閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

目次 Top


第七章
 潜やかな転生

 18 夫婦寮の新設(昭和26、27年)

24年11月21日、臨時瀬戸内三園協議会が恩賜会館(現盲人会館)で開かれた。そのすぐ北側の会堂では三園共演の音楽会が催されていた。
 協議会に提出された5つの議案の中に
 一、     夫婦舎新築嘆願の件 大島提案
 があった。
 他に作業慰労金5割増額嘆願書の件、療養慰安金5割増額嘆願の件が提出されていたが、うなぎ上りにあがる物価に5割の増額では不満だったが、夫婦舎新築嘆願の件に長島、邑久の同調を得るため、2件に妥協した。それだけ力をいれ念願をこめた提案であった。
 これまでの夫婦の形態は、万葉時代さながらの通い婚であった。つまり女の寮舎へ男が通い、朝になれば自室に戻ってくるというのである。ただし姦通や暴行は自治会規約で固く規制されていた。
 男が通っていく女子寮舎には、当然のことだが独身女性もいた。独身女性は新入園者や、園内の養護学校を卒業したばかりの若い娘が主だった。独身女性も夜がくれば、夫婦者の隣で寝なければならなかった。理想郷を目ざして発足した自治会にとって、この女子寮舎の在りようは頭痛の種だった。人なみに夫婦が個室を持てるようにすべきであったが、戦争でそれが許される状況ではなかった。せめて独身女性だけでもザコ寝夫婦から切離し開放したくて、自治会発足当初(8年1月8日)女性独身室を開設した。しかし、男が女に惹かれ、女が男に惹かれる人間世界の道理には、規制はとうてい歯が立たない。せっかく開設した女性独身室にも遊びにいくようになる。執行部から何回も注意が出され、8年9月に厳しい警告が出された。「独身舎、(女)に無断で入ってはならない。もし用件があったり物品を贈ろうとするなら、その用件の内容、物品を人事部に見せてその許可を得ること」というものであった。がこれも簡単にはね返され、女性独身室は1年半で夫婦者のザコ寝の室になった。(9年5月14日)
 同9年7月、寮舎増築を目前にして、今度は夫婦者だけをいれる夫婦舎(共同部屋)をつくる提案がなされたが、女性独身室をつくった時の苦い経験がさめておらず、性質が違うにもかかわらず評議員会で否決された。
 多くの病友のいのちを奪った戦争も終わり、患者の公民権も人権も認められた。この際、ながい間のガンだった通い婚を改め、人なみにしようと夫婦寮新築が検討された。(23年)それは一棟に6組6室、配偶者が死亡した場合は独身寮に移るという大まかな案だった。この案をもって職員との懇談会にのぞみ園長に要請したが、整備予算が無いから、と言われ引っこまざるを得なかった。
 三園協議会に提出された議案は、こうした経過を踏まえたものだった。長島、邑久も似たような状況を抱えているので「三園異議なく議決」となった。
 協議会の決議事項は主催園である大島でまとめ、他の園自治会へ送り、厚生省へは園長を通して請願した。また香川県出身の議員加藤常太郎(参)、成田知己、大西禎夫、玉置実氏のもとへ送り側面からの援助を依頼した。地元出身議員への依頼ははじめてのことだった。
 25年、厚生省は全国らい患者一斉調査を行ない、その結果に基づいて増床計画を立てた。この増床計画に便乗した形で夫婦寮新築が認められた。厚生省もらい療養所の、24畳に10組近くの夫婦者と独身女性がザコ寝する現状の非人道性をようやく認めたのである。
 大島は200床の割当てを期待したが、予算配布は100床にすぎなかった。
 25年9月17日の調査では夫婦者は113組だった。
 小分けはつぎの通りである。
    男女共に軽症者      54組
    男軽症者と女不自由者   36組
    男不自由者と女軽症者    4組
    男不自由者と女不自由者  19組
 100床の割当てでは63組分、126床の不足である。不足分は次年度に回すとして、執行部は23年案を継承して個室を考えていたが、該当者たちはどういう夫婦寮をのぞんでいるのか、それを知りたくて片方不自由者の夫婦、両者軽症の夫婦との懇談会を開いた(10月6日)。

  片方不自由者の夫婦との懇談会
   一、個室でなく大部屋を夫婦寮にする方がよいという意見(共同) 44名
   一、現行通り泊りにゆく(男が)方がよいという意見       20名

