閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第七章
 潜やかな転生

 17 砂糖事件(昭和24~26年)

大島では園長中心主義がとられてきた。これはどの園でも似たような情況だったが、ことに大島はそれが強かった。自治会発足当初、積極的に支持してくれたのが園長だった。このため自治会幹部は園長、幹部職員との月例の懇談会をもってきたが、その席上で重要な情報を得ることが多かった。当時としては唯一の情報源である。また判断に迷うような場合、つまり事なかれ職員なら断わるような事でも園長は「患者さんがそういうのだったら、そのようにしましょう」と自治会の意見を取りあげてくれた。この調子だから園長自慢も他の園よりつよかった。
 しかし24年5月29日の懇談会はいつもの懇談会に似あわぬ緊張した空気が漂っていた。この日は自治会幹部が、用度係長を兼任している庶務課長と用度係に、患者用の砂糖、缶詰、特配煙草の行方について追求していた。
 戦後の物資不足はまだつづいていた。重症者に出すくず湯に砂糖を加えること、練乳でもよいから栄養になる物を、と要求してきたが一向に実現されなかった。そんな状態のところへ砂糖の配給があったが、その砂糖を全部職員に配給したという確実な筋の情報が入ったので、これまで疑惑をもたれていた缶詰、特配の煙草などとともに砂糖の言及がなされたのであった。
 一部の職員が患者用の食糧、缶詰、煙草、ほうたい生地などを私腹している噂は早くから流れていた。野球をやっているとき、応援にきている用度職員は、紙巻煙草をすっては捨てすっては捨てて口からはなすことはなかった。患者はよもぎやいたどりの葉を巻いて吸う次期は過ぎていたが、特配の富貴煙というきざみ煙草をすうのが精いっぱいだったから、それが口の端にのぼらない筈はなかった。しかし23年から瀬戸内三園の友園親善交歓がはじまっていたが、長島での交歓の際、生活扶助金が大島では支給されていない(給付手続きが遅れていた)ことが判明した。分った場所が友園であったから執行部員は面目まるつぶれだった。積年の事務の怠慢、患者に対する誠意の無さには執行部員は腹に据えかねてきていた。そこへ砂糖事件が起きたのである。怒りと不信はいっきょに爆発した。
 この問題の糾明は31日もつづけられ、疑惑を持たれていた作業賃の差額、練乳等々の問題にまで拡げられ追及がなされた。6月1日には用度係、会計係、庶務課長の辞職勧告が園長に提出された。勧告書を前にした園長の顔は蒼白になり声はふるえていた。
 この日職員側で調停委員がつくられ、自治会幹部と交渉が行なわれたが、入園者の主張はすこしも変らず、この調停も不成功におわった。4日には三氏の早期辞職を迫った書類が園長に提出された。その書類には翌5日中に回答することという条件がつけてあった。
 5日、午前中に園長から回答があった。園長は、自治会の意向に添うと回答したものの、今すぐという訳にはいかない、もう少し待ってもらいたいと、まことに煮えきらない態度で、あたかも冷却期間を稼ごうと目ろんでいるようだった。
 この午後、執行部は会堂に会員を招集し総会を開催した。歩ける者は全員集まって来ていた。総代の熱のこもった経過報告があり、顧問から補足説明が行なわれた。顧問の説明は、自治会発足以来の庶務課長の誠意のなさを糾弾するもので、多くの会員の共感を呼びおこし燃えあがらせた。そのあと三氏の辞職勧告案が討議に付され「やれ、やれっ」の喚声とともに満場一致で採択された。
 自治会の要求は貫徹された。辞職勧告された三氏は9月から11月にかけて転任となり島を去っていった。この事件で長い間とってきた園長を中心にした家族主義は崩れはじめ、新しい民主的な関係が芽生えはじめた。また自治会発足時の決起大会を知らない新入園者には、戦後の民主主義の何たるかを目前に見せつけられた感があった。しかしそれを認識するにはまだ時間が必要だった。

21年各団体代表による視察団が長島、邑久の両園を訪問した際、自治会代表の間で、瀬戸内三園で話合って事を進めることが決められていたが、22年11月の邑久における協議会で正式に決定され瀬戸内三円協議会と名づけられた。それと一緒に、毎年春秋に入園者の親善交流を行なうことが決められ、友園交歓と称せられた。この前9月に星塚から全国患者連盟への呼びかけがあったのだが、この協議会で三園ともに加入せずの決議がなされた。
 星塚から提唱された患者連盟は23年1月をもって発足した。本部は星塚で、参加自治会は星塚、菊池、駿河、東北、松丘の5園であった。多摩、栗生は草津事件後の内部改革でそれどころではなかった。残りは瀬戸内三園で、三園協議会がはじまったばかり、足もとを固めなければならなかった。
 24年にプロミン予算復活運動が起ったが、この運動では、中央の多摩自治会が中心になり全国10園の自治会が一斉に、それぞれの条件にそった形式で運動を行なった。運動の結果、各自治体の中に連帯感が芽生え、全国10園の患者が結束し一つの組織をもつ必要性が看取された。
 25年8月、多摩自治会が「全国らい療養所患者協議会(略称、全患協)」の結成を呼びかけてきた。が、大島では機は熟していなかった。前年に砂糖事件が起きたが、その反動が残っており、もうすこし冷却期間が必要だった。また長島、邑久との申合せもあって、多摩からの呼びかけは見送られた。翌26年2月に星塚を本部とする全国患者連盟も多摩に合流し、多摩で「全国らい療養所患者協議会」の発会式が催されたが、大島は祝電を打つにとどめざるを得なかった。
 しかし、プロミン獲得以後、会員の、特に青年層の自覚と連帯意識は次第に高まってきていた。青年団の機関紙、壁新聞(24年、12月開始)には全患協加入をのぞむ声がつよく打出されていた。こうした情勢は長島、邑久でも同様であったようで、26年5月17日の三園協議会で全患協加入が決定、6月20日、三園の正式加入が認められた。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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