第1部 光を求めて
第4章 飛 躍(昭和43~50年)
34 「灯台」の灯を守って 吉 田 美枝子
わたしが、「杖の友会」と呼ばれていた盲人会に、入会したのは昭和24年で、まだ青年団、婦人会の後援によって細々と会の運営がなされていたころであった。そのころの思い出としては、昭和27年の会創立20周年の記念行事に、幹事の一人として皆の前で感想を述べさせられたことである。何をどう話したかは少しも憶えていないが、盲人になって、というより島に来て初めて、自分の考えを自分の言葉で話した感動で、体のふるえがとまらなかったことである。そして、その時からわたしは、盲人としてやれることは何でもやって、悔いのない生き方をしてみよう、と心に決めたのであった。
その翌年、全国十一園の入園者を一つの大きな火として燃えあがらせた、らい予防法改正闘争が起こった。中央に集結した代表をバックアップしてハンストにはいる者も出て、園内は騒然たる雰囲気につつまれた。盲人会の正、副会長もまたそれに加わっていた。その闘争が一応の成果をみて落着いたとき、青年団、婦人会が相次いで団体を解散してしまった。どんな理由からだったのかよく知らないけれど、途方にくれたのはひとり盲人会であった。急に外の暗闇にほうり出され、わたしたちは、その暗闇をそろそろと手探りで、道を求め始めたのであった。そんなとき、自治会から、会を維持するための世話係2名を専属で付けてもらえることになった。このことが盲人会を大きく飛躍させ、今日をあらしめるきっかけとなったのである。
この胎動の中で28年は暮れ、何もかも新たに昭和29年を迎えたのであった。最初の世話係として岸輝次さん、脇林潔さんが来てくださった。世話係も大変なら、正、副会長も、また幹事も大変だった。何もかも初めてのことばかりの上に、会合を聞くにしても一般集会所や寮の空室を転々としなければならなかった。そうした中で、会員の要望や意見を聞きながら、機関誌の発行をはじめ、事業計画を立てていった。内からの熱い思いに衝き動かされて突っ走るわたしたちを、周囲の人々はなかばあきれて見ていたのではないだろうか。その機関誌第1号が29年6月に発行され、表紙も目次もない、新聞を析りたたんだだけのようなものであったが、16ページの内容は、当時としてはなかなか気合のはいったもので、いま聴きかえしてみても、その当時の感激が伝わってくるのを覚える。
機関誌の発行を決めたものの、読み書きのできない盲人である。まず原稿の下書きから人手にかからなければならない。まことに辛抱のいる作業である。それを黙々とやってくださったのが世話係だった。そして、原稿がそろうと、会の仕事をやりくりしながら原紙を切り、印刷、製本、出来あがると各寮舎をまわっての配本である。盲人会世話係の献身的な働きがなかったら、機関誌「灯台」は生れていなかったと思う。当時の会員の情熱もさることながら、それを助け支えて実現に至らせてくださったのは、世話係をはじめとする周囲の晴眼者の暖かいご理解でありご協力であった。
こうして、世に送り出された、「灯台」も、号を重ねるごとに、目次がつけられ、文芸欄、感謝欄なども整って、次第に機関誌らしい体裁を持つようになった。しかし、3年目にはいったころから、原紙切りのできる手のよい世話係を得ることが困難になってきた。会では、世話係の作業から原紙切りをはずして、適任者に依頼してもらいたい旨を、自治会に要望した。自治会でいろいろ手をつくしていただいたけれども、なかなか人が得られず、「灯台」の継続に影がさしはしめた。そんなときであった。「青松」編集部の斉木さんの方から、いっそ「灯台」も活版印刷にしては………というアドバイスを受けた。願ってもないことだが、それにはまた、経費の問題やら、編集、校正といった専門的な技術も必要になってくる。わたしたち盲人会だけではどうにもならない。だが、「灯台」をこれからも続けて発行して行こうとすれば活版印刷にするほかない、という結論に至った。まず自治会に話して、印刷費の援助をお願いした。幸い、心ある人の口添えもあって、印刷費は「青松会」でみてくださることになり、編集の面倒は、「青松」編集部の斉木さんが万事やってくださることになった。そして、表紙も誌名にちなんだ灯台の絵が印刷され、20ページの小冊子であるが、読み易くすっきりした装いで、「灯台」18号が33年8月に出版されたのであった。これを機に、園内から外部へ、一般社会へと飛躍していったのである。
「灯台」にはそのときどきの園内の動きや会活動、全盲連を組織してからの運動など、また人間としての悲しみや喜びもそれぞれ個性的なタッチで綴られている。すでに世にない人も多く、その面影がなつかしく心に甦ってくる。
29年6月に第1号を発刊してから17年、70号を数えるに至っているが、すんなりここまできたのではなかった。何度かつまずき、「灯台」廃刊の声や、「青松」に合併云々の声も、内に外に起こった。しかしその度に、「灯台」を愛してやまない人々の手で何とか守られてきた。守りきれなかったのは、年4回発行していたのを、今年は3回、来年には2回に減らさなければならなくなったことである。その理由としては、すべての作業が半日制になったため、世話係も2時間30分の作業時間内で会の事務やグループ活動の世話、「灯台」の原稿作りなど処理するとなれば、年2回の発行はやむを得ぬことで、時代の趨勢というほかはない。
この度、創刊第1号を読みかえしてみて思わせられたことは、機関誌の持つ役割は、ハンセン病盲人のわたしたちが、今何を考え、どう生きているかをそれぞれが書きとめ、一冊の文集としてゆく、そのことに意義があるのではないだろうか。わたしたちのかかげ合う小さなともしびが集まって、大きな輪の光りとなり、灯台となって、もし周囲までも明るくすることができたら、機関誌発行のささやかな夢は実ったと言えるのではないだろうか。これからも力を合わせて、一号一号の「灯台」を創り出してゆきたいものと願っている。
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