閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第四章
 諸行無常

 9 祖国浄化の無頼県運動(ぶらいけんうんどう)(昭和16、17年)

 傷病兵の入所も年と共に増加した。応召に際して病気の発覚した者、戦地から直接送られて来た者、後送されて病院で療養中、病気と分かった者など。いずれも軽症であった。戦地の過酷な日常が発病の切っ掛けとなったのだろう
 昭和16年1月14日、新しく入所する者は布団と衣類を持参するよう、当局は各県宛通達を出した。入所時には包布、枕、その他雑品だけの支給に止め、布団と衣類は1年後の支給である。そこまで物が欠乏していたのも事実であるが、内部事情は布団や衣類を持って来ようと来まいと、すでに大きく定員を超過して入所者の迎えられる状態ではなかった。岡山の田中文男博士の斡旋で愛媛県の三浦幾次氏から、互助金として、600円の寄付に接した。協議の結果「三浦特別互助金」を設定し、別途会計として貧困者に支給することとなった。諸事切り詰めのなかの朗報である。
 全国5つの公立療養所の国立移管が決定し、所名変更と待遇の統一などにつき所長から放送があった(1月27日)。同時に所長は現在各県で在宅患者調査をしている関係上、一時帰省者を拒絶してきているから、遠慮してもらいたいとの話である。いわゆる祖国浄化の無らい県運動で入れる療養所の整理をしない、在宅患者の追い出しである。
 国立移管は以前から希望していたが、在宅患者調査には、多くの病友が不安を抱いた。一時帰省の出来ない者は気の毒として、ひそかに入所し家庭との文通さえ断っている者にとり、療養所にいるのが洗い出されて分かりはしないか。それではせっかく身を隠して家族の安泰を願ったのが無駄になる。といって警察が行なうことで、どうにもならなかった。
 その後所長から国立移管になっても自治会の内容はいまのままでよいが、名称は変えたほうがよかろうとの話があった。永年呼び慣れた自治会の名称変更には、難色をしめす者が多かった。それが時節柄しぶしぶと仕方あるまいとなった。何分にも国家、国家で地方自治さえ吹き飛ぶ時代である。自治会に代わる名称を一般募集し、そのうちから「協和会」が採用された(3月27日)。自治と協和では性格も違えば、精神もちがう。外部の者には説明を必要とした。おりから愛生園の自治会解散が伝えられた。
 現在定員は650人だが、昭和14年の定員510人当時のまま、増改築なしの水増し定員増である。さらに2、30人の入所は覚悟しなければという、気の重い話である。
 各県の在宅患者調査から、すでに警察の手による強制収容が始まっていた。野犬狩りにもひとしいありさまで、有無をいわせずの新入所者である。患者はギューギュー詰められて、布団や荷物の置き場もない。人事部は各室からの苦情で入所者の配室に困った。もうこれ以上の配室は分室のほうでやってもらいたい――。
 所長から話のあった療養所名については一般募集して、そのうちから10ほど抜いて当局へ出してあった。その返事によると厚生省へ青松園、清楓園、育成園の3つが書き出してある由。
 かねて工事中の水道管敷設工事がいちおう終了し、6月20日から給水が始まった。待望の塩気のない水であるが、飲料水として毎朝15分間給水である。その15分に病室も各室も、いっせいに備えつけの水がめに汲み取った。ために水道の蛇口はほとばしるなんて景気のよいのでなく、チョロチョロと糸を引いて鼡(ねずみ)の尻尾のようなのが垂れる。急いで汲み取らないと出なくなる。でもやはり、塩分のない真水はうまかった。
 7月1日、お歴々が列席して国立移管式があった。席上所長は式辞をのべ、療養所名は「国立療養所大島青松園」ときまったと発表した。平凡だが大島にふさわしく、青松園は好評のようであった。この日、自治会の役員功労者、作業精勤者、年功者の表彰があった。
