わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第5章 明日へ向かって(昭和51~57年)

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再建された盲人福祉会館            今 井 種 夫

 わが大島の玄関でもある西海岸の棧橋にほど近い位置に、昭和56年10月、再建された私たちの盲人福祉会館が、白砂青松に映えて瀟洒な姿を見せている。
 この会館は施設の若松技官の設計になる、建坪34・5坪の鉄筋ブロック建築である。玄関の表札は、庵治町の三好治様寄贈のもので、細目の庵治石を用い、「盲人福祉会館」と文字も鮮やかに彫りこまれている。内部の間取りは、玄関を入ると南に向って一間幅の廊下をはさんで、左に6畳の図書寮、キッチン、右に8畳の事務室、トイレットがあり、その奥の広問27畳は、襖で仕切るようになっている。
 この総工費は1650万円で、その内訳は、藤楓協会の斡旋による日本船舶振興会補助金890万円、自治会の建設負担金760万円であり、当初盲人会も建設費の一部163万8千円を負担することになっていたのであるが、関係者のご理解とご努力により、建設費も思ったより安く契約でき、全くその必要がなくなった。しかし、会館が落成すれば各室のカーテン、敷物、テーブルその他必要な備品を整えなければならず、祝賀行事費もかなり必要となることから、総会の決定に従って、会員1人当り1万5千円の拠金を求めたのであった。幸い会員はもとより、内外の有志の方々より進んで心あたたまる建設基金が寄せられ、9月20日までに217万2千円の多額にのばった。また自治会よりは建設負担金の外、備品調達費として40万円をいただき、感激ひとしおなものがある。会ではこの建設基金にご協力をいただいた方々の芳名簿を作成し、感謝をこめて長く記念することにしている。
 思えば53年2月、自治会曽我野会長をはじめ各執行委員との懇談の席において、老朽化の著しい旧会館の修理及び保安度の点検について要請した。自治会ではこのことを正面から受けとめていただき、代議員会においても部分的な補修ではなく、この際思い切って更新すべきだとの決定がなされ、藤楓協会理事長の聖成稔先生をはじめ、大村田鶴子様の格別なるご尽力を仰ぐことになったのである。その後事情によって2年間遅れたものの、今期自治会会長として就任された曽我野一美氏が、率先して建設への労をとって頂くことになったわけであるが、たまたま旧会館建設のときも曽我野会長であり、偶然とはいえ、私とのかかわり合いのふかさを覚えるのである。
 会館の完工は9月末となっていて、1日1日ブロックが積み重ねられ、屋根が作られてゆく過程に夢をふくらませながら、落成の日を持ってきた。今年は国際障害者年であり、恰もそれにふさわしく、私たちには盲人福祉会館が与えられた。多くの人々の善意の結晶ともいうべきこの会館を如何に管理し、活用してゆくかは会員。1人1人の今後の課題でもある。
 これまで私たちの目となり手足となって全活動を維持し、支えてくれていた軽症者の世話係も次第に不自由度を加え、最近では定員4名の確保が困難になってきた。かかる事情もあって、まず職員世話係を1名配属してもらうよう今春要請していたところ、関係者のご配慮によって、56年7月1日付を以って男子職員1名、10月1日付で女子職員1名が配属された。だがこの職員の業務として、1名は毎週火曜、木曜の午後と土曜の午前は、一般の代書作業を兼務することになっており、変則的ではあるがその他の日は毎日午前8時20分より、昼食時間を除いて午後5時までの勤務となっている。こうしたことも患者作業を順次職員に返還してゆく時代の流れであり、盲人会の一つの転機でもある。
 そこでこれからの会館の管理運用は、職員世話係を主として、午前中はテープ図書の貸出し、閲覧テープのコピー、通信物の処理、個人の代書援助などの業務を行ない、午後は会の行事、会合をはじめ各グループ活動、また来客との懇談交流などにあて、常時会館を活用してゆきたいものである。更にこの外社会への架け橋として機関詰「灯台」の発行、全国ハンセン病盲人連合協議会及び香川県視覚障実者福祉協会の支部として、この会館の果たす役割はまことに大なるものがある。
 “老境は待たずしてやってくる”。私たちはそれを超えて、絶えず会館に杖を運び、趣味を生かし共に語り合うなど、今日を励むことは、会館を与えて下さった皆様に報いる道でもある。最近はカラオケが盛んになり、停滞がちであったグループ活動にも新たな息吹きがもたらされ、殊に訪問者との交流や親睦会の集いなどに、マイクをとって自慢の喉を披露するとき、まだまだ力強い活力を感じることができる。
 新装成った盲人福祉会館広間には、京都の山田無文先生揮毫による、「把手兵相和」の額も掲げられている。あらためていうまでもなく、会館は私たちの活動の基盤であり、心のオアシスとして明日への希望を求め、ひたすら生命の炎をもやし続けてゆきたいものである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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