両者軽症の夫婦との懇談会
  一、女子寮舎の定員(24畳に12名)を減らして現在通り泊りにゆく方がよいという意見  全員

意外な意見だった。なぜこんな意見になったのか。夫婦寮の新設が決定的になった時から新事態に対する不安、反対の声がささやかれていた。夫婦寮ができると?個人主義化する、?弱い者がみじめである、?生活が派手になる、?小使いが余分に要る、?無理して働くようになる、?独身者に余得が無い、などで洞察力のある意見であった。出席者はこれらの意見を耳にしていた。さらに席上では、残される夫婦63組の措置について話が集中していたので、その人たちに対する遠慮から本音が出せなかったのである。結局、懇談会では、問題を全部の夫婦を夫婦寮に入れるか、現在どおり泊りにゆくようにするかにしぼり、話合いの結果、いくらか無理があっても全員が夫婦寮に入ることに仮決議して散会した。
 懇談会から数日後、両不自由者の夫婦、半不自由者(片方が不自由者)夫婦から、個室夫婦寮についてアンケートを求めた結果

 今まで通りの大部屋雑居希望  5組(不自由者)
 個室希望          10組(不自由者)
 個室希望          20組(半不自由者)

大部屋雑居を希望したのは、夫婦ともに盲目であるかそれに近い夫婦(夫婦特重不自由者)である。不自由な者ほど、新事態に不安をもち現状維持を願っている。雑居生活なら折にふれ晴眼者から手を貸してもらえたが、個室になれば、それが難しくなるというので現状維持に回らざるを得ないのである。後に夫婦特重不自由者には住みこみ看護作業人をつける、夫婦不自由者に昼間だけの看護作業人を、夫婦半不自由者には部屋まで配食する、と決められた(26年6月8日)
 大島は平地が少ない。このためアパート式の夫婦寮も考えられたが、身体障害をもつ者には無理、となって、結局、職員地区だった東海岸南部の丘を削って敷地とすることになった。起工式は25年12月、完成は26年7月13日、一棟5室の個室(四畳半)、ただし水が少ないこともあってトイレ、炊事場は共同、いわゆる棟割長屋風の夫婦寮10棟、48組(地形の関係で4部屋も)。
 夫婦寮へ移転者は96名、執行部は移転用としてリヤカーを購入して便宜を図る。雑居部屋に残る者も、知人も友人も手伝いに出るので時ならぬ人出、大島としてはひっくり返るような騒ぎだ。

 引越しの手伝いに来てリヤカーにひきずらるごと後押してゆく  政石 蒙

移転完了は26日だった。夫婦寮新築はその後もひきつづき行なわれ、最終完成は8年後の34年2月である。自治会がのぞんでいた女子独身寮は31年に実現した。独身寮にいて結婚話が成立した者は、死亡などでできた夫婦寮の空室へ入るというシステムで、かってのように簡単に崩れることは無くなった。

第1回の三園協議会(23年10月)つづく第2回(24年11月)、第3回(5年5月)の三園協議会でも、重要議題として職員増員の件がとりあげられてきた。それは、開所当初から患者が作業として重症者の看護をしてきたが、これからは人なみに重症者の看護は専門の看護婦にやってもらい、患者が患者を看護するという、常識では考えられない異常な状態を取り除きたい願いからであった。
 ちょうど厚生省も増床計画を立てるなど、療養所らしく立直す方針もあった模様で、26年6月16日から病棟つきの看護婦5名を置くことになった。
 看護婦の勤務内容は、午前8時から午後5時までが勤務時間、全病棟の治療、注射等すべて、受持事務は看護詰所で行なう、となっていた。勤務時間は午後5時までで、その後はハイさよならだ。したがって病棟内の掃除から重症者の雑務、給食、その後片づけ、患者の急変に備えて、無理な泊り込みも患者がやらなければならなかった。それでも、昼間だけだが、注射や傷の手当、検温など看護婦にやってもらえるのだから一歩前進である。
 このシステムは、一部モデル病棟としての切替えを加えながらも35年までつづいた。
 この間いろいろな問題もあったが、中でも大きいのは、重症者の付添い看護を、軽症寮の寮順を追った義務制にしなければならなくなったことである(27年10月5日)。病棟に看護婦が勤務になっても、昼夜ぶっ通しの重症者付添いは、やはり患者に押しつけられていた。
 重症者付き添いは、軽症者が籍元制度にのっとって行なっていた(別項参照)。寮によっては受持寮の重症者が2人も3人もつづき、長期間、付き添い看護に出なければならなかった。その上に夫婦寮ができて、籍元制にアンバランスも生じていた。このため付添い看護の片寄りはいっそう大きくなり、そこから「なんとかしてくれ」と悲鳴の声が執行部に届けられたのである。協議の結果、これまでの籍元制では公平を期すことができないのが分り、寮順を追った義務制に切り替えなければならなかった。
 この後しばらくして、不自由者看護も含めて、患者が患者を看護することは間違いだ、という意見が若者の口から吐かれるようになった。が、相愛互助をモットーとする自治会の中では、異端者の声として迎えられ、間もなく忘れられていった。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


Copyright ©2007 大島青松園入所者自治会, All Rights Reserved.