わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第5章 明日へ向かって(昭和51~57年)

 36 これからの盲人会活動
            吉 田 美枝子

 昨年のこと、香川県視覚障害者福祉センターから送られてくる〈声のセンター便り〉を聴いていたときであった。その中に。老人六歌仙〃というのがあり私の耳をひいた。

 ○皺が寄る 黒子ができる 腰曲る 頭が呆ける 髭白くなる 
 ○手が震う 足はよろめく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目は薄くなる
 ○身に添うは 頭巾 襟巻 杖 めがね たんぽ 疝癪 洩瓶 孫の手
 〇聞きたがる 死にともながる 寂しがる 出しゃばりたがる 世話やきたがる
 ○くどくなる 気が短くなる 愚痴になる 心がひがむ 欲深くなる
 ○またしても 同じ話だ子を褒める 達者自慢に 人が嫌がる
 といった歌六首で、いずれも老醜をあからさまに示したものであった。初めはうまく言い当てているものだと、おかしさをこらえながら聞いていたが、そのうちにふと、これは笑いごとではないと気づき、思わずテープを停めて考えてしまった。
 近年ハンセン病療養所の老齢化が問題となり、その対策が年毎に大きく叫ばれるようになってきた。厚生省においてもこの問題を重くみて、先頃決定をみた昭和52年度ハンセン病関係予算には、新しく《成人病対策費》、《老人クラブ費》などが少額ながら予算化された。運動の成果とも言えるが、こうした予算の認められたことは、あたかもハンセン病療養所が今後辿るべき道を示唆されたようで何とも言えぬ複雑な思いにさせられた。しかし、老齢化の波は現実に私たちの足もとを洗っており、この問題を抜きにしては何事も考えられなくなってきている。その一つが私たちの盲人会活動ではないかと思う。
 現在、大島において全盲連本部を担当してはいるが、直接陳情などの行動はすべて中央の多磨支部に代行の役を果たしてもらっており、多磨支部に半ばを依存しての本部担当であっても、会員60数名の大島では、丈字通り総力を挙げて活動を続けているのが実情で、あと1年余りこのフル回転がつづくわけである。だが私の案じるのは、本部担当の任期を終えたとき、果たして以前のような会活動に戻せるかどうかである。
 既にここ数年、会員のグルーブ活動への意欲はずっと下降線を辿っており、その原因はいろいろあるけれど、ひと言でいえば老齢化による健康の低下であろう。晴眼者と違い、私たちは失明という大きなハンディの上、手足の障害、更に老齢化が加わるのだから深刻である。自杖を持って一人歩きをしていたのができなくなり、部屋に籠るようになると、誘導をしてもらってのグループ活動はだんだん足が遠くなり、逐にはグループを離れてしまうことになる。それがまた他の人たちの意欲を削ぐ結果となり、グループ活動は次第に衰えてきている。会員は60数名いても、常時病棟に入室している人々、不自由者センターにあって部屋から殆ど出られない会員が20名近くあり、誘導がなければ他出できない者を合せると30名以上にもなる、会の行事である総会や親睦会などに参加できるのは30名程度で、グループ活動への参加者となれば本当に限られた人数になってしまう。その限られた者たちで会の役員を構成し、また〈点字〉〈音楽〉〈民謡〉〈羽実短歌〉〈幻台川柳〉などのグループ活動を続けてきている。全海運本部相当という大きな荷をおろしたとき、グループ活動もまた停止してしまいそうな予感をもつのだが…………。
 昭和29年に盲人会が一人歩きを始めたとき、それまで為すこともなく部屋隅でうずくまっていた盲人たちは、鬱屈した思いを一気に噴き上げるように、喜んで一つところに集ってき、そして、さまぎまな語らいの中から生れてきたのが今ある五つのグループであった。また、当時の盲人たちの燃えるような意欲が燎原の火となって、全国組織である「全盲連」の結成まで発展していったのであった。それからの盲人会活動のめざましさは改めていうまでもないが、そのお蔭で私たち盲人の療養生活は大いに恵まれてきたのである。はげしく運動を展開し、要求をかちとるという時期はもはや過ぎつつあるように思う。かって共に集まり、語らいのなかに生甲斐を感じたように、これからの盲人会活動は、お互いの旅路を心ゆたかに歩むにふさわしいものにはできないだろうか。またグループ活動も肩肱を張らない気楽なサークルをみんなで考えてはどうだろうか………。そして何かをする楽しさが得られれば、それはもう最高である。
 現在あるグループもいいが、がらりと変った「お茶の会」、誰かの〝こぼれ番茶〟ではないが、お茶をすすりながらのくつろぎのひとときも良い。また「散歩会」はどうだろう。山頂の大島神社までは盲導鈴も盲導索も設けられたことだし、春めいてくれば随分よいプランだと思うが………。要は一人でも多くの会員が何らかのグループに入って、交わることが大切である。
 ひとり静かに部屋にこもっていたいと思う人もあろう。私自身の中にも、誰にもわずらわされず、何もしないでいたいという気持はある。しかし、盲人のお年寄りがラジオもテレビも聴かず、一日中寝転んだり坐ったりしている様子に接すると、これではあまりにも寂しすぎる。せめて耳が聞こえて体の動かせるうちに、友情の絆をしっかりと結び合っておかなければと思う。その役割を果たすのは、現在盲人会にあって会の運営に当っている者、また活動に参加している私たちではないか。その時期に今さしかかっている。5月27日が来れば会創立45周年である。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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