第1部 光を求めて
第5章 明日へ向かって(昭和51~57年)
37 全盲連本部を担当して 北 島 澄 夫
盲人会館の一隅にある点宇図書館の窓に、「全盲連事務局」の標札を掲げ、大島本部が発足したのは昭和51年4月1日であった。以来、試行錯誤をくり返しながら、本部運営の任に当ってきたが、幸いそれほど大きなつまずきもなく、昭和53年3月31日をもって、無事2か年間の任期を終了することができたのである。
この本部担当にあたって私たちが最も危惧した点は、盲人会自体の能力不足に加えて、大島が中央より遠く離れた島しょ療養所であるため、運動の基礎となる情報収集や行動に制約を受けること、入園者の老齢化と健康の低下に伴い、作業従事者も年々滅少している状況の中で、長期勤務を強いられる本部書記の雇用は決して容易ではないこと、歴代本部のように、有力な窓口議員の得られる見通しもなく、果して本部としての責任を全うし得るだろうか、という不安であった。
だが、幸い自治会をはじめ、園当局、全患協本部、多磨盲人会、そして全盲連各支部の全面的な協力と支援もあり、また窓口議員には地元選出の参議院議員前川旦先生のご理解をいただくことができ、当初見通しのくらかった書記2名の雇用も何とか実現し、予定通りスタートを切ることができたのである。
私たちが本部を担当した2か年をふり返って見ると、運営が軌道に乗るまでは挫折と模索のくり返しであったり、要求事項を一歩でも前進させようと気負いこんでいたり、さまざまな思い出があるが、やはり今も忘れ得ないのは、本部引継ぎ前に体験した一連の出来事である。
盲人会では次期本部受諾の方針にそって、昭和50年末までに一応の受入れ態勢を整えることになり、各サイドにおける話し合い、関係筋への根まわし、承認を求めるための臨時総会の開催、また本部スタッフは会長・今井種夫、事務局長・北島澄夫、局員・賀川操、吉田美枝子の4名が決定、決意も新たに51年の新春を迎えたのであった。
処が、1月15日いつもお越し頂いている奈良の小林芳信先生はじめ真和合の皆様を迎え、盲人会館において懇親会を開き、昼の船便で帰途につかれる一行を見送ったそのあと、会員の多くが流感にかかり、ばたばたと倒れてしまったのである。いわゆる、50年末から51年初めにかけて全国的に猛威をふるった悪性のインフルエンザ「Aビクトリア45」が、園内にも急激に広がり始めたのであった。幸い当園では、医局の先生と看護婦が全力をあげて診療に当って下さった結果、死亡者は出なかったが、深刻な医師不足に悩む長島愛生園や楽生楽泉園では多くの死亡者が出たほどである。
さて、盲人会にとって困った問題は、1月19日に予定している期末の定例総会をどうするかということであった。既に50年度の事業経過報告書、決算書など関係書類も揃え、茶菓も発注し、すべての手配も終わっていた。従って、できれば何とか開催にもってゆきたかったが、会員の大半が臥せっていて、止むなく延期せざるを得なかった。
この頃から今井さんと私の間で、テープによる連絡が始まったのである。二人は相前後して熱発し、そのまま起き上れなくなってしまっていた。今井さんは次期会長に決定しているほか、規約に基き全盲連会長も兼任することになっており、引継ぎを目前に控えているだけに、この事態を憂慮し、焦ってもいた。話しの内容は、互いの身体の状態、総会を開く時期、役員改選、事務引継ぎの見通しなど、当面する問題について、喘ぎあえぎかすれた声で意見を交わしたものである。こうしたテープ交換が何日続いたであろうか。自治会では新旧役員の事務引継ぎも終り、会長が園内放送で辞任の挨拶をしているのを、床の中で暗澹とした思いで聞いていたことをおぼえている。
既に、鹿児島の星塚本部からは、3月中頃書類や備品を搬出、24日には事務引継ぎのため事務局長と書記が来訪するとの連絡が来ていた。だが、こちらでは書記の選任も終っておらず、事務局の準備も出来ていない。いやそれどころか、50年度会長としての任務もまだ済んでいないのだ。内部だけの問題であれば多少の融通はつくが、全国組織の全盲連となるとそういう訳にはゆかない。困った。大島はこれまでに何度か本部担当の要請を受けたが、その度に色々な理由をあげて断り続けて来たのである。だが、今回受入れを決めた途端に、このような不測の事態に追いこまれ、受諾の回答をしたことが悔まれてならなかった。特に私は、書記の雇用に大きな危機感を持っていた。50年度は中ば頃まで順調な会運営を行なうことができたが、後半になって書記の雇用にゆき詰まり、最後まで定員を埋めることができなかった。このように書記の問題で苦慮してきただけに、本部書記は一段と困難が予想され、早く選任にはいらなければという焦燥感から、次第に不眠に悩むようになっていった。眠るために、しまいには睡眠剤も服用してみたが、あまり効果はなかった。
