わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第1章 産 声(昭和6〜25年)            赤 沢 正 美

 1 産 声

 戦時下

 無らい県運動以来、療養所の医者や県の係官が患者の収容を目的として講演をして廻り、ハンセン病が伝染病であることを強調して恐怖心をそそった。また在宅患者の検診を行ない、警察の手によって次つぎと療養所に送りこまれて来たため、各療養所は定員をはるかに越えることになった。犬島でも定員510名のところを667名となり、寝床が重なり合ったり荷物の置き場がないことなどを、自治会総代は当局に説明し、これ以上入所させないよう申し入れた。定員超過の影響はたちまち飲料水や入浴の回数にも及び、不自由者や盲人の生活にしわ寄せをきたすことになったのである。
 12年7月7日蘆溝橋事件が起こり、自治会総代は所長に対して朝7時のラジオニュースを流してくれるよう申し入れると共に、桓例の盆踊りを中止し、そして一人8銭以内の国防献金を呼びかけたが、8銭は一日の作業賃の最高額であり、集まった総額は44円41銭であった。若い職員が一人、また一人と応召されてゆくのを軍歌の演奏や日の丸の小旗で見送った。会では、出征中の宗内医官、松原看護手の慰問のため、会員より短歌、俳句を募集し、武運長久の祈りをこめて送った。大島でも灯火管制などの防空訓練が行なわれ、所長が職員と共に見て廻る足音を、盲人たちはある不安をおばえながら、床の中で聞いた。また待望していた放送用のマイクロホンが自治会詰所に設置され、スイッチを切替えると全寮に放送できるようになった。
 自治会活動も時局下の引きしめに対応しなければならなくなり、守屋医務課長から医療費節約が打ち出され、毎日の包帯交換が隔日になり、特別海の悪い者に限り医師の診察によって毎日交換が許可された。これによって、盲人たちは雨が降ってもぬれながら包帯交換に行かなければならなくなり、すべてが節約と忍耐の明け暮れであった。
 13年の5月13日、会創立以来会長として中心的役割を担ってきた山形豊氏が逝去した。
   遺 句
  徐に(おもむろに)明けゆく島や初鴉
  寒梅の庭に苔むす自然石
  路芝もやや萌え初めて春浅し
 かねて岡山の長島に再建中であった外島保養院が、邑久光明園として発足することになり、9年の室戸台風以後、私たちと起居を共にしてきた外島の病友が近く帰ることが決った。会では、その送別として4月19日午後7時半より、初めて所内ラジオを通じて演芸放送を行なった。藤田会長より外島の病友を送る挨拶のあと、
  一、漫 才
  一、新派劇
  一、旧劇「二十四孝の桔梗ケ原」
  一、「愛国行進曲」
 外島の盲友は会員と共に俳句を学び、合同句集「邱山」にその句を納めている。そして6月9日、盲目の身を大島に寄せ過ごしてきた者たちは、互いに生きて再び会える日はないであろう………という思いに耐えながら、お互いに挨拶を交した。そして晴眼者と共に去ってゆく船音を浜に立っていつまでも見送っていた。
 8月25日、四国電力の海底ケーブルが敷設され、室内灯30ワット、便所5ワットの電灯が点され、所内ラジオもはっきり聴取できるようになったことは盲人にとって大きな喜びであった。しかし、思者のたたかいは節約と物資欠乏に耐えることではじまった。それは不自由な者の日常生活を圧迫し、わけても家から送金がなく僅かな互助金だけに頼っている者にとっては大変なことであった。
 14年4月、新役員と後援団体の初顔合せにおいて、盲人が少しでも明るい日常生活を送るためのアンケート調査を行なうことにした。調査の主な項目は、病棟、治療棟、道路等に関するものである。その結果、病棟関係は、病室風呂が病人本位でないこと、洗面所と炊事場所との区別がないこと、便所が遠くて困ること。治療棟関係は、通路に担架車が放置されていること、耳鼻科ではいちいち履物をぬがなければならないこと、待合室がなく寒中は冷えて困ること、掲示だけでは困ること他。道路関係は、コンクリート道はいたみ歩行しにくいこと、立話をする人があって困ること、臨時担架車に鈴をつけてほしいこと。その他会堂や寮についての要望事項合せて19件を自治会に提出し、善処してもらうよう申し入れた。
