わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第2章 失 明

 16 山 羊            故 田 熊 公 民

 5、6年前のことでした。当時、私の目はまだ山の道がうす白く、道ばたの松の本がぼーっと見えていました。視力0・01か、2といったところでしょうか。
 毎日退屈になると、天気でさえあれば同室の人といっしょに、日に何度となく山へ散歩に行っていました。山にのぼる途中には、毎日場所をかえてではありますが、2、3匹の山羊が道ばたの木につないでありました。その中の牡山羊は人に突っかかってくる、という話を聞いていましたので、それがこわくてなりませんでした。
 あれは9月の末ごろだったでしょうか。ちょうどキリスト教会の裏あたりまで来たときでした。私の前方から、白いものがこっちに向って歩いて来るようです。太い角をもっているというあの牡山羊に違いありません。
 私は少しずつ後へさがりながら、杖を左右に大きく振って、「シッ、シッ…」と追いましたが、いくら後へさがって追いはらっても、私に向って来るのです。私の体は恐ろしさで硬くなり、悲鳴に似た叫びがこみあげてきました。
 その時、「それはうちの人やで、田熊さん」という声が聞こえてきました。Tさんの声でした。それから先は、もう言わなくっても分ってもらえると思います。私は平謝りに謝りました。Tさんは何でもなかったかのように笑って行きました。
 こうした笑いごとの中にも、深い悲しみが私の体の中を走るのを感じました。こんな失敗談も、今の私にはなつかしく、忘れられない思い出です。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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