2月にはいって、あれほど悪性で頑固だった流感も、ようやく峠を越え、回復の兆しがみえてきた。そこで今後の日程なども考慮し、思いきって総会の開催にふみきったのは2月4日であった。当日は季節風が吹きあれ、殊の外寒気もきびしかったが、普段を上まわる多数の会員が盲人会館に集ってくれた。着ぶくれている者、咳こむ者、鼻水をすする者、誰も完全に回復している者はいないが、総会を不成立に終らせてはならないとの会員意識から集ってくれたものであり、その団結のかたさに改めて心強いものを感ずると共に、胸が熱くなるのを覚えた。
このように、50年度は期末総会も、役員改選も、事務引継ぎも書記の雇用や事務局の準備も予定より大幅に遅れたが、それらをすべて消化し、ようやく3月25日に前本部との事務引継ぎを済ますことができたのである。
大島本部にとって、今も心残りであり、申し訳なく思うことは、任期中一度も厚生省や国会へ陳情に出かけることができず、すべて多磨盲人会に代行してもらったことである。このことに対し、多磨の会員の中には多少の不満の向きもあったと聞いている。もっともな会員感情だと思う。私たちとしても、決して陳情を軽視していたわけではない。予算獲得の効果的な手段は、今のところ陳情以外に見当らないこともよく承知している。毎年、復活折衝には各団体がいっせいに大蔵省や国会議員のもとに押しかけ、陳情合戦をくりひろげるのもそのためである。全盲連が長年要求し続けてきた盲人教養文化費や盲導索設備費等を予算化させたのも、全盲連として初めて直接陳情を行なったことがその成果につながった、と今も信じて疑わない。
このように、陳情の効果を高く評価しながら、大島が遠隔地であることや、本部員の健康状態からおして到底陳情は困難であると判断し、本部受入れの条件の中に、「大島の担当期間中、原則として厚生省など関係筋への直接陳情は行なわない。但し、必要に応じて検討する」という一項を加えたのである。だが、現実に本部を担当し問題と取り組んでみると、文書活動だけでは余リにも迫力に乏しく、手応えも感じられないところから、多磨盲人会に依頼し、本部に代って陳情を行なってもらうことにしたのである。
こうした、組織をあげての努力にもかかわらず、大島が本部を担当した2か年間の予算状勢はまことに厳しく、期待したほどの成果をおさめることができなかった。政府は52年度から深刻な不況打開のため、公共事業優先の景気刺激策を打ち出すとともに、財政負担の大きい社会保障関係費や、その他については見直しが行なわれ、療養者、老人、低所得者層などの弱者は、低福祉の重圧に苦しまなければならなくなった。
ハンセン病関係予算も決して例外ではあり得ず、52年度の盲人教養文化費は8・4パ-セント、53年度は6・9パ-セントの低い伸び率に抑えられてしまった。ただその中で、52年度から第三次盲導施設整備計画が新規に認められたこと。視力障害者用受信機を10人に1台から6人に1台、そして4人に1台の貸与とし、1人1台の線に今一歩の所まで近づけたこと。51年度だけの短年度予算に終るのではないかと気づかっていた障害者用食器購入費を、52年度、更に53年度も引き続き継続させたことなどが、せめてもの成果といえよう。
さて、全盲連の陳情が、今までの同行から単独に変ったことは結果的によかったと思う。従来は、全患協中央交渉団と行動を共にし、一週間以上も各課交渉を重ねる中で、全盲連代表にも10分か15分程度の発言時間が割り当てられ、関係項目について陳情を行なうという形がとられていた。そのため、全盲連代表の肉体的、精神的負担は大変なものがあった。処が、50年度から全患協の本部機構が改正され、中央交渉はすべて本部段階で行ない、各自治会代表は必要に応じての参加となり、任意団体の同行も認められなくなった。それによって全盲連は独自で全患協本部員と共に陳情を実施することになったが、この方が時間も長くとれ、厚生省の態度も好意的だという。数年前には全く考えられなかったことだが、ここに至るまでには、全盲連の根強い運動のあったことは言うまでもない。
