閉ざされた島の昭和史   国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史

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第八章
 予防法闘争

 19 予防法闘争(昭和27、28年)

 長島から、星塚、菊池の代表が来ているからぜひ来園するようにと電報が入った。27年5月30日のことである
 5月22日から28日まで多磨で第一回支部長会議が開催されたが、大島は書面会議ですむことだと、出席しなかった。そして以前から問題になっていた功労金制度、自治会役員の年功手当などの廃止を手がけていた。
 30日はちょうど長島から友園交歓にきていた療友が風のため泊っていたので、翌日、愛生丸に便乗して出かけた。大島同様、支部長会議に出席しなかった邑久代表もきていた。大島、長島、邑久、菊池、星塚の五支部長が集まりあたかも西部五園協議会の観があった。席上、菊池、星塚の代表から、多磨における支部長会議の模様がこまごまと報告された。
 長島から戻った総代から、この西部五園協議会の詳細が園内放送で放送され、会員は全患協が唱えているらい予防法改正案の中味をはじめて知った。

 一、らい予防法は保護法的性格を持った予防法とする。この際「癩」の名称を廃し「ハンセン氏病」と改める
 二、入所者の生活保護金(療養慰安金)を法定する。
 三、家族の生活保障を考慮する。
   現在の生活保護法の適用では患者の秘密が保持されないから、各療養所に特別民生委員を置きこれを通して、その家族の生活を保障する。
 四、懲戒検束規定を廃する。
  イ、園長、職員は患者の保護者であり、園長の検束権は認められない。
  ロ、犯罪は刑法により処置する。
  ハ、有罪者は人道的にも医学的にも施設の完備した刑務所で服役する。刑期満了後は服役前に居住した療養所に帰ることを原則とする。
 五、強制収容の条項を削除する。
 六、全快者又は治療効果があり病毒伝播のおそれのない者の退園を法定する。
   この場合、必要とする者に対してはアフターケアー的施設及び職業斡旋を考慮する。
 七、患者の検診、入所者の扱いに関しては秘密保持を厳にする。
   関係者による秘密漏洩に対する罰則を強化する。

というもので、つづいてらいと結核の医師、看護婦の対比について述べた。
 医師は、らい62名に1名、結核17名に1名、看護婦はらい34名に1名、結核6名に1名。
 総代の放送で若い自治会幹部、青年団幹部、文芸団体に属する一部の者は、陸つづきの療養所入園者の考え方に目を開かされた思いだった。だが大部分の者は遠い国のことのように思え、総代の長い報告をぼんやり聞き流していた。
 8月に入って間もなく、全患協本部から分厚い支部報が届いた。
 それは、恵楓園園長の国会における証言に不満爆発、入園者が園長に対して証言取消しを要求しているので、菊池入園者に同調するとともに各支部の、三園長の証言に対する意見を提出されたいというものであった。
 三園長の証言とは、26年11月に参議院厚生委員会で長島愛生園の光田園長、多磨全生園の林園長、それに菊地恵楓園の宮崎園長が行なった証言を指す。宮崎園長は「らい患者は古畳の埃と同じで叩けば叩くほど出てくるが、現在の法律では徹底した収容はできないから、本人の意志に反しても収容できるような法律、強権が必要である」と。光田園長にいたっては「家族内伝染を防ぐにはらい家族のステルザチョン(断種)がよいし、今度は刑務所ができたことだから、逃走罪というような罰則をつくって貰いたい」と証言した。この証言には、新憲法が国民に保障した基本的人権、民主主義、不治の病いを可治の病いに変えたプロミンの出現など全く無視した、明治から敗戦までの隔離撲滅時代そのままの思想が何らの反省もなく出ている。
 評議員会では宮崎、光田両園長の証言のなかから、条項を挙げて取消しを要求する書類をつくることを決議、19日に全患協本部へ送付した。
 28日の職員との懇談会では、医師の補充、総婦長の後任問題、炊事職員の増員の要請等とともに、らい予防法改正についての園長の考えを質した。園長の回答は、

