第2部 「灯台」の群像
第2章 失 明
20 闇を通って 南 部 剛
私は失明してもう26、7年になる。ハンセン病を発病して以来、ずっと家庭療養をつづけていたので、病気が徐々にすすむにつれ、眼の方も調子が悪いと気がついていながらも、充分な治療もできず、そのまま失明してしまったのである。
大東亜戦争も敗戦に終り、物資は極度に不足し、なかでも主食である米の不足は著しく、そのため農家は割当てられる供出来の確保に懸命であった。私のうちでも手数のかかる山田が多く、家族だけにまかしておけず、私も病苦に鞭うって百姓仕事に励んでいた。そうした或る日、田圃からの帰り道浜辺に出て何気なく沖の方を眺めはっと息をのんだ。藍を流したような海の彼方に浮かぶ島影、漁師町の家並、近くの弁天島など、長年見なれてきた景色が今日に限ってすばらしく美しい。まるで錦絵のようなのに思わず眼を瞠った。そのときすでに私の眼は緑内障に罹っており、それが後日失明にいたる前兆であったとは、夢想だにしなかったのである。その後そこを通る度に沖を眺めてみるのだが、錦絵のように見えた現象はそれきりで、私自身の精神的なものであったのかと、いつしか忘れるともなく忘れていた。
それから2、3ヵ月経った頃であろうか、昼食を終え庭先に出て、何気なく手のひらで左の眼を押さえる恰好で空を見上げると、不思議なことに月が出ているではないか。おやこれは変だぞと思い、なお確かめようとして手を離すと、真夏の太陽の直射で全く眼が開けていられない。また前のように左の眼を塞ぐと、太陽は丸いぼんやりした月のように見える。これは右の眼が悪くなっているのではないかと気になり、急いで部屋にかけこみ、鏡台の前に坐って鏡にうつる両眼をじっとみつめた。以前はよく真っ赤に充血していた眼も充血がなく、きれいな眼をしていて、少しも変った様子は見当らない。なおよく注意して見ていると、左眼の瞳の中に小さく私の顔がうつっているのに、右の瞳にはそれがないことに気づいてぎくりとした。いつの間にか右の眼が悪くなっているのに少しも気づかなかったのは、このところ病状が進行していることに気をとられていて、眼のことにまで心がとどかなかったのである。
そうしたことがあったあと、限の中に黒い芥子粒をまいたような黒点がちらつき始め、その上提灯のあかりのような黄色いものが、表われては眼の中をぐるりとひと廻りしてぱっと消えてなくなったかと思うと、また表われ今度は末成りの胡瓜のように曲った長い影が廻り始める。こうした症状が昼となく夜となく続いているうちに、何でもなかった左の眼も悪くなり、2年ほどわずらっただろうか、遠いところにあるものから次第に姿を消してゆくように見えなくなり、だんだんと視界が狭められ、いつも濃霧の中に立っているような気持であった。こうなると勝手知った部屋の中でもうろうろし、火鉢に躓いたり、小さなものをけとばして毀したりもした。眼がうすくなっていることを家族に話し、心配をかけたところでどうなるものでもないと思い、隠せるだけかくしていた。そんなことと知らない家族の者は、私のこうした態度をみて不審がり、てっきり病気を苦にしてのことと考え、なるべく私の気持を柔らげるようにと心を使い、また、あまりくよくよしないようにと言うのであった。
もはやここまで悪くなっては黙っておれず打ち明けると、母も妻も驚きおろおろと私にとりすがって泣くのであった。そして家族の強いすすめで村の医師に診てもらったが、すでに手遅れで、失明するのは時間の問題であるとはっきり言われたときには、さすがに全身の力が抜けてゆくのを覚えた。村の医師は専門外だから、なおよく町の眼科医で診てもらうようにと紹介状を書いてくれた。ちょうど夏休みでもあり、小学校の5年生になっていた娘に付添ってもらい、町の鹿島眼科に出かけた。しかしそこでの診たても前と同じであり、しばらく通院したがはかばかしくなく、付添いの都合もあって止めてしまった。
すっかりうすくなった眼には足もとの高低が分らず、畔道を踏みはずして田圃に落ちたり、また谷川に落ちてしたたか腰を打ったことも何度かあったが、大した怪我にはいたらずすんだ。近づいてくる人影も定かでなくなり、輪郭だけがぼんやり見え、誰であるのか確かめられなくなった。そうなれば田圃にも出られなくなり、家にいることが多くなった。或るとき昼を過ぎても妻は田圃からなかなか帰らず、いらいらしているところへ足音が近づいてきたので、てっきり妻だと思い、
「今じぶんまで何をしとったんか」
とどなった。すると
「こんにちは、兄さんしばらくでした、安子です」
の声に私は驚き、間違ってどなった恥ずかしさに言葉も出ない程であった。折よく妻も帰ってきたので、その場は何とか救われたが、九州の唐津から8年ぶりに妻の妹が訪ねてきたのであった。これにこりてせめて妻に
「お前だと分るように腰に鈴をつけてくれないか」
と頼んだが
「そんな恰好の悪いことできるもんかね」
と断られ、それならよく匂う香水でもつけるように言ったが、他人に誤解されても困るからとそれも断られてしまった。私は所在なく部屋でごろごろする毎日がつづくと憂うつになり、神経質になってちょっとのことにも腹を立て、妻をよくどなりつけるようになった。柱時計の打つ音を数えては、もう昼食の支度に帰ってくる頃だと待ちながら、妻の声を聞くと
「亭主と仕事とどっちが大切なんか、眼が見えんと言って馬鹿にするな」
と、どなりつけてしまうのだった。そんな自分の態度がたまらなくみじめに思えて、自分で自分をせめる、こうした心の葛藤が一層失明を早めていったようであった。
