閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第四章
 諸行無常

 10 腹がへっても戦がつづく(昭和18、19年)

 栄養不足で体力が衰え、多くの者が朝から疲労感を覚え、生欠伸(なまあくび)して動くのをたいぎがった。冬の寒気が身にしみる。重ね着するには着物がなく、囲炉裏によれば木炭が切りつめられて豆炭をくべ、灰をかぶって火が立たなかった。
 かつては希望者が多くて作業数が足りず、気の毒でも順番に休んでもらった。いまは逆である。作業奨励のため、作業入に食べる物を特配、または特売した。昭和18年はその意味で、働く者とはたらけない弱い者との差ができた年である。日本軍がニューギニアのブナで玉砕し、ガダルカナル島から撤退し、独軍はスターリングラードで潰滅し、山本連合艦隊司令長官の戦死したのもこの年である。
 支給品は支給されず、薬や治療材料がなくてもあきらめ、病友は大本営発表の戦果に必勝を信じた。ほしがりません勝つまでは・・・。
 昭和18年1月18日、田中文男博士から30円の寄付金に接し、40円自治会慰安費から足して、1人10銭ずつの加工部製の饅頭(まんじゅう)を配給した。そのうまいこと、うまいこと、みなあまいものに飢えていた。働く者に優遇の意味で、その饅頭10銭の特別購入の便が与えられた(1月28日)。買える者はよろこんだが、買えない者には面白くなかった。久しぶりに大の包布が支給になるという。よろこんで待つと3年以上もらってない、破けて使用できないものに限られた。砂糖が購買部(売店)に入荷し、1人半斤(300㌘) 18銭で売られた。たちまち壇上に起って鬼畜米英撃滅を叫ぶ者まで入れ物をもち、寒風に吹きさらされて長蛇の列。蟻(あり)のあまきにつくが如しである。
 加工部で饅頭が造られている。一般に売るのかと思うと特売で、殖産関係の作業者を主とし、諸団体の役員、世話人に限定された。前回の特売から1ヵ月たつが、買えない者には「またか」である。作業者やその他働く者を確保する自衛手段でやむを得なかったとしても、はたらくに働けない者を寂しがらせた。
 療園が「働かざる者食うべからず」では、自らの存在の否定につながる。ある宗教の坊さんは慰問に来島して説教中「らい患者は米食う虫だ」といい、一人の病友から抗議された。この坊さんはその後、愛生園へ布教に行き脳卒中で倒れて極楽へ行った。一人の病友の抗議は働かざる者食うべからずに対する弱者の抗議であった。
 かねて病室で療養中の三宅官之治氏が亡くなり、協和会葬として病友や職員や多くの者の参列を得て、盛大な告別式が行なわれた(3月13日)。三宅は明治43年(1910)熊本の回春病院(キリスト教の私立病院)から移って来、宗数的にはキリスト教を伝え、そのころから永年患者総代を務め、島の功労者として敬愛されていた。みなその死を惜しんだ。71歳。
 奥村補導部員が辞表を提出した(3月27日)。氏は島内の村人出身で10代のころから勤務し、兵役をおえて帰るとつづけて勤務し、当時34歳であった。官庁勤めで転勤して来た職員とちがい、病友とは子供のころからの友情で結ばれ親しまれていた。一にも二にも患者さんのためといい日ごろの勤務振りは、一部の職員から煙たがられていた。辞職願いとなった直接の原因は、患者の面会人の取扱いについて上司と意見を異にし、患者びいきと取られての圧迫であった。
 伝えきいて病友たちが心配していると翌日告別式があり、参列していた奥村職員が式後、参列者に辞任の挨拶をした。その中の言葉が衝撃を与えた。
 「自分は今日までこの島の土となる覚悟で、みなさんのために尽くして来た。しかし意見を異にする一部職員のため、ついに力尽きて辞職の決心をした。職員中にむじなや狸がいて、みなさんの幸せを奪うかも知れないから、充分警戒して下さい。療養所の予算は陛下の予算で、みなさんのために使用されるべきです。みなさんやみなさんの面会人に差別待遇をする職員がいる。実に同情に堪えません」
