わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第1章 離 郷

 7 母と屋島            牧    実

 昭和34年4月10日、国民の待ちに待った皇太子殿下の御成婚の式典がにぎやかに行なわれた。その同じ4月26日、私は大島青松園にはいるため定期船大島丸に乗り、ふと目をあげると、右手に屋根の形をした屋島が目に映った。この屋島を海から眺めるのは21年ぶりである。
 小学校6年生の卒業式も終ったある日の午後、縁側に寝転んでいると、母がきて、
 「実、ちょっと相談があるんだけど……」
 と言った。
 「なんや、眠いのに」
 と言いながら起き上がると、いつもと違う真剣な母の顔があった。
 「こんなことを言うのは辛いけど、高等科に行くのをやめて、働きに行ってくれないか」
 と、話をきり出した。
 「どうしてや? 僕が働かんでもうちは困ることはないんだろう」
 これまでも田んぼの手伝いはしてきたし、山や筍のとれる竹林もあるので、別に働きに出なくても、と思ったからである。気がつくと母の頬には一すじの涙が流れていた。
 「実には決して知らすまいと思っていたんだけど、これからお母さんが話すことをしっかり聞いてはしいんよ。お母さんはね、やがてこの村にも、あんた達子供のそばにもおれなくなるんよ」
 と、そこまで言うと言葉がつまり、母の目から涙があふれた。
 「どうしたんや? どうして泣くんやが」
 と、母の気持がわからない私は、ずけずけと言った。
 「お母さんはな、人に言えん恐ろしい病気になってなあ。1人しかない男の子のあんたに、病気がうつっては大変だから、それで奉公に行ってもらいたいの」
 私は母の涙にすっかり驚き、
 「そんなに僕のことが心配なら奉公に行ってもいいで」
 と言うなり、外に遊びに出た。近所の同級生だちと空き地でキャッチボールをして遊んでいても、母の言葉がなぜか脳裡からはなれない私に、
 「気がのらないのなら、邪魔だから交代しろ」
 と言う声がとんできた。遊んでいても面白くないので、もっとよく母と話し合ってみようと思い、キャッチボールをやめて帰り、裏目から入ると、母は夕食の支度をしていた。私はそばに行き、
 「奉公に行ってもいいが、どこへ行くのや」
 「そう、行ってくれる気持になったの。じつは大阪なんよ」
 「大阪のどんな店や」
 「それはまだ分かってないの。今晩世話をしてくれる人が来ることになっているので、その時にはっきりすると思うんよ」
 と、母は言った。
 「奉公もいいけど、僕は船乗りになりたいなあ」
 と、自分の希望を言うと、母は少し考えていたが、
 「実は船乗りになりたかったの、それじゃお母さんの里の方でどこか探しでみようか」
 と、言ってくれた。それから1週間ほど経った頃、
 「ご免下さい」
 と言って、船員帽をかむり、がっちりとしたひげ面のおじさんが訪ねてきた。奥の間で着物の繕いをしていた母に知らせると、知り合いの人なのか、親しそうに玄関で話していた。そして私を呼んで、
 「この子です。どうかよろしく頼みます」
 と、頭を軽く押さえて紹介した。
 「ちょっとやんちゃ坊主ですが、なんとか1人前の船乗りにしてやって下さい。お願します」
 と幾度も頼んでいた。
 「任せといて下さい。きっと立派な船員にしてみせますから」
 と、安心させるように笑った。
 「お母さん、このおじさんのところの船に乗るんな」
 「そうよ。このおじさんの言うことをよく聞いて良い船員さんになるんよ、分った」
と言われたので、あらためてひげ面のおじさんに、
 「どうかよろしくお願いします」
と、挨拶をした。
「なかなか利口そうな子だね」
と言いながら、私の頭を撫でてくれた。おじさんは母に、
 「いつから来てもらおうかなあ、早い方がいいんだが」
 「実、いつからにする……」
 「いつでもいいよ、明日からでも」
 すると、おじさんは、
 「それじゃ明日来てもらおうか。2、3日うちには朝鮮の釜山に向けて出航することになっているから」
 と言った。
  おじさん、釜山ってどんなところ?」
 「ああ、とってもいいところだよ。元気で行ってこようね」
 「はい、よろしくお願いします」
 と、わくわくしながら頭を下げた。しばらく母と打ち合せをしておじさんは帰って行った。
 いよいよ明日は船に乗るんだ。同級生の誰よりも先に朝鮮の釜山に行けるんだ、と小さな胸に空想を描きながら眠った。翌朝目を覚ますと、昨日のおじさんの声がして母と何か話している様子で、起き出した私に、
 「実、迎えに来てくれているよ。早く顔を洗ってご飯を食べなさい」
 とせかした。私は井戸端に出てつるべで水を汲み、顔を洗っているうちに、何となく家から離れてゆくのが寂しくなった。いっそやめてしまおうか……。やめれば母が困るだろうし、まあ仕方がない、行くだけ行ってみよう。やめるのはそれからでもいい、と覚悟を決めた。実、と呼ぶ声に私は家に入り、母の用意してくれた門出の膳についた。そして迎えに未てくれたおじさんと一緒に、小松島港に行くことになり、バス停まで母も送ってきてくれた。
