わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第4章 飛 躍(昭和43~50年)

 35 会活動と交流
            島 田   茂

 私が入園したのは昭和26年9月で、義務的な作業と悪化する病状とたたかったあげく失明し、盲人会に入会させてもらったのが38年6月であった。しかし私が失明した頃には、重不自由者センターが整備され、職員看護に切替えられていたので、患者による看護の味は知らない。だが、元気で私が重不自由寮看護にあたっていた当時24畳の雑居部屋で盲人達は柱や押人れの前に坐っていたが、寡黙なあの顔は何を考え、何を悩んでいたのであろうか。笑い声など聞いたことがなく、忍従の姿そのものであった。時代の推移とはいえ、現在の盲人は生活面や経済面でも恵まれた環境におかれているせいか、実に明るくなっている。
 まず外部の方達との交流であるが、36年より奈良女子大点訳クラブのみなさんが訪問されている。毎年5月の連休を利用して2泊3日の日程で、5、6名から10名ほどの方々を迎え、園内見学の後、盲人会館において夜間に至るまで膝を交えて懇談したり、山遊びや潮干狩などしている。また毎年8月の夜、西海岸の松林を舞台にくりひろげられている「いもづる祭り」の前身である「いもづる会」の学生さん達が、はるばる関西方面から来て下さり、ワークのひまに盲人会館で懇談をもち笑いのうずに巻きこんでくれた。
 42年には高松盲学校の生徒さんが30名の大勢で来られ、会館の広間いっぱいにスクェアダンスをしたり、グランドでは盲人野球を披露してくれた。同じ高松より盲人を主にした川柳「さくらんぼ会」の一行が、44年から6月25日の「らいを正しく理解する集い」にちなんで来園され、「ひさご川柳」、「灯台川柳」との合同句会を開き、山本芳伸先生、中西三智子先生より入選句が読み上げられる度に、拍手と歓声が上った。その中には県視協の靭会長、後藤館長、丹羽石見氏、海面雅生氏も同行されており交わりを深めている。
 なお、現在松山に住んでおられる森紫苑荘先生と灯台川柳。の交わりは、私が盲人会に入会し、川柳をはじめる以前からで、灯台誌を読まれた先生は親身になって、私達の拙ない作品の感想を、こまごまとテープに収め送ってこられている。
 また30年頃より、声の便りで会員一人一人に優しい言葉をかけて下さっていた広島の石田静枝さんが、点字図書室設立にもお骨折りいただき、落成をみることが出来た。その点字図書室に39年暮、石田さんをはじめてお迎えしたのもついこの間のことのように思う。
 同じ39年4月には、いま京都に在住の随筆家・岡部伊都子さんも数名の方と共に来島され、親しく懇談のひとときをもつことが出来た。それに和田昭十九さんを代表とする大阪の日赤奉仕団の皆さんも度々訪問されている。
 44年5月には、鹿児島の知覧で開かれた点訳奉仕者の大会で講演された帰途、日本点字図書館長の本間一夫先生外2名の方がはじめて来園され、盲人福祉の問題、日点の活動状況、諸外国の盲人対策、テープライブラリーの現状等について懇談のときをもっている。そして大阪の「念ずれば花ひらく会」会長の北野資子さんが水野冨美子さんと共にお訪ね下さったのは、会創立43周年記念日の50年5月27日であった。北野さんはとても愉快な半面歯に衣を着せず率直にものを言われる方で、最後に当園を訪問されたのは、開所70周年に当る54年11月10日である。記念式のアトラクションで同行された花柳瞠宗夫妻の日本舞踊のあと、舞台から静かな声で、「みなさんも『ありがとう』と一緒に言って下さい」と呼びかけられ、それに応えて一同が「ありがとう」と感謝を表した日の雰囲気は、今なお熱く灼きついている。北野さんはすぐれない体調をおして来られ、ひどい雨の桟橋で見送る私たちの手をかたく握り、「啓蒙はあちらから来るのを待つだけでは駄目ですよ、あなたたちもどんどん出て行って下さいね」と励ましてくれた。それから3日後にあっけなく急逝されたのであった。
 島を離れてのレクリェーションには、「大島丸」や「せいしょう」による近海の船遊びが行なわれていたが、44年に藤楓協会の援助で購入された大型バス「やしま号」によって、盲人会のバスレクが五色台の根香寺、白峰寺のコースで実施された。それまで会員の多くは島から出ることもなかったが、気軽に社会の空気にふれることができるようになったのは喜こびであった。この第1回のバスレクには、職員や個人の附添いを含めて参加者は35名を数えている。当初は年1回であったが、48年からは春秋2回実施してもらえるようになった。初めは弁当を開くにも人目のないところを選び、トイレも公衆便所などなるべく遠慮していた。それが現在ではコースも観光地や人出の多い神社仏閣などへ行くようになり、時には食堂にもはいり、うどんやビールでくつろぐなど、隔世の感を深くさせられる。