 このような意味であった。
 総代は緊急評議員会を開いて協議した結果、奥村氏留任を園長と事務官に常務主任、評議員こぞって懇請する。指摘された園当局の内情はいちおうこの場合、切り離して扱う。以上の決定をみた。ついで協力会を開いていきさつを説明すると、狸やむじなを追い出せと強硬論が出る。午後7時から一同事務官と会い、総代から留任を正式に懇請した。
 「奥村氏の辞任は単なる一職員の辞任でなく、不正派職員の正義派職員排斥である。園長の帰園を待つまでもなく善処されたい」
 事務官は善処を約束した。
 翌日、園長の帰りを待って裁断をあおぐことになったと、奥村職員と事務官の双方から知らせがあった。ちようど役員の改選時で、4月から総代以下全員交替した。ゴタゴタせずにすんで良かった。むろん奥村職員の件は引継がれた。3月末までの前期1ヵ年間の最高在園者数714名、新人園者103名、死亡者78名、軽快退園者27名、逃走者2名、一時帰省者92名、新しく結婚した者20組であった。
 そのご園長から奥村職員について話がなく、しぜんと留任の形になった。新総代はそのことには触れず4月10日、面会人の待遇に関する嘆願書を園長あてに提出した。
 「我等ライ者ノ血族二対スル社会ノ無理解ナル態度ハ随分非道ナルモノ是有り候。コレガ解放ノ道ハ救ライノ本城タル療養所当局ノ御理解卜御同情トニヨル処大ナル事ト信頼仕ル次第ニ候。差当り左ノ件御考慮願ヒ度候。
  一、船上ニテ面会人ノ風雨ニ曝サレザルヨウ取計ラハレタキコト。
  一、面会人ノ布団ソノ他、衛生上常ニ御注意アリタキコト。
  一、面会人ニ食事及ビ湯茶ノ便ヲ与ヘラレタキコト。
    但シ病者ニシテ面会ニ来ル者ハコノ限リニアラズ。
 右嘆願仕候。」
 これで奥村職員の話した通り、面会人に対する取扱いがどのようであったかが分かると思う。

 永年、朝晩の時報や集会の合図に鳴らした汽車のレールが老朽し、かずかずの思い出を残して取換えた。代わりの鐘の購入を奥村補導部員に依頼した(4月26日)。かくて新しく吊り下げたのが、前の自治会事務所東側軒下の鐘である。
 興正寺別院輪番殿他十名の僧侶を迎え「千人供養」があった。開所以来34年にして死者は1000人に達した。青葉若葉の薫る山上の納骨堂前に一同参列し、読経の声の流れる中で焼香がつづいた。
 各室に配給する薪木が無くなった。すでに何回も実状を話して催促してある。5月には必ずはいるというので待った。それが5月になっても音沙汰ない。補淳郎の多田職員に面談すると、小豆島から来るはずが行ってみると無いんだ、と返事にもならない。そんな無責任な話では困る。一般の者が納得するようラジオで放送してくれと、釘を刺して引き下がった。
 ついに薪木は1本も無くなった。補導郎へ行って話すと、いま事務官が購入のため出張中だという。それなら聞きに行くまでもなく、なぜ知らせないのか。気が利かないのか、間が抜けているのか。手取り足取り補導郎の補導で骨の折れることである。応急処置として、千歳果樹園に伐り棄ててある松木を舟で運び、切って割って困っている部屋に配給した。
 火葬人をする者がいない。いやな仕事だがそれまで無理に頼んでやってもらっていた。仕方なく死者と同室の者や、特定室の場合は籍元が火葬にしていた。

注、特定室は不自由な者ばかりだから、各人の籍元となって世話をする普通室が全員につけてあった。た  とえば普通室にいて弱くなって特定室へ移ると、それまでいた普通室が籍元となる。新入園者が不自  由で特定室へ配室になると、普通室一室の了解を得てその者の籍元になってもらう。不幸にして重病  となり付添いが必要になれば籍元から行った。亡くなれば宗教団体との連絡その他一切の世話をした  。普通室は通常数人の籍元になっており、ある者は籍元に挨拶に来たし、ある普通室は籍元になって  いる特定室の者を招いたりした。この籍元制度は身寄りのない者同士の、独特の互助方法であった。