 大島の病友は療養所開所以来、地元香川県を始め全国の方々から、常にあたたかい慰めや励ましを受けた。このことは前にも書いたが慰問金、慰問品、慰問演芸その他、青年団婦人会と官民あげてである。さらにこれは皇太后様の度重なるお思召しによって増加した。お歌は元より御下賜の金品の度に、世人の関心が高まったせいである。岡山の田中文男博士の「大島訪問記」が知人友人等、多くの方に読まれたのも一因であった。
 皇太后様は大正12年(1922)いまだ女王殿下のころ、御召艦が高松に寄港したさい、金一封下さったのに始まる。以来度々の思召しである。去る昭和10年には御内帑(ど)金をいただき恩賜記念物療室と雲井寮、恩賜記念会館が建った。赤坂御所の楓の苗を150本いただいたのは、この10年の6月である。14年には各種野菜、鶏卵、お菓子、15年5月公孫樹、同年11月には御下賜金で恩賜講堂が建った。そしていま7月1日、おりから療養所長会議に上京中の全国所長を赤坂御所に召され、お写真と共に菴羅樹(あんらじゅ)(通称カリン)の苗木3本を御下賜になった。

 盆踊りは中止、法要が例年通りあった。開所以来32年、死亡者879名。年間平均27・5名の割りである。患者はいつからとなく「どうせ10年のいのちだ」と自嘲したが、この短いいのちが懸命に生きようとして自治会を育て協和会に至った。朝、目がさめ生きている自分を不思議に思うことさえあった。
 盆明けの18日、12年以来出征中であった医務課長宗内敏男軍医中尉は、本年5月末帰園して病臥中であったが、急性肺炎で亡くなられた。惜しむにあまりあることで20日ご遺族、職員病友その他多数参列の上、園葬が行なわれた。
 国立移管にともなって自治会が協和会と名称を変更した関係で、会則もまた改正になり新しく10月1日から実施となった。そのため中途で役員の改選があった。警防団、青年団、婦人会を一つに統合して257名の連合奉仕団が結成されたのもこのときである。度々の防空演習や救援救護活動に、いわば全島的対応であった。
 11月に入ると重油不足から大島丸が休航するなど、時局はいちだんと切迫した。12月8日朝、ラジオは突如日本車の爆撃機が長途ハワイの真珠湾を爆撃し、陸軍部隊はマレー半島に上陸し、共に大戦果をあげたのを告げ、一挙に大東亜戦争の幕開けとなった。勇ましく軍艦マーチの鳴りひびくなかで一同興奮した。
 すでに献金は回を重ねたが、17年1月の国防献金661円は過去の最高額である。年末のマレー沖海戦につづく大勝が、献金額を押上げた。毎月一日は興亜記念日、八日は宣戦の詔勅の下った大詔奉戴日と決まった。
 園長は放送して治療材料の不足を訴え、定員が700名になる見込みだと協力を要請した。週3回の大風子注射は1回となり、衣料は切符制となった混乱でまるで入らなくなり、支給も交換もできなくなった。病友はそんなことよりシンガポール陥落の勝報に熱狂して祝賀式となった(2月13日)。3月8日の協和会創立記念日は、大詔奉戴日と重なる。式後そのまま旗行列に移り、大島神社に詣って戦勝祈願をし萬歳を三唱した。
 食糧その他殖産関係の増産奨励として、係員に各5円あて支給した。一同は日本の勝利を信じて希望に燃え、肝心の思考力のほうはある一点で断ち切れ、そこから先は痺れて考えなかった。ただもう、じっとしておられない気持ちで、そわそわして落ちつかなかった。千歳果樹園は思い切って果樹を伐採し、甘藷や南瓜や腹の足しになるものの増産となった。
 3月末は次期の総代選挙である。選挙すると正副総代揃って辞表を提出した。理由は「時局重大ニシテソノ任ニ堪ヘズ」。時局の重大は誰がなっても同じである。これでは選挙をやり直しても、次の者が受けてくれない。常務委員会は顧問、評議員を加えて合同協議会を開いた。打開策が見出せず行きつ戻りつ小田原評定をつづけると、2人の職員に召集令が一度にきて壮行会となった。ついに選考委員を選出して、次期の総代は推薦と決定した。
 これは明らかに会則中の選挙規定違反であるが、それを承知で裏があった。選挙のやり直しができぬとなれば特例として、この機会にあれに一度やらせよ。本人が辞退しないのは知れている。一般選挙では出ないから、このさい推薦という計算であった。お膳立てはできている。舞台は筋書き通りに運んで合同協議会の席上、選考委員会から推薦となった。次いで室長会を開いて報告し、総会の承認をとりつけた。