全患協のいうらい保護法は、養老院的性格をもつ療養所になって、一部の者は得をするが大部分の者は損をする結果になるので、現行の予防法を改正した方がよい。国会の厚生委員会らい部会では、なまはんかな改正より今の方がよいというぐらいである。だが十分研究して改正する必要はある。懲戒検束規定を削除して改正されるよう、当園としては要望してある。強制収容は特例の場合である。みだりに適用すべきではないと思う。

 というものであった。

 懲戒検束規定は削除、とはいうものの、強制収容については、つずまるところ容認論である。それもさることながら、前半の養老院的療養所になるという園長のことばに、自治会幹部はたじろぎ迷った。執行部はその後医務課長、医師にも意見を訊いたが、懲戒検束規定の削除、強制収容は園長と同様容認論だった。
 暑い夏が去り過しやすい秋に入った10月5日、全患協本部から、らい予防法改正促進委員会結成式への招待と連絡員の出張要請があった。その夜、総代は三園長の国会証言について説明しその後で、大島もらい予防法改正促進委員会に加入したこと、委員は正、副総代、正、副議長、前正、副総代で構成したこと、本部から連絡員の出張要請があったが、大島としては手紙ですますことにし連絡員は出さないと報告した。迷い苦しみながら出された中心幹部の決定だった。
 予防法問題に関心をもつ者は三園長の証言に、ことに光田園長の、らい家族まで断種手術をせよ、という証言を知りやり場のない怒りを覚えた。家族の安穏を願えばこそ家族との音信を絶ち、これまで辛抱できないことにも耐えてきた。それを踏みにじり家族にまで断種とは、何のための隔離なのか、もってゆき場のない悲憤に身をふるわせた。が、それも一部の者に限られ、よどんだ水の一部がはね返ったに過ぎなかった。が、はね返った飛沫は黙っていなかった。11月5日に文化の日の行事の一端として聞かれた弁論大会では、青年たちが逆行する世相に批判を述べ、ついでらい予防法改正について意見を述べ運動の促進を訴えた。弁論に立ったのは9名だった。
 11月にはいって大島は予防法改正促進をめぐって目まぐるしく動かざるを得なかった。
 4日、高松において大島、邑久、長島、菊池、星塚の西部五園長の日本癩学会西部地方会が聞かれた。全患協本部の申し入れによって、予防法改正促進のための所長会議開催について話合うのも一つの目的だった。青松園の園長は、改正促進を掲げた所長会議開催には気乗り薄だったが、自治会に突きあげられ、各園長の意見が一致すればあえて反対はしない、と言っていたものである。会議では患者の要求15項目を承認し、促進のための所長会議を承諾した。
 6日には長島、多磨、菊池、松丘の代表4名到着、7日代表4名を迎えての座談会、四代表からは、厚生省は改正の動きを見せないこと、東部五園長に予防法改正促進を要請したことなど、これまでの促進委員会の活動経過を説明し、行動を共にするよう話をすすめた。
 18日には親善使節団と称して本部からオルグを派遣してきた。社会復帰している土谷氏も同伴だった。オルグは評議員および自治会役員、文芸団体員、自治会執行部と忙がしく談話を交わして行った。度かさなるオルグの来園、ことに土谷氏の来園で、自治会幹部は迷いがふっ切れ運動に身をいれてきた。また青年層、文芸団体員がつよい刺激をうけたことは言うまでもない。
 中央では長谷川保代議士(社)、大野伴睦衆議院議長を通して「癩予防と治療に関する質問趣意書」を吉田総理に提出していた(11月3日)が、回答は「懲戒検束規定は憲法に抵触せず、目下、予防法を改正する意志はない」というのであった。これはいうまでもなく政府を通した厚生省の見解である。一度は新憲法にのっとってらい予防法の改正を準備していた厚生省だが三園長の証言に示されるような意見に従って、明治につくられた予防法をそのまま改正なしにすまそうというのだ。この報に接し(12月3日)執行部は予防法の改正促進を要望する要請書を地元香川県出身の代議土のもとに送った。
 この年の10大ニュースを全患協ニュース掲載分として本部より求められた。それはつぎの通り。