 ところが何分慣れない者が火葬にするのだから、失敗をおそれて薪木を沢山使う。ために薪木の節約と各室からの強い要望で、作業部は火葬人を物色していた。その火葬人がようやくきまった。作業賃は1人15日間1円80銭だが、火葬人は2円を希望した。それで話し合いの末、解剖されると遺体1人に供養費として40銭出るから、それを2人で分けてもらうことで妥結した。
 6月25日は例年通り皇太后様の御誕辰日である。先年いただいた御写真の奉安式が会館であり、同時に永年療養者が表彰された。
   30年以上7名(男2、女5)
   20年以上32名(男19、女13)
   10年以上156名(男105、女51)
 全員に御下賜の鶏の生んだ卵1コと、加工部製造の蒸饅頭2コ(10銭)が支給され、昼食はまぜ寿司となった。
 (注この場合は卵と饅頭を当局がいったん買い上げる形になる)
 その後、薪木は当局の努力で細々ながらはいった。総代以下一番心配したのは、薪木がないと山の木を伐って荒らすことである。これは何としても防ぎたい。炊事場からの三度の食事だけでは堪えられず、畑の物、海の物、何でも煮炊きして腹に入れないと、体の保てない時世である。薪木がなければ山の木を伐りたくなるのが人情である。人間様が死んで松だけ残って何になる、という者さえいた。だからといって大島からみどりの松を奪って何が残る。山野の荒れ果てた戦後に、幸い大島が昔のままの美しい姿で残ったのは、不自由な日常にも屈せず、松だけはという執念にも似た、涙ぐましい自制の結果であった。
 栄養失調で1日3人の死亡が2日もあった。やせ衰えて死の苦痛を感ずる力さえ失っていた。「脂気も水気もないんだなあ。うっかりすると骨まで焼けて灰になる」と、火葬人は深刻な顔をした。
 秋の半ばになり、ようやく松木が3500貫はいった。作業部が割ってくれる者がなくて困っていると、1人が進んで希望し独力で全部挽(ひ)いて割った。謝礼として11円34銭包んで出すと、受取らず全部協和会へ寄付した。真似のできない美しい話である。
 いったん辞職を思い止まったかに見えた奥村補導員は、その後、朝鮮総督府勤務がきまったそうである。病友一同は事情を察し、別れを惜しみつつ壮行会を開いた(11月20日)。「奥村さん、とうとう行ってしまうのか」と、有毒無毒の境界の木柵に近づき涙ぐむ婆さんもいた。嫌われる者、慕われて惜しまれる者。同じように務めて大きな違いであった。かれは最後の別れに協和会詰所を訪ねて永年の友情を謝し、誰にも告げずこっそりと郵便船で島を発った。かれには大島が生れ故郷である。海岸に立って病友から見送られるのは堪えられなかったのだろう。
 「奥村さんがいてくれたらなあ」
 余人に頼めない用事があるたびに、協和会詰所では話に出た。
 漬物も麦もつきて無くなり、おまけに精米機の故障で玄米食の日がつづいた。歯の悪い者は苦労した。ようやく玄麦が400俵入り、故障した精米機も修理されて半麦飯にもどった。1日1人三合三勺である。
 幸い当局の努力で年末になって漬物大根800貫、薪木3000貫、玄麦30俵、その上もち米も12俵入った。もち米は精米所で精白し、連合奉仕団の手で餅つきをした。協和会からは1人46匁(170㌘強)の豚肉に、慰安金の50銭をそえて全員に配給した。692名、餅は1人七合弱であった。炊事場からは量は少ないが例年通りかずのこ、たつくり、煮しめ、素巻きなどいちむうおせち料理がわたり、戦時下の正月を迎えた。
「英語は敵国の言葉だから使えんそうじゃ。ストライクはヨシ一本、アウトはダメだって、野球しても気分が出ん」
 みな久しぶりに腹がくち、面白おかしく笑い合った。

