第2部 「灯台」の群像
第1章 離 郷
1 発 病 故 山 藤 滋 海
昭和10年の春のことであった。私は両手の肘が痛み、医者の診察を受けると、冷えこみからきた神経痛で、治療をすればすぐよくなると言われ、注射とのみ薬をくれた。しかし1週間経ち2週間が過ぎてもよくならず、医者は温泉に行ったらと勧めてくれた。私は仕方なく師匠に事情を話し、郷里に帰って温泉治療をしてみたいとお願いした。そうして師匠の許しを得て家に帰り、3年ほど温泉で保養につとめた。
幸い肘の痛みはよくなったが、なぜか指先が痺れ出したので、再び医者に診てもらった。しかし要領を得なかったので、専門医に診察してもらったところ、左腕に昔の1銭銅貨ぐらいの斑紋があり、ハンセン病ではないかと身内の者に言われた。そこで私は街のはずれに小さな家を建ててもらい妻と2人で生活することにした。別府の湯の花をとり寄せて入浴したり、十薬を煎じて服用したりした。
こうしてしばらくは平穏な日々を送っていたが、或る日警察の人が来て、
「療養所に行ったらどうか、小遣いもくれるし、衣服もくれる。それに治療代は1銭もいらん。病気が治って帰る者もあるそうだから、是非行ったらどうか」
と勧めて帰った。私は今すぐというわけにはいかず、途方にくれていた。噂によると、療養所に行ったら注射で殺される、食事は麦飯ばかり食わされて、倒れる人もあるという。私は同じ死ぬのであれば、往みなれたこの家で死にたいと思った。それ以来たびたび警察の人が来るようになった。私は、
「近所の手前もあるし、罪入じやないんですから私服で来て下さい。逃げもかくれもしませんから」
と頼んだ。私がなかなか応じないので、警察はこんなにも言ってきた。
「今年は紀元2600年に当るので、患者はみな療養所に入れることになっている。あんたが行かないときは、県の衛生課に通告して強制収容することになる。それでもよいか」
と言った。
「私はすでに家族と離れて住んでいるから強制収容を受ける理由はありません。たとえ県庁から来ても行きません」
とこばんだ。警察の人は困ったあげく、近所の人たちに、あそこへは行かないようにとふれて歩いた。それで親しい人までが家に来なくなり、私はどうしてよいか分らなくなった。警察からはやかましく言ってくるし、こわくなって自殺まで考えた。
しかし様々な圧力にたえきれず、あれ程反対してきた療養所行きを遂に決心し、15年の9月30日、大島青松園に入団したのである。
残された明り
それから1年余りして、あの怖ろしい大東亜戦争が始まった。
不便な小島で700の病友は不平不満も言わず、戦地でたたかう気持で生活していた。食料も不足し、主食は1日2合、麦がほとんどで米粒は切手を貼るのに探さなければならないばどであった。また代用食が出るようになり、芋なら100匁、うどんは半束が1食分だった。私は毎日空腹をみたすため山に行って、ハコベラ、オオバコなど、食ぺられるものはなんでも取って帰り、海水で昧をつけ雑炊にして食べた。また秋には甘藷のつるをもらって来て、茎や葉も同じようにして食べた。
こんなにしながら、1日1日身を削られるような思いで過していたが、栄養不足から、私も病友も極度に衰弱し、病気は悪くなっていった。
私は衰弱から顔面神経痛をおこし、医者の診察を受けたが、医薬品の不足から、1日3回服用するところを1服しかもらえなかった。神経痛に伴う眼痛でやりきれず、医者に苦痛を訴えたところ、医者は、
「余り痛むなら、仕方がないから眼球を抜きなさい」
と言われた。その後しばらくして、少し痛みはとれたが、しかし両眼ともものを見ることが出来なくなった。私は残念でならず、なんとかして目が見えるようにならないかと思い、医者に相談した。すると医者は、
「あなたには詳しいことは話しにくいので、誰か友人に来てもらって下さい」
と言われた。それを聞いて私は、もう見込みがないことを直感した。その夜は一睡もできなかった。翌日、友人に頼んで医者の所に行ってもらった。帰って来た友人は、私に向って言いにくそうにしていたが、結局何も言わず、元気を出して大事にするように……、と慰めてくれた。
それ以来、眠れなくなり、睡眠薬を出してもらって飲んだ。そんなときある人が、
「睡眠薬を多量に飲んだら死ねる」
と言ったので、溜めようとしたが、3回ほど出してもらうと、中毒になるから……、といって止められてしまった。それで仕方なく、病友に頼んで、高松の薬局から買ってもらおうとしたが、私が自殺を計ると思ったのか、高松には売ってない、といって買ってくれなかった。
そうこうしているうちに、新薬プロミンの治療が始まり、私も24年1月より、2グラムの注射をうってもらうようになった。それからは頭が軽くなり、息苦しかった咽喉もらくになった。プロミン注射を続けるうちに、26年頃になって、うすうす目に明りがもどってきた。そして日中はまぶしいほどになり、ひょっとしたら目が見え出すのではないかと思い、注射の量を増やして1日5ダラムうってもらうようにした。すると道が見えるようになり、この調子では元通りになるのではないか、と希望をもった。
ところが、28年の9月13日の夕方、風呂から帰って再び目が痛み始めたので、翌日眼科の診察を受け、注射をうってもらったが、痛みは止まらなかった。それで夕食後、病棟に入室させてもらったが、どうしても痛みはおさまらず、医者に訴えると、
「ほかに手当はなく、眼球を摘出する以外に、痛みを止める方法はない」
と言われた。そして、19日の夜、わざわざ来て目を診てくれましたが、その時にはもう腫れあがり、膿をもっていた。
「これでは摘出も出米ないのでこのまま治療しよう。学会に行くので留守になるが、あとのことは看護婦に指示しておくから、私かいなくても心配はない」
と言って帰られた。
それから少しずつ痛みがやわらぎ、まだ明りも分かるようになってきた。その嬉しさは筆や言葉にあらわせないほどで、眼前指数の僅かな視力ではあるが、今も私に与えられている。
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