 また、10月10日の目の愛護デーに因んで自治会主催の盲人慰安会が、47年から視覚障害一級者を対象に行なわれるようになったが、49年からは視覚障害二級者も加えられることになった。その席には自治会関係者や園の幹部職員とテーブルを囲み、用意された折詰を開き、飲み物も出てなごやかなひとときをすごしている。かつては盲人会といえば、うるさい存在としてみられていたが、いつしか理解も深まり、自治会と共に療養生活の改善が計られている。
 そして自治会の後援によって、49年11月26日には西海岸の桟橋において盲人釣大会が催された。会員の参加者は25名で、釣り上げた魚は、グレ、メバル、サバなど大小合せて114尾である。この釣大会には自治会の役職員、看護学校生徒、福祉室の方々が餌をつけてくれるなどの介助をして下さり、黄色い歓声もいりまじり、ほほ笑ましい光景が展開された。
 このほかに会の行事を拾ってみると、役員による病棟入室会員の訪問がある。はじめは毎月行なわれていたのを、病棟の建て替えや訪問時間の制限などで、47年からは年4回の訪問となって現在に至っている。
 運座会も毎年正月に催されているが、5分以内の即席で冠句や折り句などを作り、互選によって賞品のはがきが出されている。私たちの頭の体操としてはこの上ないものの一つである。会員親睦会も年3回行ない、どんかんゲームや早口言葉、紅白尻とり歌合戦など趣向をこらしたひとときを過したものである。47年3月3日には女性有志によってひな祭りの集いがもたれ、49年からは会の行事として、ひな節句、たなばた祭り、月見の親睦会が行なわれるようになった。そのときには世話係の手によって作られたうどんや冷しそうめん、だんごなどのほか飲み物も用意されており、楽しい雰囲気になっている。それに毎年5月27日の会創立記念日には、記念式の外に親睦会、運座会、文芸募集、福引大会なども行なわれている。
 また4月には、名物のつつじが咲く頃、山遊びが実施されている。あまり屋外に出る機会のない会員も、看護婦さんや看護学校の生徒さんが一人に一人附添ってくれるので、新緑の甘い空気を吸い、ジュースで喉をうるおし、歌もとび出すなど心の洗濯をしている。
 ハーモニカによる「オリーブバンド」が結成されたのは32年で、音楽に詳しい晴眼者の指導を受けて、会の創立記念行事や文化祭行事を飾り、民謡と共に発表会を行なっていた。そして会創立43周年記念日の5月27日大島会館における発表会で、歌手として職員も加わり、北野資子さん、水野冨美子さんも歌や舞踊で演奏会に色を添えて下さった。
 42年10月より、瀬戸内三園盲人親善交歓会が三園もち廻りによって毎年行なってきた。47年4月25、6日に長島で開かれた際、私も参加したが濃霧で帰れなくなり、体に変調を来たした私は、とうとう愛生園の病棟に入室するという事態になり、そのとき受けた友情は忘れることが出来ない。
 ここで特筆しておきたいことは、42年6月26日より2泊3日の日程で、壷阪寺へ里帰りとして招待されたことである。それまで私たち盲人が泊りがけの旅行することなど考えられなかったが、常盤住職の理解と愛情によって実現したものである。奈良交通の古賀ガイドさんのゆき届いた案内によって、法隆寺、橿原神宮、唐招提寺、薬師寺、法華寺、東大寺など千古の歴史をまのあたりにする思いであった。奈良公園の鹿の群にとり囲まれて撮してもらった写真も、私のアルバムに収まっている。その後43年、45年、49年には11月に招待をされている。
 この49年の里帰りに行なわれた懇親会の席上、地元名士の小林芳信先生を会長とする奈良真和合の方々がおられた。真和会のみなさんはすでに長島盲人会を訪問されており、同じ瀬戸内の大島にもという話から、50年1月19日強風の中を一行15名でおこしになり、これを機に長島、邑久、大島と3ヵ月毎に訪問されることになった。
なお壷阪寺里帰りのおり、お招きを受けお世話になった法華寺の久我御門跡が、44年6月私達の島を訪ねられ、老松の蔭で親しくお目にかかり懇談のときに恵まれた。
 以上、全活動や交流についてピックアップしてみたが、まだ書き落としていることは多い。会員の老齢化は不自由度と共に急速に進んでいるのが現状で、その対応には健康管理は勿論、精神的若返りをはかる必要があろう。盲人会館をホームグランドとして大いに語り、大いに歌って、お互いの苦労や悩みを解消し、いつもゆとりをもつことが肝要である。
 私達は常に発想の転換をはかり、生き甲斐を見い出し、明日に光りを求めて、豊かな盲人生活を築き上げるべく努力したいものである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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