大島本部から陳情にこそ出かけられなかったが、電話電報その他による要請活動を積極的に行なってきた。もちろん、こうした取組みのできたのも、会費を大幅に引きあげ、ある程度財政的ゆとりがあったからである。本部に求められることは、すぐれた指導力と的確な情勢判断と、そして機動性を持つことであるが、これまでは何かやろうとするたびに、臨時会費を徴収しなければならず、またいちいち財布の底をのぞきながら、電話や電報を打つといった状態では、思いきった運動も、本部としての機能も十分発揮できない。
歴代の本部もそのことはよく分っていたと思うが、年金だけでこの物価高に対処し、盲人会や全盲連の会費まで負担しなければならぬ会員の苦しい経済状態を知っているだけに、なかなか増額にふみきれなかったのであろう。しかし、51年から切手、はがき、電報、電話、交通費など、いわゆる、公共料金が大幅に値上りしたことや、園内作業賃金の改正に伴う書記手当のアップもあって、どうしても会費の増額をはからなければならなくなり、今後のことをも考慮にいれて倍額の引き上げを提案した訳である。
また、全盲連の「略電符号」を改正するに至った経過についてもふれておきたい。全盲連においても、予算編成期と復活折衝には代表を送り、ハンセン病盲人関係予算の改善について、各方面に陳情を続けているが、そうした統一行動を行なう際の連絡方法として、略電を定め、十年余り使用してきた。ところが、全盲連の略電は、「キフカ………」(盲人教養文化費…………)、「キモテ…………」(盲人手当…………)、「コレ…………」(療善所課長…………)といった、かな文字ばかりを組み合わせた複雑な符号であったため、取扱いの途中で間違いが起こり易く、現状にあわなくなった用語もかなり見受けられるので、この際、全患協と同一のものに改正し、復活行動開始前の昭和51年12月より使用することにした訳である。改正した略電は、「モ一…………」(盲人教養文化費…………)、「モ三…………」(盲人手当…………)、「コ○四…………」(療養所課長………)というように、かな文字と数字を組み合わせた簡単なもので、電文をつづる場合少ない字数ですみ、全患協との連絡にも使えるという利点がある。
次に、本部担当中に手がけた運動の成果として、藤楓協会テープライブラリーのカセット化があげられる。この問題を初めて議題にとりあげたのは、本部が発足して間もなく聞かれた第13回瀬戸内三園盲人協議会の席上である。その後、書面会議にはかり、各支部の承認を得て、藤楓協会・聖成理事長あてに要請書を提出したのは、51年9月10日であった。
藤楓協会からは、各盲人会に対し、毎年相当数のオープン・テープ図書が寄贈され、私たちはこれによって教養を高め、文化を吸収し、娯楽を楽しむなど、単調になりがちな療養生活に潤いが与えられているのである。ただ、このオープン・テープの場合、手指に重度の障害をもつ私たちには、簡単に操作ができず、いちいち人の手を借りなければならないことである。ところが、こうした悩みを解消するものとして出現したのが、カセット・コーダーであり、テープである。大島にも47年頃からぼつぼつ入りはじめていたカセットは、どんなに不自由な者でも、ちょっと補助具を取り付けるだけで操作が可能なことや、オープンのテープ・レコーダーが次第に品薄になってきたという背景もあって、俄かにカセットヘの関心が高まってきた。
そこで、聖成理事長に対し、次の点を説明すると共に、カセット化について格別の配慮を要請したのである。
1、読書は私たちの生き甲斐であり、会員ひとしく「テープ図書」のカセット化を渇望していること。
2、カセットであれば自分で操作ができ、いつでも自由に「テープ図書」を聴取できること。
3、メーカーもカセットに重点をおき、オープンは段だん手に入りにくくなっている上、価格も非常に値上りしていること。
4、カセットは機種も豊富で、価格も手ごろなこと。
5、カセットは場所もとらず管理保管が容易なこと。
6、問題点としては、テープがやや耐久性に欠け、トラブルが起こり易いといわれているが、年々改良されつつあること。
以上の要請に対し、聖成理事長から、「全盲連各支部が賛成であるなら、カセットに切替える」との回答を得ることができたのである。