 自治会では紀元2600年を前に大島神社造営を計画し、軽症者の勤労奉仕によって北の山の南斜面をけずり敷地が造られることになった。そこで会では、勤労奉仕にかえて会員より1銭ずつ徴集し、維持費から1円を加え自治会へ、献金すると共に、勤労奉仕者慰安の夕を11月27日午後7時半より所内ラジオを通じて行なった。婦人会の司会によって、
  一、藤田会長の挨拶
  一、童 謡
  一、阿呆陀羅経
  一、民 謡
  一、歌謡曲
  一、ハーモニカ合奏
  一、ラジオ・ドラマ
を演じた。15年6月25日には、大島神社の造営がなり石の鳥居や玉垣もでき、鎮座祭が神主はじめ多くの来賓を迎えて盛大にとり行なわれた。会においては榊2本を境内に記念植樹することにしたのである。
 この秋、天才バイオリニスト・辻久子嬢の慰問演奏会が会堂において催され、多く会員も集まってすばらしい演奏に魅了された。紙節約の中で第二合同歌集「白砂集」が発刊されたが、この中には作歌に精進してきた会員十数名の歌もみられる。
 卓上の藤の花房大いなり諸手にうけて匂ひ嗅ぎみる       藤田 粂市
 父よりの便り開けば切手あり戦地の兄を励しやれと       東 桂水
 押入れを脊に坐りいる膝の上に朝の日とどく秋となりにし    桐原 今朝光
 わがさぐる杖の音より外はなしすべてが眠る冬深き島      茂登美 笑楽
 社会では、米、みそ、醤油、砂糖、マッチなどが統制となり、いよいよ戦時体制が強められてゆき、その影響か所内では死亡率が高くなり、なかでも盲人など弱い者が多く死んでいった。
 16年の元旦には大島神社への初詣に、盲人たちも寮友に連れられて登り、参道はまだ暗いうちから人の往き来で賑わった。無らい県運動で強制収容をされて来る入所者で、これ以上受け入れられない程定員を大きく超過していた。機関誌「藻汐草」の表紙には“仰げご仁慈、救え同胞”と印刷されているが、入所者にとっては救いではなくむしろ受難であった。入所者の増加に伴ない飲料水が不足し、職員地区の井戸から臨時雇いによって炊事場横まで運んできた水を各寮の炊事当番が行列をつくり、1室15リットル宛もらったが10人から15人の1日分としてはとても足らなかった。この水不足解消のため年間の降雨量を計算して南の山に集水路を作り、貯水池を設け、そして各寮に水道が引かれた。6月20日よりは飲料水として毎朝15分間の給水がはじまったが、蛇口を全寮が一度に開くため水は思うように取れなかった。それでも塩分のない水は甘く、生活の上にうるおいをもたらすことになった。
 7月1日、これまで中国、四国八県連合立であった大島療養所が国立に移管されることになり、その式が関係者を迎えて行なわれた。これに先だち、所長通告によって患者自治会を「協和会」と改名した。国立になった園の名称は、公募した中より、青松園、清楓園、育成園が厚生省に出されていたが、「国立療養所大島青松園」と決定したことが一般に公表された。
 協和会では戦時に対応する為の会則改正が行なわれ、会でも7月6日総会を開き、規約について検討した結果、改正することに決り委員会を設置することになった。そして、邑久光明園の心光会にマッサージ奉仕などについて問い合せ、それらを参考に草案を作っていった。9月21日午前8時半より臨時総会を開き、藤田会長より改正部分について説明し、全員賛成で決定した。10月1日施行の協和会の会則に基づき、杖の友会は指定団体として助成金、物資補助を認められ、警防団、青年団、婦人会が統合、連合奉仕団として発足することになった。
