わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第1章 離 郷

 6 作男と私            佐 野  新

 私は讃岐のある農家の一人息子として生れましたが、家は働き手が足りないので、一人の青年を作男として、両親と三人で耕作していました。その人は大変真面目によく働き、両親に気に入られておりました。私にも優しく、兄のように慕っていました。
 私が小学校Ⅱ年生のとき、母が心臓麻痺で突然亡くなり、その死は悲しみよりも驚きが先に立ち、ただ茫然と母の死に顔を見つめていると、今にも目をあけて私の名を呼んでくれるようでした。あんなに元気で夕食を共にしたのに、死んだとはとても信じられませんでした。野辺の送りもすみ、親戚や近所の人々が帰ってしまい、家の中が灯が消えたような淋しい夜になると、悲しみが潮のように押し寄せてきました。私が大声で、母を求めて泣いていると青年がなだめてくれ、その夜はいっしよに眠りました。それからも私は青年とひとつ床に寝るようになり、毎晩のように勉強もみてもらったものです。その頃不思議に、父と寝たり、勉強をみてもらった記億はうすいのです。おそらく父は、私の眠る頃にはまだ納屋などで仕事をしており、朝も私か起き出す以前に仕事を始めていたからかも知れません。
 私が小学校4年生の夏、田植が済んで間もなくだったと思いますが、青年は高い熱を出して寝こんでしまい、そのとき顔には大きいニキビのようなものがいっぱい出て、赤く腫れていました。1週間ほどして、青年の父親が来て連れて帰りました。その人は隣り村でしたが、私は父と共にお見舞を持って、その家を何度か訪ねたことがありました。青年は5人兄弟で、そこに行くと遊び友だちがいるので、帰るのが嫌になるほど、よく遊んだものです。
 そして、2年ほど経った頃、学校から帰ってみると、やめて行った青年から手紙が来ていました。父がその手紙をくい入るように読みながら涙を流しているので、私は不審に思い、どうしたの、と聞いても何も言わず、ポケットにしまいました。
 私が15歳のとき父も他界し、義母と2人で暮らしていました。そんな時、作男をしていた青年はハンセン病にかかり、一家をあげて大阪方面に移転したのだと聞きました。私か発病したのはそれから数年後のことです。生前の父が、わが子のように可愛がっていた青年の発病を哀れに思い、手紙を読んで涙を流していたのだと思います。
 いま私が同じ病に苫しんでいることを、父は草葉の陰でどのように思っているだろうか。私の発病はもって生れた宿命か、どうか、知る由もありませんが、もし今なおあの青年が健在なら、古稀に近い老人になっているはずです。会うことが出来るものなら、私はその人の手をとって、過ぎた昔の思い出を語り合い、優しくしてもらった昔を感謝したい気持でいっぱいです。

 




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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