 一、梅中軒鴬童師来園。
 一、将棋藤内七段来園。
 一、義宮様を西海岸にて見送り。
 一、友園交歓第一回光明園桜見物。
 一、海底線故障12日間停電。
 一、三園役員懇談会、三園卓球大会。
 一、としよりの日、としより慰安の日。
 一、文化の日を中心にした文化行事。
 一、らい学会西部地方会。
 一、船旅第一回宇野、玉野方面行き。

 年が明けると一棟(独身寮は21畳または24畳の2室、夫婦寮は四畳半5室)に一部の新聞(寮の希望)が配布されてきた。自治会が寄付金で購入し配布するようにしたものである。これまでは図書室に朝日、読売、毎日の新聞一部ずつ置いているだけであった。それでは読みにいく者が少ないので、身近に届けて、戦後の新しい社会常識を身につけてもらいたい意図から出されたものだ(現在も自治会費用でつづけられている)。
 門松がとれて間もなく、病室、不自由室看護が一部の者に偏よっていると不平が出て問題になり、室長会で長時間論争がくり広げられ、結局、半ば強制的に割付けることにし戦時中の割付けにもどった。
 14日には役員選挙法の改正が論議された。総代の推せんだった各部主任を一般選挙にしようというのである。23年にも問題になった説で、期末に実施に移された。
 こうして目前の事柄に捉われている間にも、中央ではすこしずつ動きをみせていた。
 長谷川、藤原道子代議士を中心にした衆参両院の厚生委員が多磨全生園を視察、実地に園内を視察、予防法改正委員と膝をつき合わせ話しあい、入園者の訴えをいれた衆院厚生委員会案なる改正案がつくられていた。
 その改正案を審議するから代表を派遣せよと木部から要請がきた(28年1月21日)。代表派遣ははじめてのこと、しかも束京へだ。知人、友人をとわず大勢の者が西の浜へ出て代表を見送った。そしてこのことが話題となり、しぜんに予防法問題に関心が向けられた。2月26日に帰園した代表から改正案の報告、多磨、駿河支部の模様が園内放送で報告されたが、多くの者が耳をそばだてた。
 しかし、中央では事態は大きく変っていた。衆院厚生委員の総意で予防法改正の方針を決定したところ、それでは厚生省の面目が立たない、厚生省で作成するから譲ってもらいたいと申入れがあり、入園者と協議してつくった「ハンセン氏病法(草案)」を骨子にして立案するという条件で譲った、というのである。
 2月18日の職員との懇談会で、園長から所長会議の報告があった。らい予防法を政府案として国会へ提出するので、そのため施設長としての意見を聴取されたのだ、と。とすれば強制収容は入ることになりそうである。ハンセン氏病法を骨子にするという約束はどうなるのか。20日、本部から代表派遣の要請があり2名の代表を送り出した。
 3月2日、愛媛県衛生部予防課主事が来園した。懇談中、同衛生部にも厚生省から予防法改正について間合せがあったこと、愛媛県、高知県に対して、青松園から一時帰省者の氏名を通知していたことが分った。伝染のおそれなしと許可されて帰郷する者に、なぜヒモをつけるように通知しなければならないのか、帰郷者の人格を認めるべきだと抗議を申込み、通知取止めを約束させた。県の担当官もさることながら、プロミンの効果を目前にしている園の職員にしてこの程度の理解かと嘆かされた。
 それから間もなく、本部に派遣されていた代表から見通しが暗いと通信が入っていたが、12日、本部から「十四日 国会提出サル」の電報が入った。が、14日には例の吉田首相の「バカヤロー」で懲罰動議が可決され、あっけなく解散になった。