 「実、辛いことがあっても辛抱して、体に気をつけて元気で働くんだよ」
 と言う、母の声を背にバスに乗った。希望と不安の入りまじった複雑な思いのうちに、バスは小松島港に着いた。港で私たちを待っていた船は、150トン程の機帆船東洋丸であった。岸壁より少し離れて停泊している船に向っておじさんは、
 「おーい、東洋丸、東洋丸」
 と、大きな声で呼んだ。すると1人の船員が甲板に出てきて、
 「今迎えに行く」
 と言いながら、タラップに繋いでいる伝馬船に乗り移り、艪を漕ぎながらこちらへ近づいてきた。岸壁に着くと、
 「船長、早かったねえ」
 と声をかけたので、私はひげ面のおじさんが東洋丸の船長であることをはじめて知った。これからはおじさんでなく船長と呼ばなくてはいけないと思った。伝馬船に乗りこんだ私は、
 「僕が艪を漕いでみようか」
 と言うと、船長は優しく、
 「坊主、艪が漕げるのか」
 「はい、少し位なら漕げると思います」
 「では漕いでみるか」
 と言ってくれたので迎えに来た人と代って艪を握った。
 「なかなか上手ではないか。いつ覚えたのかね」
 「夏休みなどに川べりにつないでいた船で、艪を漕ぐことを覚えたんです」
 「そうか。これからは色々なことを覚えて貰わなければならんから、しっかり頼むぞ」
 「はい」と、元気よく答える私に、船長の笑顔がかえってきた。東洋丸の甲板には5人程の人達が出迎えてくれた。船長は私を紹介し、
 「今日からはみんなの言うことをよく聞いて、しっかりやるんだぞ」
 と力強く励ましてくれた。その後船員見習いとしての心がけや注意などを教えてもらい、決めてもらった狭いベッドに横になったが、船べりを洗う波の音などでなかなか寝つかれなかった。ふと体があまり揺れるので起き上ると、いつの間に出航したのか、東洋丸は晩方の鳴門海峡に差しかかっていた。あわててブリッヂに上ると、
 「やあ目が覚めたか」
 と眠気まなこの私に、船長が声をかけてくれた。
 「今日1日は先輩のすることをよく見ておくがいい。明日からは乗組員の飯を炊いてもらうことになるからね。では、下に降りて顔でも洗うがいい」
 私は言われた通り艫に降りて行くと、炊事場では、七輪にコークスをおこし、おつゆを炊いているのか、おいしそうな匂いがしている。
 「すみません、顔を洗う水はどうしたらいいのですか」
 と聞くと、沢庵を切っていた手をとめて、
 「そのタンクのコックをひねって水をとれ。陸とちがって船の水は貴重品だから大事に使え」
 私は言われた通り、恐る恐る洗面器に1杯の水をとり、それで歯も磨かず顔だけを洗った。
 「何か手伝うことはありませんか」
 「それじやあ、この食事を船長室に持って行ってもらおうか」
 と言われたので、お膳を両手で持ち、階段を上ろうとしたが、船が横揺れするので思うように上ることが出来ない。その様子を見ていた先輩は、
 「波のあるときは、このようにして階段を上るんだ」
 と言いながら、私の手からお膳をとると、バランスをとってさっさと階段を上って行った。これはなかなか大変だ。明日からは6人のご飯やおかずを炊かなくてはいけない。果たして自分に出来るだろうかと思うと、朝食も喉を通らなかった。
 東洋丸は鳴門海峡の潮にのり、瀬戸内海を引田沖、志度沖と過ぎてゆく。船長が、
 「坊主、舵をとってみるか」
 と、ラットを持たせてくれ、
 「マストをあの屋根の形をした山に向けて持っておれ」
 と言った。
 「船長、あの山は何という山ですか」
 「あれは屋島というんだ。あの山はどこから見てもあのような形に見えるんだよ」
 「船長、この右手の島は何という島ですか」
 「あの島か、あそこにはかわいそうな病気に罹った人が暮らしているんだよ」
 「かわいそうなって、どんな病気ですか?」
 と尋ねると、
 「坊主のお母さんと同じ病気だよ。癩というんだ」
 私はそれを聞いて愕然とした。子供の頃よく父に連れられて、近くの四国霊場立江寺にお詣りしたとき、参道にお遍路姿の癩患者を見かけたことがあった。母はそんな病気に罹っていたのか。それで私を奉公に出そうとしたことを……、船長の言葉ではじめて知ることが出来た。かわいそうなお母さん……、家からも私達からも離れて、この島に来なければいけないのか、と思うと胸が熱くなり、ラットを握っている手の力が抜けてゆくのを覚えた。私の気持をよそに東洋丸は西へ西へと順調な航海をつづけ、無事釜山についた。そして2泊3日をそこで過ごし、九州の若松、佐賀とつぎつぎ港を廻り、1年半余り小松島には帰らなかった。
 その後母は、大島ではなく、岡山の邑久光明園に入ったが余病をおこし、10か月程で亡くなってしまった。せめてもの慰めは、あれほど心配していた私の発病を知らずに逝ったことである。母のことや、船員になって南方まで行ったことなど思っているうちに、船足が落ち、我にかえると船はすでに青松園の桟橋に近づいていた。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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