私の眼が見えなくなったことが近所に知れると、出会った人たちから
「お気の毒に眼が見えんようになったんやってな、毎日が不自由でしょう、かわいそうに」
などといたわられる度に何とも情なく、なんでそっとしておいてくれないのか、とうらめしい気さえするのであった。その頃みる夢といえば、病気が治り唄もはっきり見えるようになって、青い空や畑のほうれん草や、大根の葉の緑が眼にしみるように美しく、少し離れたところでは葱坊主が丈くらべをしている。さあ精を出して働こうと思った途端眼が覚め、何もかもが暗くぼんやりしている現実に、ふくらんだ風船がしぼむようにがっかりしてしまうのであった。毎日を部屋でひとり寝転びながら、いつまでこんなことを続けなければならないのだろう。人間飯を食って息をしているだけで生きていると言えるのであろうか。死ねばその先一体どのような世界があるというのか、地獄極楽とは本当に存在するのだろうか。などととりとめもないことを考えつづけるのであった。
そうした或る日、ふとこんなことを考えていても仕方のないことだと思い、そうだ、いっそ気晴らしに先祖の墓参りでもしてこようかと、持ちたくなかった杖を持って、近くの山にある先祖の墓に出かけた。日当りのよい場所を選んで地面に腰をすえ、
「ご先祖様若し魂がおありでしたら、私はどうすればよいのか教えて下さい」
と一生懸命になって祈った。心に何かの示唆が与えられるまで毎日でも来て坐ろうと決心し、2時間余り静かに瞑想した。日が西に傾いたのか冷えびえとした感じになり、近くの梢でさえずっていた小鳥の声も次第に聞かれなくなってきた。すると急に心寂しい思いがして、全身に水をぶっかけられたような寒気を覚えた。こんな寂しい思いで先祖様たちは墓の下でおられるのだとしたら死ぬこともまた考えものだ、いくら辛くても生きている方がずっとましだという気になり、そそくさと逃げるように帰ってきた。それ以来先祖の墓参りを私の日課として、身の廻りの出来事を生きている人に話しかけるように報告したのであった。
その年も過ぎ、翌年の6月も終ろうとする頃、家の者は稲の二番肥に忙しくしていた。昼の食事をしながら妻が
「今年はどうやらやまももの成り年らしいわ、鈴なりに成った実がもう黒く熟れかけているけど、仕事が忙しいて後2日位はとりに行けそうもないわ」
というのを聞いた。私は人がとってきて食べさせてくれるのを、つばくろの子のように待っているより、自分で行ってみようと思いたち、勝手知った畔道を杖で探りながら出かけた。竹薮の間をぬって山田の端にあるやまももの木にやっとたどりつくことができた。このやまももは父が生前接木をしたもので、登りやすいように手が加えられでいる。草履と杖を根元に置き、足もとを確かめながら登り始めた。途中で幹が3本に分れているので、その一本一本をゆすぶってみる。よく実が成ってそれが熟している幹をゆすぶると、ばらばらとももが落ちてくるので、それを選んで登ってゆく。やっとてっぺんにきたと思われるころ顔が葉の間に出た。青田から吹き上げてくる風が緊張した頬にこころよい。蛙の鳴く声が下の方から聞こえてきて、まるで雲の上にでもいるような心地だ。左手で幹をしっかりつかみ、片方の手でつぶらになった小枝を折っては口にもってくる。然していない実は口の中でより分け、ぺっぺと吐き出し甘い実だけを食べる。小枝を口もとに持ってきたとき、何か固いものが歯にふれて小さくカチンと音がしたので、驚いて唇で確かめてみると、一枚の葉の裏にかたつむりがしっかりとくっついているのだった。小さなかたつむりがこんな高いところまで登ってくるのには、かなりの長い時間を要したことであろう。眼を持たないかたつむりでさえ精いっぱい生きているのに、大の男が眼が見えなくなったくらいでくよくよしているなんて恥ずかしいことである。そうだこれからは気をとり直して生きることに努力してみようと、かたつむりのくっついている枝を落ちないよ
うに木のまたに置き、満腹した喜びと思いがけない心の転換に足も軽く帰ってきた。
庭先までくると、牛小屋の方から草をねだる牛の鳴き声が聞こえてきた。「よしよし今行ってやるからのう」と言いながら小屋に近づき、軒下に積んである草を抱えて投げこんでやると、牛はうまそうにムシヤムシヤ食い始めた。眼が見えなくなっては何もできないと思いこんでいたが、こんな身近なところに私のできる仕事があったことに嬉しくなり、なぜもっと早く気づかなかったのであろう、さがせば外にもまだまだあるはずである。時間をかけて気長にやれば、かなりのことは出来るのではないかと思った。おかげで牛とも仲良くなって気をよくしたが、1日分の餌として用意しておいた草が昼過ぎにはなくなってしまい、家族の者を慌てさせた。そこで私は眼がうすくなるまで鎌を握っていたので、前のように草は刈れないものかと思い、そっと鎌を持ち出し畔道のよく伸びているところを選んでしゃがみこみ、杖を腰に差して恐るおそる鎌を使ってみた。この分だと少し稽古をすれば刈れそうな気がした。日を重ねるうちに次第に以前の調子をとり戻し、昼までには一荷の草が刈れるようになった。刈った草は妻が集めて運んでくれた。
辛い現実から何とか逃れようと思いわずらっていたが、失明というきびしさのなかで、自分の生きてゆく場をみつけようと、あらためて心に誓ったのであった。
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