 国会解散の翌日、支部代表から速達が届いた。それは「厚生省案には、懲戒検束規定と強制収容の条項が盛り込まれていると予想されるが、これが国会を通過した場合はどのような手段をとるか、菊池と松丘支部は実力行使をしても修正させると頑張っているが、大島の態度を知らせ」というのだった。執行部は解散前に書かれたものだから返事の必要なしとしていたが、ひきつづき「返待ツ」の電報がきたので評議員会を招集、協議のすえ最悪の段階にきた場合には実力行使をする、時機、方法は本部に委任するという態度を決定、その結果は電報で報告された。
 18日には本部から代表も戻ってきた。
 つぎの日、さっそく報告会が開かれ、厚生省案と全患協案の比較検討が行なわれた。厚生省案には入園者の要望に反して強制収容と懲戒検束規定が盛りこまれているだけでなく、強制収容には旧法になかった罰金が加えられていた。厚生省案は改正ではなく改悪であった。評議員会は両法案の検討をつづけた。運動につよい関心をはらっていた青年団、婦人会は27日、選掌中であったが正、副総代を招いて座談会、両法案の研究会を開いた。そして4月3日に青松園創立44周年記念事業の、弁論大会には「らい予防法と実力行使」「衆議院議員選挙とらい予防法の関係」などを訴えた。
 臨時便法による選挙(各部主任まで一般選挙)で成立した執行部が自治会予算を練りはじめたばかりの5月10日、全患協本部より実力行使に対する支部意見をたずさえ14日までに代表を派遣するよう要請がきた。国会の再開が迫っており、実力行使をもって修正をかちとる決意がうかがえた。
 執行部は新評議員を招集、本部通達を討議にかけたが、議論は実力行使をめぐって二転、三転し、一日では結論が出ず、二日目になって、実力行使には反対、ただし最終段階として本部が認めた時、できるだけ出血が少ない実力行使を行なう、という態度を決定した。会議では、代表派遣は決定されたが、実力行使を避けたい気配がつよいのでは代表の受け手は無く、結局、派遣は中止された。自治会創立当時の実力行使で、二進も三進もならず苦汁をなめたことが想起されたことと推察される。
 評議員会の結論は、一般会員の意向を反映したものだった。6月はじめに青年団が行なった世論調査では、実力行使に賛成160名、反対227名、分らない26名という結果だった。そこで改めて足もとを固める必要が痛感された。このため遅まきながら6月3日に全患協の改正案を各寮に配布し、9日、らい予防法ならびに実力行使についての室長会を開催した。また10日には2時間半にわたる運動についての園内放送座談会を行なった。
 大島で運動に関する広報活動が行なわれている間に国会が再開され厚生省案が上提される日が追っていた。法案が何日に提出されるか分らなかったが、実力行使はそれまでに準備され実施しなければならない。菊池、栗生、多磨支部からは決起大会を開き作業拒否を園長に通告した旨の電報が続ぞく入ってきた。
 早くから運動の行方を見守っていた青年団、婦人会、文章会、思索会の会員は、緊急を要する事態を迎えているにもかかわらず、行動を起こそうとしない執行部にしびれを切らして、実力行使を要求した決議文を提出した。その後で2つのグループにわかれ、運動のスローガンや強制検診、強制入所、懲戒検束規定など5項目反対のアジビラ、立看板を園内の目立つ場所、場所に貼り、置いていった。それは会員に対するデモンストレーションでもあった。
 その日、本部から「全支部ノ結束ノタメ万難ヲ排シテ代表ヲ送レ」の電報が入った。
 執行部は特別委員会を開き、運動に専任すを常務委員会を設けることにし、本部へは2名の代表を送ることにした。
 15日には全会員の実力行使を問う一般投票を行なった。結果は会員の87%が実力行使に賛成、常任委員会では決起大会のための準備が進められた。
 16日、松丘支部から「二〇日総決起大会、午前六時ヨリスト突入」の電報が入り、17日には栗生支部より「六名ハンストニ突入ス」の入電があった。
 6月20日午後5時より患者総決起大会が聞かれた。
