第2部 「灯台」の群像
第2章 失 明
16 山 羊 故 田 熊 公 民
5、6年前のことでした。当時、私の目はまだ山の道がうす白く、道ばたの松の本がぼーっと見えていました。視力0・01か、2といったところでしょうか。
毎日退屈になると、天気でさえあれば同室の人といっしょに、日に何度となく山へ散歩に行っていました。山にのぼる途中には、毎日場所をかえてではありますが、2、3匹の山羊が道ばたの木につないでありました。その中の牡山羊は人に突っかかってくる、という話を聞いていましたので、それがこわくてなりませんでした。
あれは9月の末ごろだったでしょうか。ちょうどキリスト教会の裏あたりまで来たときでした。私の前方から、白いものがこっちに向って歩いて来るようです。太い角をもっているというあの牡山羊に違いありません。
私は少しずつ後へさがりながら、杖を左右に大きく振って、「シッ、シッ…」と追いましたが、いくら後へさがって追いはらっても、私に向って来るのです。私の体は恐ろしさで硬くなり、悲鳴に似た叫びがこみあげてきました。
その時、「それはうちの人やで、田熊さん」という声が聞こえてきました。Tさんの声でした。それから先は、もう言わなくっても分ってもらえると思います。私は平謝りに謝りました。Tさんは何でもなかったかのように笑って行きました。
こうした笑いごとの中にも、深い悲しみが私の体の中を走るのを感じました。こんな失敗談も、今の私にはなつかしく、忘れられない思い出です。
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