わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第1部 光を求めて

 第5章 明日へ向かって(昭和51~57年)

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会創立50周年にあたって            南 部   剛

 私たちの盲人会が「杖の友会」の名称で昭和7年5月27日発足して以来、早くも半世紀の歳月が過ぎ、会創立50周年を迎えるに至ったのである。
 私は早くもと言ったが、それは療養所の過去を知らないから言える言葉であって、当時の貧弱な医療や生活処遇を体験した人たちにとっては、それは長い苛酷ないばらの道であったに違いない。しかも失明の上にいくつもの障害をもち、孤独と不安の闇の中からたちあがり、互いに慰め励まし合ってゆこうと会を組織したのであった。
 私が入園したのは昭和27年11月で、根も葉もない世問の噂を信じ、暗いイメージをもって来てみると、園内の雰囲気は明るく、人々はなごやかに生活しているのに驚いた。すでに失明していた私は早速盲人会に入会させてもらったが、そこでも全活動やグループ活動にかける会員の熱意は、眠っていた私の心をゆり覚ましてくれたのであった。そして盲人同士のあたたかい交わりの中で、あっという間に歳月が流れていたのである。また生活様式の面でも、21畳の雑居部屋から、39年1月には、私も職員看護の第1センター独身重不自由寮に入居させてもらうことができた。そして49年には4畳半の個室となり、誰にも気兼ねなく毎日が送れるようになった。さらに盲人教養文化費によるトランジスタラジオの支給、拠出制障害年金への移行、外出の自由など目まぐるしい発展をみたのは、長年にわたる先輩たちの運動の積み重ねによるものであり、改めて50年の歴史の重みをかみしめるものである。
 最近、会の重要な問題の1つとして会員の老齢化がある。肉体的な衰えにより自室にこもりがちな傾向がみられ、今後連帯性をどのように密にしてゆくか、その方策が問われている。それには新しい盲人福祉会館に1人でも多くの者が集まり、それぞれの趣味を生かすグループ活動や親睦会、来客を迎えての懇親会などの席で、心のふれ合いを深め、より豊かな年輪を重ねたいものである。かつては雨にぬれながら治療棟に通わなければならなかった悲哀や、戦争当時、「欲しがりません勝つまでは」と「滅私奉公」の声のなかで、物資の欠乏にも耐え、沈黙が唯一の自己を守る手段であった時代を経て、人権闘争にはじまり、視覚障害を補うための必需品を求めて、積極的な運動をつづけて今日に及んでいる。いうまでもなく会の存在は会員個々の集合体であると共に、ひとつの生命体でもある。これからも互いに声をかけ、手をつなぎ、励まし合いながら自らを高め、いのちの火をもやしつづけて行きたいと願っている。
 幸い、昨年から盲人世話係として職員2名の配置を受け、軽症者作業人と共に私達の手足となって支えてくれ、全活動も一段と充実してきている。
 このたび会創立50周年を迎えたのを機に、先輩たちの苦難に満ちたあゆみや会の活動を一冊にまとめ出版することになった。
 これはハンセン病盲人の私達が闇に見い出した光のしずくとして世に贈るものである。





「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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