 これには時局重大であるから新総代に一致協力して、協和会の維持発展に努力するという一項をつけた。日ごろよく耳にする言葉で聞き流してよさそうだが、特に総会でこの点が強調された。新総代がまず副総代、つづいて常務主任、副主任、その他の役員や係員を推薦する場合、特別の事情のない限り、かれらの断り切れない重要な伏線であった。このようにして17年度の全役員勢揃いし、無事発足となった。
 午後3時、突如空襲警報が発令された。訓練かと思うと本物であった(4月18日)。およそ16機、東京、名古屋、大阪、神戸に敵機が飛来した。初めてのことでびっくりした。連合奉仕団員は緊張して警備についたが、何事もなくやがて解除になった。わが方の損害なしとラジオは放送した。
 国民全部の者が勝利を信じたこの時期に、病友の極く一部の者の間で、次のような会話がなされた。日本は東京を占領されたら終わりだが、日本がアメリカに勝つためには 太平洋を横断してロスかサンフランシスコに上陸し、西部からロッキー山脈を越えて東部まで進撃し、ワシントンやニューヨークを占領するのだろうか。相手が中途で手を挙げてくれればよいが、頑張ればそこまでゆくしかない。それはどう考えても不可能であった。素朴な疑問であったが・・・。
 島の5月は山のつつじは花を終わるが、木々の新芽の萌える好季節である。相愛の道をまわると榊(さかき)の花が匂った。山懐に植えた御下賜の楓はいっせいに紅色の新芽を吹き、療舎の間の公孫樹(いちょう)はみどりの新芽を伸ばし、すでに小さな扇状の若葉を左右にひろげ、風に吹かれてヒラヒラした。
 その御下賜の木札の立つ公孫樹の新芽が、ブツリと先を摘み取られた(5月17日)。悪気があってでなく、おそらく行きずりの無意識の手あそびであろう。さあ大変だ!
 「誰かが御下賜のいちようの芽を折っとる」
 注進する者がいた。こういうことを大騒ぎするのが国民精神である。総代も一緒になって騒ぎ出した。騒がないと騒がれて責任を問われる。「恐懼(きょうく)ニ堪ヘズ」と、園長宛に進退うかがいを出し、緊急評議員会、緊急協力会(戦時中の室長会名)を開いて陳謝状を出す騒ぎである。翌日、園長から「陳謝の要なし」であっけなくケリ、一幅(いっぷく)の戯画である。
 戦勝祈願の大島神社日参が始まった。これも国民精神である。地域別につくった隣組の順番による早朝の日参である。御下賜の綿種をいただいた。県の農業技師が来島して園の幹部や自治会の係の殖産部主任が同行し、栽培適地を選んであっちこっちと歩き、北山の御下賜の楓園下と決定した。詰所の全役員その他、総出でその地を労力奉仕して拓いた。その上、県の技師から教えられた栽培方法を文書にし、評議員にまで回覧する念の入れようであった。

 総代と常務主任一同、園長その他の幹部と会見し、まず海軍へ恤(じゅつ)兵金として35円、献金の手続きを依頼した。次に今回実施された衣料切符制の実状をきき、何とか衣料が手にはいらないものかと懇談した。切符があって現物がなく、あるのはせいぜい1割か2割にすぎないという。衣料切符の一部はきみたちの家庭で配給してもらえるはずだから、そちらから手に入れる方法もあると、音信を断っている家族から、できもしない話である。いくら関係官庁へ陳情を重ねても手にはいらない所長には、答えようがなかったのだろう。
 以下、その席で次のような話合いがあった。
  一      増員にともない、空き屋となっている旧保育所の一棟を、至急修理して家族舎に使用されたい。
  二      短グツ(ゴム)と地下足袋の支給を考えてもらいたい。
  三      園長を中心として全員一致協力、翼賛(よくさん)の主旨を体し病室を回診されるなど、患者が親し   みを覚える機会を与えられたい。
  四      災害の復旧工事はすみやかにしてもらいたい。