 昭和19年(1944)1月末である。各新聞は新しい治らい薬の発見を大きく報道した。長谷川秀吉博士のセファランチンで、すぐにも治るように書いてあり話題となった。不治と知りつつ万人治りたい。口にするかしないかである。
 「ほんとうだろうか」
 治りたい一心の新患者は、目を輝かせて古い患者にたずねた。
 「分かってるじやないか!」
 何がわかっているのだろう。
 「――ウソにきまってらあ」
 新患者は頭から冷水をぶっかけられた。
 それまでにも何回か、治らい薬は報道された。園内でも何回か、藁(わら)にもすがりたい者が釣られて試みられた。はては菜食療法から無塩療法まで、数えあげたらきりがない。それが全部、よくならずに病気を悪化した。イソップ物語の狼で、たび重なれば腹が立つ。いちおう効くのは大風子だけ。古い患者は新聞の治らい薬など、頭から信用してない。治る薬ができたらコンクリート道を、北から南へ逆立ちして歩いて見せると豪語した。にもかかわらずセファランチンが医局で試用され、ナオランチンの異名をつけられてやまった。
 園長は時局柄、主食が削減されるだろうことを告げ、つづけて鹿児島の星塚敬愛園長林文雄博士が病気のため、園長を辞任して療養かたがた青松園に勤務されることになったと所内放送した(2月25日)。飯の量がまたへるのかと嘆息した。
 「外は二合八勺だから仕方ないよ」
 「外はそうでもほかに何とか、食う物があらあ。ここはそれっ切りだ」
 林文雄博士なら園長としていままでにも、何度か来島されている。愛生園の医務課長時代、世界のらいを訪ねて帰国し、来島して講演された(昭和9年3月17日)。それは10年前だが、覚えている者が多かった。
 3月1日、林文雄博士夫妻が着任された。3日後に守屋医務課長がふたたび召集された。度々の寄付金に接している、愛媛県の三浦幾次氏の厚意を記念し、千歳果樹園の東側に三浦果樹園を開拓していたが、いよいよ完成した(3月31日)。面積30アール。食糧不足の折柄、千歳果樹園に加えて一段と収穫物が増えよう。この日連合艦隊司令長官古賀峯一大将の死が報ぜられた。そのころ一時帰省から帰ってきた者が話した。
 「外は大変だぜ。毎日竹槍でアメリカ兵を突っ殺す訓練をしとる」
 果樹園清遊が始まると、希望者は259名の多数に上った。面白くない毎日にせめて果樹園に行き、頼みの作柄でも見てブラブラしたかった。農作者の集まりがあり、個人間の売買や、やりとりが禁止された。誰もが空腹で一本の大根も欲しい。横流れを防止して全部供出させ、炊事場で使う残りは全員に配給するためである。お世話になったお礼にあげるのも駄目かと、質問する者がいた。そこまできめては窮屈だろうから、常識にまかせるという返事であった。
 いよいよ飯が1日三合、一食一合の半麦飯となった(4月27日)。一合飯は軽く茶碗に2杯である。5月にはアルマイトのドンブリが支給され、各室各人残らず三度の飯が公平に注ぎ分けとなった。
 イタリヤのムッソリーニは昨年失脚して逮捕されたが、米英軍はローマを占領した。サイパン島に米軍が上陸し、わが軍と激戦中とか。翌日はB29が九州地区を爆撃し、四国管区にも空襲警報が発令された。はるか遠方とばかり思った米軍が、にわかに近く迫った感じである。つづいてマリアナ沖海戦が報じられ、大本営発表は敵の空母や戦艦等、轟沈(ごうちん)爆沈大戦果を上げたという。空腹に軍艦マーチが勇ましく響きわたった。6月25日は皇太后様の御誕辰日である。久しぶりに半麦飯でなく銀飯が食えるとたのしんでいると、式もなく、いつもと変わらぬ麦飯でガッカリした。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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