わたしはここに生きた   <盲人会五十年史> 国立療養所大島青松園盲人会五十年史

                   本書をハンセン病盲人に愛と理解を寄せられた多くの人々に捧げる

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第2部 「灯台」の群像

 第2章 失 明

 19 開眼手術            小 原 運 重

 私は大正11年9月に、28歳で当園に来ました。入園した頃は体が弱く、専ら治療につとめましたので、2年ほどで病気も落着き元気になりました。
 そうなると、じっとしておれない性分の私は、園内の土方仕事や農園作業などに働きましたが、これらの作業はかなりの重労働なので、手足に傷が出来たりして、その都度不自由になってゆきました。それでもなお働き続けていましたが、昭和29年の7月、急に妻に先立たれ、私はその年の9月に夫婦寮から独身不自由寮に移り、淋しい日々を送っておりました。
 妻に逝かれた空虚さと、これまで働きすぎた疲れがいち時に出たのか、病状が悪化しはじめ、神経痛に悩まされるようになりました。激しい痛みのため普通の薬では利かなくなり、きつい内服薬や注射をしてもらって耐えておりました。このようなことが2、3年も続いたせいか、33年の7月、突然目が見えなくなり、懸命に治療を受けましたがいっこうに視力は回復せず、苦悶の日を過しておりました。
 そんな時、徳島医大の眼科の先生が来園されたので、藁をもつかむ思いで診察を受けたところ、手術をすれば少しは見えるようになる、と言われたので、私は先生にお願いして、手術をして下さるのを待っておりました。
 その後、2回ほど徳大の先生は来園されましたが、いろいろの事情で手術をしてもらうことは出来ませんでした。私のほかに、視力が回復すると言われた者同士4名が相談して、一日も早く手術を受けて良くなりたい一心から、園長先生や自治会に、私たち盲人の悩みや苦しみを訴え、開眼手術の実現を再三にわたってお願いしました。
 私たちのこの切実な願いがようやく聞き入れられ、徳大の先生が手術にお出で下さるとの知らせを受けたのは、昨年の暮れのことでした。それを聞いた時の私の喜びは筆や言葉で表すことはできません。
 そして正月気分のまだぬけきらぬ7日に、待ちかねていた先生がお出でになり、早速診察をして頂き、明けて8日に開眼手術を受けました。術後の経過は良いと聞いておりましたが、期待と不安のうちに10日目を迎えました。
 きょうはいよいよ包帯がはずされる日で、朝早くから目が覚め、7時、8時と時間が気にかかり、時計の音ばかりを聞いておりました。朝食も終り、9時半ごろ、先生と看護婦さんが入って来られました。先生が包帯を上から上から解かれてゆくうちにも、胸の高鳴りをおさえることは出来ませんでした。先生の言われるままに、おそるおそる目をあけますと、見える、見えるではありませんか。先生や、看護婦さんの姿がまぶしく、しばらくは、言葉にならない言葉をつぶやいておりました。
 それから、3週間ほどで退室しましたが、視力はだんだんと落ちついてきました。目の見えることほど有難いものはありません。このしあわせを一人でも多くの盲友にわかちたいものと思います。

  




「わたしはここに生きた」大島青松園盲人会発行
昭和59年1月20日 発行


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