わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第1章 産 声(昭和6〜25年)            赤 沢 正 美

 1 産 声

 低 迷

 18年度の役員改選によって会長に武田国一が選ばれた。この頃から食糧不足によって作業に就く者が少なくなり、その対策として協和会では、製造部で時おり加工した栗饅頭を作業従事者に特配するようになり、働けない不自由な者との間に差が生じはしめた。そうした中で、5月27日午後1時より、会創立11周年記念に併せて後援団体の慰労会を食堂において行なった。招待者は協和合正副総代、顧問、評議員会正副議長、連合奉仕団各正副団長など15名で、特別な配慮による茶菓が一同に配られた。
 6月には、青年団幹部が果樹園近くの山へ舟で行き、ムロの木を切ってきて、43本の杖を作ってくれた。これまでは患者区域の山から切ってもらっていたが、杖に出来る手頃なものがなくなったからである。会の結成によって短文芸や盲人将棋、台詞劇に力を入れていた者たちも次つぎと死亡し、新しく入会する者たちもきびしい生活条件の中で精神的ゆとりを失い、文芸にとり組む者が次第に少なくなった。
 秋には精米機の故障から玄米食の日が続き、かたい上に量が少なく、昼夕いっしょに炊かれていたので、つぎ分けられたものをつい一度に食べてしまうのであった。雑炊にしてやわらかくしようにも野菜はなく、盲人は自分で炊くことも出来なかった。日本軍のガダルカナル島からの撤退、アッツ島の玉砕、山本連合艦隊司令長官の戦死など、みんなの心にかげをおとしながら年は暮れた。
 19年の正月は、僅かだが餅、数の子、たつくり、煮しめなどが支給され、ささやかながら正月気分を味わった。星塚敬愛園々長であった林文雄先生が病気療養をかねて青松園に勤務されることになった。そして、病いの身をおして外科治療に当られ、夫人の富美子先生も内科を担当されることになった。医師は野島園長と眼科の高橋女医2人になるところを補って下さり、患者たちを安心させた。その反面、主食が減らされるという深刻な中で、今期も164名が強制収容され、23名が失明して杖の友会に入会した。また会員の死亡者は19名であった。
 4月1日、協和会会則の細則改正に伴ない、杖の友会は指定団体から各種団体になり、物資補助がけずられ戦時下の逼迫した状勢のもとではあったが、会員のショックは大きかった。幹事会ではこの問題について話し合ったが、時局柄止むをえないものとして受入れざるをえなかった。従って、これからは幹事それぞれが会員との連絡をとりながら、病棟入室会員の訪問を行なうことになった。
 千歳果樹園も、あとから拓いた三浦果樹園も果樹は切り倒され、甘藷やジャガイモ、カボチャ畑に変っていき、患者地区の畑からとれる作物すべてを供出するように決め、炊事場で使う残りは全員に配給されることになった。また、昭和7年以来発行されてきた園の機関誌「藻汐草」も、紙の不足からこの6月号をもって休刊となり、短歌、俳句に精進してきた会員にとって作品発表の場を失うことになった。
 サイパン島に米軍が上陸し、本土もB29の空襲を受けるようになり、盲人たちは身近に迫ってきた敵機に緊張した。協和会では北地区の崖に横穴式の防空壕を掘ることにして、連合奉仕団が毎日その作業に当った。土質は花崗岩の風化したマサ土で据るのは固かったが、壕内に支え木の必要はなかった。
 旱魃が続き、秋になってもなかなか雨が降らず、栄養失調と医薬品の欠乏でちょっとした病気で死亡する者が多かった。ある盲友は、気分が悪いといって臨時担架車で診察を受けに行き、すぐ病棟へ人室した。夕方知人がたずねてみると、口がねばるというので、箱膳の小さな塩壷の塩を箸につけてなめさせ、白湯を飲ますと、「あぁ、おいしかった」と喜んだが、その夜あっけなく亡くなった。こうして1日に2人、3人と亡くなる日もあり、9月3日には5つの柩が夜伽室に並び、皆の心を重苦しくさせた。
 この冬、盲人たちは木炭やたどんの乏しくなった炬燵を囲み、きびしい寒さに耐えながら、園内ラジオから流れる大本営発表のニュースに耳をそばだてていた。看護にきてくれる女性たちの服装がいつの間にかモンペ姿に変り、古着で防空頭巾を作りかぶるようになった。連合奉仕団もまた懸命に3号、4号と防空壕を掘り進めていき、四国管区の命令で北の山上に防空監視哨と機雷監視哨が作られ、奉仕団員が昼夜交替で見張るようになった。こうした活躍に対して、会より3円の慰労金をおくり感謝の気持をあらわした。
 東京が再度の空襲を受け、硫黄島が玉砕、3月28日には米軍が沖縄に上陸した。そして本土決戦が叫ばれ空襲はひんぱんとなり、朝空襲警報が発令されると治療はすべて休みとなり、敵機が島の上空を通過することにも馴れて、盲人や不自由な者たちも防空壕に入らなくなっていた。そうした日々の中で、会の存続も困難な状態となり解散の声も出たが、組織の灯を消してはならないという願いから、せめて名義だけでも残しておけば………と、臨時便法によってこの4月より会長、副会長のみをおき、必要な事柄の処理にあたることにし、いつまでつづくかわからない戦局に備えた。漬物がなくなり、その代りとして塩2匁が支給され、盲人たちは治療室で治療を待つ間に話をする外は、あまり寮から出なくなった。夕方はまだ明るいうちから寝床を敷き、枕を並べていてもそう話があるわけでなく、空腹をかかえて黙っていると、思いはふるさとにかえり裏庭にあった鈴なりのビワが鮮明に浮かんできたりする。雑居生活の中では互に苦しみや不満にたえ、それをあらわにしないことによって平安が保たれていたのである。
 7月4日未明、警戒に当っていた奉仕団員が大声で、高松が空襲されている、早く防空壕へ避難せよ、とふれて廻った。爆弾や焼夷弾の作製音だろうか、腸にひびくのを覚えながら、盲人たちは壕に連れられて入った。壕の中までB29の爆音が無気昧にひびき、高松が焼かれていることで、体のふるえがとまらなかった。つづいて団員が、高松は街全体が炎につつまれている、空も海も真っ赤で、高射砲を撃っているが敵機までとどかない、と悔しそうに知らせてきた。やがて空襲が解除になり、青松園からは特別救護班を編成し、園長以下看護婦が救助に向った。
 8月6日広島に新型爆弾が投下され、続いて長崎に同じ爆弾が落とされ、大きな被害のあったことをラジオが報じ、戦局は容易でなくなっていることを我々も悟った。8月15日の正午に重大放送があるので、みんな聞くように………と予告があったので、時間になると寮員たちはラジオの前に集まり、何ごとだろうかと話し合っていると、ガーガーという雑音のなかに、天皇陛下のお声でポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したことを告げられた。一瞬、誰も声を出す者はなく、張りつめていたものが音をたてて崩れるのを覚え、その場を立つものはなかった。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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