第2部 「灯台」の群像
第2章 失 明
17 めしいとつんぼ 故 岸 野 ゆ き
ある日、夫は畑から帰って来るなり、
「おばァよ、花野菜の葉をこんなにようけ取って来たぞ」
と、大きな籠を抱かせてくれた。
「人の話しでは、お前の体には野菜の汁が大変良い言うんじゃが、青くさいかも知れんが試しに飲んでみるか。ミキサーでもあればよいのだが……」
と、夫はつぶやきながら、四畳半にゴザを広げて、擂鉢を取り出し、花野菜の葉をいっぱい入れて、
「擂鉢のヘリを押さえておれ」
と言いながら、すりこぎで斯き搗きはじめた。すると、擂鉢の底の方で、何かガサガサ変な音がし出したので、
「小石でもくっついているんじゃないの」
と言ったが、耳の遠い夫にはその音が聞こえないらしく
「浜から取って来たもんじゃなし、石なんかついているはずがない」
「ひょっとしたら、カタツムリが葉の裏にくっついているのではないかしら」
「お前は貝が好きだから、カタツムリであってもよかろうが……。カタツムリは何かの薬になるというじゃないか」
と、私の言うことも聞かずに、搗くことを止めなかった。それでもやはり嫌な音は耳につくし、夫は言うことも聞いてくれず、私はヘリを押さえているのが嫌になり、プイと立ってラジオの前に来て坐った。
すると夫は両足を投げ出して、擂鉢を足ではさんで1人ですっていたが、花野菜の汁が流れ出しだのに気づいたらしく、あわてて擂鉢を持ちあげ、
「あーっ、しまった。紅猪口ぐらいの穴があいとる」
と言った。そこで私は、
「おっさん、あんたは紅猪口を知っているんかな」
とたずねると、
「うん、知っとる。おれは女きょうだいの中で育ったのだから……」
と答えた。紅猪口というものは、今の若い人は知らないだろうが、私の子供の時にはお酒の猪口より少し形の違った、瀬戸物の小さい猪口に紅の素を入れていたものである。それに紅さし指の先をちょっぴり濡らしてまぜると、真に美しい紅ができ、それをよく唇にぬったものである。紅猪口のあいたのに水を1,2滴入れて、紅をとかし、さばき筆で頬紅をぬったりしたことなどを憶えている。
「子供のころはからの紅猪口が沢山あってな、まま事のお茶碗やおさらにして、お茶碗には砂を盛り、お皿には海草を盛ってよく遊んだもんよ」
と言うと、夫は、
「おれも姉や妹と、紅指目に山桃や野イ千ゴを盛り、皿にはイタドリを入れてよく遊んだものだ」
と、幼い頃の思い出を語り合って笑った。夫は思い出したように、
「少し残っている汁を飲んでみるか。うまそうな汁が湯呑一杯とれたぞ」
と、飲ませてくれた。青くさくもなく、思ったよりおいしかったが、飲んでしまったあとで、さっきの変な音を思い出して嫌な気もした。夫が洗ってきた儒鉢の穴を舌の先で探ってみると、やはり紅猪口ぐらいの穴があいていた。
「よくまァ、こんなにきれいな穴があいたもんだネ」
と笑っていたら、お隣りのご主人が、
「なんと賑やかやナー。面白いことでもあるのかね」
とのぞいた。夫は早合点をしたのか、
「これ欲しいんか。良い植木鉢じゃ。山に行って手頃の松でも引いて来て植えれば、よい盆栽になるし、また蘇鉄の小さいのでも楯えると肥しは要らんし、釘のさびたのか縫針の折れたのを根元においとけば、立派に育つぜ」
と言ったので、ご主人は笑いながら小さな声で、
「植木鉢にな、貰いに来たようにとられたかな?」
と言って、3人が大笑いをした。
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