本部では早速、カセット化に時期尚早であるとして難色を示していた4支部に対し、同調を求めた上、各支部から録音希望図書をつのり、148冊の「図書目録」を作成し、藤楓協会に提出したのである。藤楓協会のカセット切替え時期は、メーカーに発注している大型のカセット高速プリンターが完成する、昭和52年5月と予定されていたが、製造がおくれて12月からとなった。カセット・テープ図書の第1号は、注井すえ著“橋のない川”であった。また長年、テープ図書の製作に尽力されている春日たけ子様のあることも忘れてはならない。
今一つの朗報は、日本点字図書館(日点)のテープ・ライブラリーを、私たちも利用できる道が開かれようとしていることである。日点のテープ図書は、全盲連各支部の強い要望にもかかわらず、一般盲人の偏見もあり、ハンセン病盲人には開放されていなかった。たまたま昨年の4月に、日点の本間館長が、香川県視覚障害者福祉協会の総会に出席のため、高松に来られた際、大島に2度目の来訪を頂いた。その懇談会の席上、本部の立場から、「日点のテープ図書を、私たちハンセン病盲人も自由に利用できるよう、是非門戸を開いてもらいたい」と、率直に要請した。これに対し本間館長から、「前向きに検討したいので、しばらく時間を貸してほしい」との回答があった。早速、この内容を支部報をもって各支部に報告したところ、それを聞いたある支部の会員が、諒解済みと思い、日点にテープ図書の借用方を申し出た。すると、何の抵抗もなく貸し出しが受けられ、その後利用者もふえているということである。日点から公式の連絡はまだ受けていないが、先の事実は開放を意味したものと考えている。
現在全盲連本部は東北新生園盲人会に移され、運動方針にそって全支部一丸となりねばり強い歩みを続けている。
全盲連の重点要求項目は、
一、盲人教養文化費の大幅増額
一、盲導素設備費の大幅増額と計画延長
一、看護要員の増員及び病体代替要員の予算化
一、国民年金(拠出制障害年金、障害福祉年金)に特別級新設
一、失明重複障害加算金の制度化
以上の5項目であるが、壁は厚く、目的達成には長い時間とたゆまぬ運動が必要である。
思えば、全盲連は、らい予防法改正闘争を契機として、昭和30年5月に結成されてより、かたい団結のもとに幾多の重要問題と取り組み、盲人の福祉に大きな役割を果してきた。なかでも、障害福祉年金の獲得、不自由者看護職員切替えへの働きは、「全患協運動史」にもみられる通り、ハンセン病療養所に一つの転機をもたらしたものとして、高く評価されている。
このように、注目を浴びた全盲連の活動も、会員の老齢化と不自由度の進行、書記の雇用難などによって前途をはばまれつつあり、本部の将来を深刻に考えないわけにはゆかない。全盲連規約には、「本部は三年以内の交替制とする」と規定されているが、会員数の少ない盲人会ほど、部担当はおろか支部としての活動もますますむつかしくなってきている。これまでの本部移管は、幾度か危機に直面しながらも、なんとか切り技けてこられたが、このままでは近い将来最悪の事態に追いこまれる恐れかおり、各支部は、本部のあり方や組織強化について真剣に考え、対策をたてねばならぬ重要な段階を迎えていると思うのである。
私はかって機関誌“灯台“に、本部の専従制について書いたことがあるが、それは、膨大な書類や備品をかかえ、2、3年おきにてんてんと移勤しなければならぬ本部を、なんとか中央に定着させ、安定した活動を行ないたいという考えからであった。中央に本部があれば、運動に必要な情報の入手も、全患協本部との連絡も容易になり、厚生省、大蔵省その他関係者に対する陳情や、要請活動も少ない経費で迅速に行なうことができる。
もし、中央の盲人会が万難を排して本部を担当してくれることになれば、全盲連組織にとってこれほど大きなプラスはない。だが、それにはまず業務の簡素化、本部員の処遇改善が必要であり、もちろん各支部においても、指示された運勣には積極的にとり組むこと、本部への報告書、回答書などは必ず決められた期日までに提出し、事務処理に支障をきたさぬよう努めること、このほかにも色いろなことがあろう。
今後、私たちの権利を守り、福祉の増進をほかっていくには、なんとしても中央に本部を定着させることが先決であり、各支部は英知を集め、この問題に対処すべきであると考えるものである。
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