく、ただ不安と焦燥におののく毎日であった。“おぼれる者………”のそれの如く、週2回の眼科の診察に、すべてを託して治療に専念していたが、それでも、視力は日毎に低下の一途をたどっていた。
 5月中旬には眼前指数もおぼつかなく、電燈の点滅さえさだかではなくなっていった。五里霧中にあえぎながら、眠れない夜の重い寝がえりに、ベッドの軋む音だけが病室の静寂にわびしかった。吹きすさぶ灰色の嵐の海に舵をうばわれ、羅針盤を失って漂流する小舟のように傾きながら、私の心は大きく動揺していた。果てしなく続く黒い霧の中に、遠い故郷が虹のようにはかなく、年老いた母の顔がひとしお懐しく浮かび、二度と見ることの出来ないものへの郷愁がつよく胸をしめつけるのだった。
 ともすると、心のすき間からにじみこんでくる孤独感と虚無感の中で、自己を見失うまいと懸命な努力を続けた。この逆境にあえいでいる実態を故郷の母には知らせなかった。知らしてもどうにもならない隔絶されたハンセン病の宿命を憎んだ。
  暗黒につき落とされて見し悪夢生死の錯乱夜に日に続く
 これが自分のおかれた現実とはとても思えない空虚な日々の中で、友人知人の真実に溢れた情愛だけがほのぼのと身にしみて、自暴自棄の渕から守ってくれたのだった。たびたび床頭を訪れて、慰め励ましてくれる盲人の方たちもあった。
 6月には、最後の頼みであった眼前指動も奪われ、全くの闇に閉ざされてしまった。そして、ついに6月10日盲人会に入会させてもらった。真新しい折りたたみ式の白杖をベッドの上で手渡された時には、闇に挑む心がまえは出来ておらず、唯はにかみだけが先にたって、おどおどと戸惑うばかりであった。
 入室後僅か二た月にして、白杖に頼らなければならないこのような現実が訪れようとは、夢想だにもしなかった。ハンセン病盲人のみじめさを、日常いやというほど見てきただけに、この現実をわがこととして考え、それを受けとめるだけの勇気も、自覚も出きていなかった。
 驚異的なほど進歩した宇宙開発や科学に逆行するかのように、園内においては年を追って弱視者や失明者の増加してゆく現状に、何か割りきれないものを感じるのを禁じ得なかった。ハンセン病療養所の転換期ともいわれる昨今、園内でも職業補導や機能訓練によるリハビリテーションが盛んに行なわれている反面、全く逆の現象も現れているのである。不可抗力といえばそれまでだが、限られたハンセン病療養所内での眼科疾患に対する医学の無力さを、身をもって体験しジレンマにおちいらざるを得なかった。
 失明して間もない頃のことであった。光への執着をたち切れず、少しの視力でも取り戻せないものかと、はかない望みをかけて、眼科の受診に連れて行ってもらいたいと、木村婦長に申し出た。すると意外なことに、
 「いつまでも看護婦に頼ってばかりおらず、1日も早く馴れて、受診にも一人で行けるようになって下さい」
 と追いたてるように杖を持たされた。その時の白杖から受けた感じは、光をたち切る斧のように冷たく、私を闇の中へ追い込む鞭のような非情さで心に迫って来た。側面的な白杖の練習補導もしてくれず、精神的な余裕期間も与えられず、私の失明を待っていたかとさえ邪推した。
 ナースという職業は、患者の苦悩の中へとび込んでくれ、それを自分白身のこととして考え、対処して欲しかった。
 “這えば立て、立てば歩めの親心”の句が示す通り、ものには段階があるのだから、もっと温い、長い目で見守ってもらいたかった。
 そのような木村婦長との小さなトラブルがあってから反発心も手伝って、いつまでも未知の不安にうずくまり、煩悶してばかりもいられず、必要に迫られ、第二の人生を踏み出すべく、白杖をしっかりと握りしめた、その時初めて盲人というものの厳しさが実感としてからだ中に満ちてきた。人通りの少ない早朝や、映画のある晩など、白杖の練習に懸命であった。暗闇の恐怖や不安が足もとに大きな□を開けているようであった。ついこの間までは何げなく歩いていた病棟近辺の道ではあったが、白杖一本に頼って歩くことは並なみならぬ苦労であった。全神経を白杖に集中し、一歩一歩確かめて歩きながらも道路から踏みはずしたり、通行人から話しかけられたりすると、精神的な動揺で方角を失なってしまうのであった。盲人にとって唯一の道しるべといえば要所要所に鳴っている盲導オルゴールであるが、聴覚の鋭敏さがまだ身についていない私の耳には、霧笛のように心細く聞こえるだけであった。
 ある夕方のことであったが、私の後から足音を殺してついて来る人の気配を感じて呼びかけてみると、思いもよらずその声は木村婦長であった。勤務を終えて帰る途中、私の練習している後姿を見かけ、気になって、そっと後をつけて来たとのことであった。木村婦長は厳格な人だとばかり思っていたが、このような人間味に溢れた真意に触れ、思わず目がしらが熱くなった。闇の中で触れる人の愛は、砂漠をさまよう旅人の涸渇した心をいやしてくれるオアシスのような、限りない喜びと感動を覚えるものである。
  迷い居し杖とりくるる彼の人の温みほのぼの身裡に伝う
 生来私には嗅覚がなかった。その上に視覚を失ない、音だけの世界に生きることは無味乾燥の一語につきる。四季の移り変りにうとく、食事なども全く味気ないものであった。闇の中での対話は、幽霊のようなものと話をしているみたいで、妙な錯覚を起した。見舞いに訪れてくれる人と話などするとき、そこにいることを確かめるように、軽くたたくのが私の癖になった。手応えのあることは、盲人にとって何よりの安堵感を与えてくれる。麻痺した指先に触れるものはすべて形がなく、唇だけが唯一の感覚器官であった。靴下をはくにも、肌着を取り替えるにも、すべて唇に触れて確かめなければならなかった。
 それらのことを自分のものとして体得してゆくのは、晴眼者には想像もつかないほどの根気と努力を要する。いつも私の前に立ちはだかってくる黒い壁に向って、「ニューフロンティア! ニューフロンティア! 」と心に叫びながら、少しづつ順応して行った。
 長い長い悪夢を共に味わってくれたベッドに別れを告げて、新しく出来たばかりの重不自由者センターヘ退室したのは翌年の1月16日であった。山本さんの肩に支えられて歩く私の頬に風が冷たかった。そして、闇はどこまでも続いていた。
  白杖に祈りをこめて胸張れば闇の彼方に盲導鈴鳴る

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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