  五      園内の養護学校教員は中等学校卒業、または高等小学校卒業者にして講習その他の方法により、中等   学校卒業者と同等の教養ある者のうちより採用されることになった。ついてはその筋へ提出する履歴   書を出してもらいたい。
 いうまでもなく五は当局の発言である。これによって以後、患者の教師にも代用教員の辞令が下りた。
 当時の在園者数は693名と最高で、所長のいう定員700名は目前であった。このうちから1ヵ月10人前後一時帰省する。各県からはなるべく帰さないようにと通連がきていたが、人れるとき有無をいわせず連れて来るため、後の始末も残る。まして時局柄家族の応召、戦死戦傷その他家業の手不足もあって、一時帰省は増えても減らなかった。

 ところが園当局はなるべく帰すまいとする。帰省者が期限内に帰園すれば次の者が帰れるが、遅れると次の者は帰れなくなる。なかには遅れてもう帰らないと思っていると、忘れたころに帰園する。外からは新入園者が送られて来る。内は各室とも満員で困っている。帰省の期限が切れて帰るか帰らないか分からない者のため、いつまでも室をあけて侍つわけにいかない。そんな事情で一時帰省者の細則や規定がきびしくなった。しかもなお園当局と人事部と本人との間のトラブルは絶えない。ために補導部(前の事務分室)と協議の結果、次の決定を見た。
  一、   帰省期限は最初7日、追加可能7日とし、14日を以て限度とする。
  二、   一時帰省の手続きは室長から人事部を通して行ない、期限の追加に限り園に直接手続きしてよい。そ   のときは園当局より人事部主任へ、人事部主任は室長へ通知して手続き完了とする。
 補導部主任から人事部主任に、いとも簡単に新しく30名入れてもらいたいと話があった。各室満員で無理な話だが協議の上、18名までは何とか工夫してみるが、それ以上は受取れない。そちらで処置してもらう他ないと返事した。
 午後になって総代と人事部主任は事務官(後の事務部長)末沢書記と会い、あらためて新入園者の件で協議した。席上末沢書記が他園の例を引き一人一畳のところがあり、青松園は1・6畳だから収容余力があると主張したのが問題になった。協力を惜しむわけではないが園当局は在園者にぎせいを強いてまで、外部の要求に従順であろうとする。かれらは定員超過によって、増改築を促進するという。在園者を守る側は増改築してから増員を主張した。言い分はどうあれ受入れたが最後、資材の入手難を理由に増改築されないのが分かっている。まして被服類一つを例にとっても、入園者が多いと在園者に対する支給率が低下する実状である。
 ところが4日後、午前午後とつづけて一挙に18名入園し、明日また2名来ると知らされた。そのあまりにも一方的仕打に総代も人事部主任も腹を立てた。総代は事務官に対し、設備も支給品も準備しないこのような措置は忍び難いとし、如何なる不祥事がおきるか知れないが、それは当局もわれらも執るべきでないと極言した。1室15人以上は各室で拒んだし、夏期を迎えて布団や衣類の洗濯にかかれず、園当局の時局に便乗した怠慢が目につき、病友間の不平不満は無視できなかった。
 暑気と栄養不足に加えて治療不充分が重なり、2、3日に6人、1日に3人の死亡で告別式が間に合わなかった。夜伽室(霊安室をかねる)に4つの柩がならぶ。こんなことが過去にあったろうか。外部からはそれまで使用していた竹の輪で締めた円形の棺桶が入らず、板を買ってもらって内の大工が釘で打ちつけた四角な座棺を造って間に合わせた。そんななかへ後から後から容赦なく入園者を押込む。文句のいいたくなるのが当然である。この年死亡率は過去最高の71名、ついに10・4%を記録する。
 赤レンガで築いた火葬場のカマは棺桶を入れて上下左右に薪木をつめ、ドストルの下から焚きつける。ふつう25貫(100㌔)の薪木を燃やし「二十五貫で一巻の終わり」と冗談をいった。火葬にしたあとは一定の時間をおかないとカマが熱く、ドストルの上にならぶお骨が掻き出せなかった。だから普通、午後に告別式をして火葬にし、翌朝お骨を拾った。それが午前午後とつづけての告別式で、カマの冷えるのが待てない。寒い冬ならまだしも暑中のカマはなかなか冷えず、火葬人はころを見計らってカマの鉄扉を開け放って風を通した。