 会場正面には「懲戒検束規定反対」「強制入所反対」など、墨痕あざやかに書かれた7項目のスローガンが掲げられ、その両脇には各団体のプラカードがならび、ステージに収まりきれないプラカードは会場の壁に立てかけられた
 会場には盲人会員、松葉会員(義足)をはじめ400名をこす入園者、職員20名、共同、四国、山陽、読売の新聞記者団が詰めかけ熱気でむんむんしている。外は小雨である。常任委員による大会宣言ではじまり、常任委員長の経過報告、予防法促進会議長の挨拶、つづいて青年団、婦人会、青松同人会、思索会、盲人会の各代表が大会支持のメッセージを朗読した。はじめて壇上に立つので蒼ざめたり顔を紅潮させたりだ。ついで促進委員長が登壇し決議文の発表、満場拍手をもってこれに応え賛意を表わした。この場の様子を撮ろうとする記者のフラッシュが明滅する。常任委員が作業拒否書と声明書を朗読、最後に各支部からの激励電報と善通寺病院患者自治会のメッセージの発表があって大会は終わった。
 ひきつづいて、折柄の五月雨をついてブラスバンドを先頭に園内のデモ行進。糸のような雨の中をプラカードと傘がいり乱れながら婉えんとつづく静かな行進である。傘を持たない者は、雨に溶けたプラカードの墨や赤インク、青インクでシャツが黒く、青く、赤く染まっている。先頭のブラスバンドがメーデー歌を奏しているだけ、ながいあいだ抑圧されてきた患者の、歌のないデモ行進だった。デモ隊は中央道路を経て31寮前で西に折れ本館前の新グランドに集結した。新グランドの土を踏むのははじめてという者が多い。待ちうけていた園長に決議文と作業拒否通告書が委員長より手渡された。再び記者団のフラッシュがたかれた。
 大会の後、促進委員は園長、職員と会見し、作業拒否を行なうにあたって重症者の治療に支障が起らないよう具体的な交渉をつづけ、30日から第一次の作業拒否に入った
 その後、本部から、各支部から、そして大島支部代表から電報が、実力行使の情報が次つぎと入った。栗生、松丘支部ではハンスト者が増え、多磨は各支部代表団とともに国会前へ座りこみを決行していた。
 7月4日早暁、委員長から園内放送を通して、3日夜に到着した電文が朗読された。「最後ノ阻止運動ノタメ拒否内容強化セヨ代表団国会裏ニテハンストニ入ル」。暁の空気を破ってひびきわたる委員長の声は興奮でふるえを帯びていた。警官にとり巻かれながら座りこみをしている代表の身を案じていた者たちは、この電報で押えにおさえていた感情が爆発した。青年団、文化サークル、青松同人が6名、ついで9名の者がハンストに入った。青年団、青松同人会代表は、国会陳情の代表を見殺しにしないよう今こそ全面作業拒否を実施する時だと、拒否内容の拡大強化を要求した声明書を委員長に提出した。特別委員会が開かれ、陳情応援に2名を派遣すること、無期限の全面作業拒否の線が打出されていたが、その間に盲人会の会長、副会長の2名が、盲人会も出米得る限りの協力をするという決議文を委員会に提出して、両名もハンストに入った。つづいて一般会員の4名も加わった。午後、全面的作業拒否の方針にもとずいて一般投票を行ない90%の結果を見た。
 しかし、その日の午後、厚生省案は衆議院で可決された。一同足もとをすくわれたように茫然となった。が、まだ参議院が残っている、代表と行動を共にするのだとハンストは続行された。
 翌5日、代表から「四日午後悪法通過残念代表国会裏ニテ座込ミ中但シハンストヲ解ク全面拒否ノ電ミタハンスト押エラレタシ参院ニ運動ヲ起コセ」の電報が入った。この電報による勧告で9名がハンストを中止した。あとに残った12名も、代表からの再三のハンスト中止の要請があり、6日の正午をもって中止した。一方、特別委員会は参院厚生委員に打電するとともに職員と会談し、作業全面拒否の交渉と園長の上京陳情を要請した。会談は看護要員が容易に得られないことでもめたが、結局、作業拒否を3日間に限定すること、園長は7日に上京することで了解がついた。