 12月8日朝、園内ラジオのスピーカーから、「我が帝国陸海軍は西太平洋において米英両軍と戦闘状態に入れり」と軍艦マーチが鳴りひびき、真珠湾攻撃の戦勝ニュースがくり返された。治療棟ではストーブに使用する薪も制限され、暖房がきかず、診察を受けても充分な薬はもらえなかった。また包帯やガーゼが不足し、絆創膏の質が悪くて析角とめてもらってもすぐとれてしまうような状態ながら、治療棟の廊下はこのニュースに湧いた。マレー沖海戦でも大勝し戦勝ムードのうちに17年を迎えた。協和会の国防献金も661円と今までの最高額にのぼり、園長は放送を通して治療材料の不足を訴え、定員が700名になる見込みで、週3回の大風子油注射が1回になる旨を告げた。相次いでシンガポール陥落の勝報に熱狂し、祝賀行事が行なわれた。その時の会員の歌、
 天焦し燃ゆる星港思ほへば悪魔をはらふ切り火なるかも   桐原 今朝光
 鶏の声におだしく明けし島の朝大き驚きのもたらされたり  谷ロ 岩出
 4月20日新役員による幹事会をひらき、創立10周年記念行事について協議し、園内各所に桐の苗木を植樹すること、特別功労者及び創立当時からの会員に記念品料をおくること、協和合総代、評議員議長を招待すること、記念文芸の募集、福引きを行なうこと、また会員が病棟に入室した場合見舞金を出すことなどを決めた。
 協和会では寮舎を地区割にして隣組を作り、大島神社に戦勝祈願の日参を順番によってすることになった。そして隣組長の日の丸の旗を先頭に、山の神社で出征兵士の武運長久を祈り、皇居のある東に向って万歳を叫ぶ声が早朝の島にひびいた。
 そういう中で、6月11日午後4時半より夜伽室において、会創立10周年記念式を協和会大塚総代はじめ長田評議員議長、他関係者を迎えて開催した。寺谷副会長の司会で戦没将兵の英霊並びに会員先没者に黙祷を捧げたのち、藤田会長が挨拶を行ない。
 「恐れ多くも皇太后陛下のご仁慈を仰ぎつつ、重大なる時局にも拘らず私たち盲人が静かに療養できることはありがたい極みと存じます。協和会においても、いろいろ財政困難な中から多額の助成費をいただき、ここに杖の友会10周年祝賀式をとり行なえますことは、総代並びに連合奉仕団の方々の深いご理解とご支援によるものと深く感謝申し上げております。この十年間、不自由な私たちは共に励まし、共に慰め合いながら、日々修養につとめ、また文芸や台詞劇などに力を入れてまいりました。現在会員は70名になっておりますが、創立当時65名いた会員のうち54名の多くが亡くなり、ひとしおの寂しさをおぼえます。不自由な者の集りであるだけに、先輩の努力も想像するに余りあるものがあります。私たちは今後も先輩の意志を受けつぎ、不幸にして失明された方が安心して入会できる会にしてゆきたいと思います………」
 つづいて総代、議長の祝辞があって、特別功労者大塚一、藤田粂市、山口進四郎、岩本春代。3ヵ年以上幹部を勤めた日高房吉、東利市、島原兼助、種野伯市、寺谷良馬、それに創立当時からの会員7名にそれぞれ記念品をおくった。茶話会にうつり、菓子をつまみながら会員や奉仕団長の話を聞き、余興の福引きで賑わった。戦時下で迎えた記念日のひとときをかみしめ、明日を生き抜くことを誓い、記念式を終了したのである。
 園長が放送していた通り、続々と送られてくる患者で各寮共ぎゅうぎゅう詰めになり、唯一の薬大風子油注射も週二回にへらされた。そして秋には赤痢が流行し、27名が罹患、10名の犠牲者がでた。寮で使われていた鉄の火鉢が供出され、50銭銀貨、10銭、5銭のニッケル貨、1銭銅貨も紙幣と交換、こうして戦争の苛烈と共に18年は明けた。かねて10周年記念の1つとして計画していた桐の苗木25本がとどき、奉仕団によって園内各所に植えてもらった。17年度には21名の会員が死亡、19名が目を悪くして入会しており、入園者全体の死亡率は10・48パーセントであるのに反し、盲人の死亡率は30パーセントにのぼっている。このことは医薬品や食糧の不足が弱い者の上に及んだことを示したものであり、強制収容による入園者は124名の多くを数えたのであった。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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