 薬がなくて充分な治療がしてもらえず、家族のいないベッドで病友に看られて死に水をとってもらい、病友の手で病友の作った棺桶に納められ、病友によって告別式が営まれ、病友の肩に担がれて火葬場へ運ばれて茶毘(だび)にふされる。あるいはこれがかれらの一番の安らぎであったかもしれないが、祖国浄化の無らい県ならぬ無頼県運動の実態であった。

  またひとり友のいのちの危ふきに
       たちさわぐなり朝まだきより

 歴代執行部はたとえ名称は協和会と変わるとも、自治会創立の精神は忘れなかった。すなわち貧困者に支給する互助金を5銭10銭と、貧しい中から着実に増額した。1ヵ月1人の支給額。
  昭和12年  81銭
  〃 13年  82銭5厘
  〃 14年    〃
  〃 15年  96銭
  〃 16年  1円25銭5厘
  〃 17年  1円35銭強(上半期)
 かねて園当局から各県に古布団の寄贈を依頼してあったところ、香川県から真っ先に大16枚、小6枚とどいた。早速、布団をもらってない入園者に支給された。金属回収で各室は永年使いなれた鉄火鉢を供出し、粗末な素焼きの火鉢をもらった。薬局は薬ビンが無いといい、各室では薪木がなくなり、枯松の伐採を願い出ると即日許可になった。購買部は紙袋が無いから、買物にいれものを持参せよという。何もかも無いなかでたった一つあるのが、次から次へと送られて来る入園者である。10月1日、ついに在園者は700人を4人越えた(男493、女211)。
 海の色がいちだんと青くなり、高松の街の屋並みが見え出すと、朝夕の潮風に秋の訪れが知れる。そのころから下痢患者が出はじめた。赤痢(せきり)だぜ、セキリにきまっていると、病友は不安に怯えてひそひそ話した。患者を無理やり詰めこんでどこかの飯場よりも雑然とし、衛生状態などとは口にするのもおこがましい。そんな不衛生な過密振りで、もし真性の赤痢であったらどんな結果になるか、想像するのも恐ろしい。園長は病室を診察して回わり大腸炎毒性で真性赤痢ではないが、やや近い。死亡者は早く火葬にせよという。大腸炎毒性がどんな病気か知らないが、分かったようなわからない説明である。やはり赤痢なんだ、おそれるからウソをいってる― 。
 青山艮官から予防薬が頒布(はんぷ)され、みな飲んだ。3名の死亡者が出、下痢患者は27名に達した。病室の3分の1である。急いで隔離病棟を作って患者を移し替え、防疫(ぼうえき)に努めた。作業部はいやがる看護を無理にたのみ、昼夜交替で2人あて3交替とした。
 腸炎は赤痢二菌と判明した(10月13日)検出に手間どったのは培養器が不完全のためで、はなはだ遺憾であると園長から弁明があった。赤痢は猛威をふるい10名のいのちを奪って、11月にはいると発生がやんだ。ふたたび病室の全患者を移勤し、全病室を消毒して隔離病室を解放した。10名の死亡者のうちには日ごろ元気な者もいて、まるで夢のような1ヵ月であった。青山医官はマイクを通じて下痢患者の終結を告げて協力を謝し、同時にカイセンを患う者がかなり見受けられる。このさい治しておきたいから、病室の風呂に薬を投入する、自由に入浴するようとの話である(11月9日)。硫黄剤を入れた青味がかった黄色な湯であった。カイセンはよういに治らず戦時戦後へかけて続いた。
 先には室の鉄火鉢を素焼きの火鉢に代えて供出した。こんどは各人の所持する50銭銀貨、10銭5銭のニッケル貨、1銭銅貨を回収交換した。計2450円。いうように日本はほんとうに、戦争に勝つのだろうか・・・。そんな時世であったが幸い年末には1人1升弱ずつの餅がつけ、協和会からは68匁(255㌘)の豚肉に、50銭札一枚そえて一同に配給した。庵治の谷商店からは新しい年のカレンダーも寄贈され、各室に配った。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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