 8日、患者区域内で作業する壮健さんの姿が入園者の目をひいた。食事運搬は、療舎建設にあたっている四国産業の白石組が引受け、構内掃除は女子事務員、薪運搬は男子事務員が、病室看護は善通寺病院、高松療養所から16名の看護婦がかけつけこれに当ってくれた。「結構、やってくれるじやないか」事務職員の働きぶりを見ながらこんなふうにささやかれた。3日間の全面ストはスムーズに遂行され、11日から出血の少ない作業に切換えられた。しかし、病室看護は将来看護婦に切替える含みをもたせて拒否がつづけられた。
 参議院での法案審議は患者のはげしい反対運動で、13日かららい小委員会にかけられ、15日から逐条審議にはいった模様。21日には参考人の意見聴取が行なわれたが、参考人の意見の多くは患者側に有利なものだった。しかし、公聴会の証言はいつものように無視された。
 30日には本部の指示で県庁に陳情団が出かける予定だったが、患者の動静を知った園当局は先回りして山口衛生部長の来園を要請していた。仕方なく園内で会見、特別委員会は県知事の名前で厚生省に法案の修正を要請するよう申入れをした。が、手応えがありそうな返事ではなかった。肝じんの県庁へ足を踏みいれることが抜けたので、空気が抜けた風船のよう、多磨支部が無暴と思えるような運動をくりひろげているだけにいっそうショボショボした陳情に見えた。
 8月1日の夕方、支部代表と本部より
 「四時一五分原案ニ9項目ノ付帯決議ガ付イテ委員会通過セリ三日一〇時ヨリ本会議ニカカル抗議ヲ続ケヨ」
 「現地闘争本部アクマデガンバル多磨三〇〇名座込ミ大臣来園ヲ要求シ返待チツツアリ本会議三日ノ予定支部モ力抜クナ」の入電があった。
 9項目の付帯決議とは何なのか?「抗議をつづけよ」という本部は三〇〇名の座込みをし最後の追い込みをかけているというのに、大島は運動が終了したように動かない。ハンストを行なった若者たちは体力の快復に専念しながらも、早くも無力感を噛みしめていた。たまりかねた青年団の1名が血書をかかげて本館前に座りこんだ。2日正午のことだった。彼の行動が呼び水となり、3日には先にハンストを行なった者たちを中心にした24名が座りこみに加わった。特別委員会は午後2時半から座込み者をバックに職員と1時間にわたって交渉し、園長から、厚生省に対して施行規則に9項目の付帯決議を十分盛りこみ、その実施を確約させるよう最善の努力を払う、という回答書を受けとって25名の者たちとともにひき揚げた。
 法案は参院を通過した。原案には左右社会党が反対、付帯決議は満場一致で賛成だった。
 参議院でつけられた付帯決議の概要は

 一、患者の家族の生活援護は生活保護とは別建てにすること。
 二、国立らい研究所の設置。
 三、患者と親族の秘密の確保、入所患者の自由権の保護、文化生活のための福祉施設の整備。
 四、外出の制限、秩序の維持の適正化。
 五、強制診断、強制入所は人権尊重の建前にもとづくこと。
 六、入所患者の処遇について、慰安金、作業慰労金、教育娯楽費、賄費の増額。
 七、退所者の更正福祉制度の確立、更生資金の支給。
 八、病名の変更の考慮。
 九、職員の充実及びその待遇改善。

 というもので、全患協の要求はほとんど取り入れられ、その運営を如何にさせるかで実質がかちとれる条項であった。

  

「閉ざされた島の昭和史」大島青松園入所者自治会発行
昭和56年12月8日 3版発行


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